第8話 改善する前に決まっていた
神田の自宅ワンルーム。深夜二時。
アイボリーのタイルカーペットが敷かれた部屋の隅で、ケージの中の小さな毛玉が静かな寝息を立てていた。ポメラニアンのロクだ。我が家に来てまだ日も浅いが、新しい環境にはすっかり慣れ、無防備な腹を見せて眠っている。
任三郎はロクを起こさないよう足音を忍ばせて窓を開け、ベランダに出た。
初夏の生ぬるい夜風が頬を撫でる。眼下には、深夜になっても絶えることのない首都高の車のライトが、オレンジ色の動脈のように流れていた。
任三郎の手には、ロックグラスに注がれたラガヴーリンの十二年物。アイラモルト特有の、潮の香りと強烈なピート香が鼻腔を突く。
もう一方の手には、ボリバー・ロンズデール。キューバ産のハバナシガーだ。
シガーカッターで吸い口を滑らかに切り落とし、マッチでゆっくりと火を入れる。濃厚な土とスパイスを思わせる力強い香りが、ウイスキーのスモーキーさと混ざり合い、肺の奥底まで染み渡った。
紫煙を夜空へ細く吐き出しながら、任三郎の思考は昼間に行われた中村航平からの聞き取りへと戻っていた。
ルミナスコード株式会社。試用期間中の本採用拒否。
『試用期間中の総合的判断』『組織適性不足』。
六月に入ってからの急激な低評価の集中。その直前、五月末の打ち上げの席で上司から告げられたという、排除の意向。
結論が先にあり、理由は後から書類上で補強される。
佐々木紘子の案件で見たものと、構造が酷似している。これは桐和ヒューマンキャピタルが提供している「組織適性改善支援」あるいはそれに類する退職勧奨パッケージの痕跡だ。
グラスの氷がカランと鳴った。
桐和の影が見えた途端、胸の奥で燻っていた怒りが、制御しきれない焦りへと変わるのを感じる。俺を「情報管理上の不適格」として切り捨てた、鷺沢征司の整った顔が脳裏をよぎる。あの男は今も涼しい顔で、誰かの人生を『適正な記録』として処理し続けているのだろうか。
早く尻尾を掴まなければならない。あの不気味なほど整えられた記録の裏側にいる人間を、白日の下に引きずり出すために。
深く煙を吸い込み、任三郎はグラスを煽った。焦燥を、強烈なアルコールとニコチンで無理やり胃の腑に流し込むように。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後、労務記録相談室「逆転帳」。
外の蒸し暑さを完全に遮断した室内には、エアコンの微かな駆動音だけが響いていた。
来客用のテーブルには、中村航平が再び姿を見せていた。彼の目の前には、任三郎が前日に求めた「五月までの業務成果」と「六月以降の面談日時」を整理した数枚のメモ書きと、私用のスマートフォンで撮影されたと思しき、社内チャットのログのプリントアウトが置かれている。会社のシステムにアクセスできなくなった彼が、焦りと不安の中で辛うじて個人の端末に残していたものだ。
「……とりあえず、記憶を頼りに書き出してみました。チャットのログは、自分の反論の証拠になるかと思って画面を撮っておいたものです」
中村が差し出した、少し端の折れた資料を、紘子が受け取る。
「拝見します」
紘子の声は、前日よりも明らかに硬かった。彼女なりに、中村を正論で萎縮させてしまった前日の対応を気にしているのだろう。感情を交えまいと、ひたすら事務的に書類をめくっている。
そのテーブルには、この日は伊藤みのりと田中襟華も同席していた。第一案件が法的に完全終了したこともあり、新たな案件の初期判断のために任三郎が協力を仰いだのだ。
みのりが中村の持ち込んだメモと、事前に任三郎が整理していたルミナスコードの就業規則の抜粋を見比べる。彼女の大きく知的な目が、鋭く文字を追っていく。
「これ、業務改善指導の期間がやっぱりおかしいわね」
みのりはペン先で、中村のメモの「六月」の箇所をトンと叩いた。
「試用期間中の本採用拒否は、通常の解雇よりは会社に広い裁量が認められる。でも、だからといって完全に自由に切れるわけじゃないわ。能力不足や協調性の欠如を理由にするなら、適正な指導と改善の機会を与えるのが原則よ」
みのりは早口で、しかし中村にもはっきりと分かるように要点を突いた。
「この会社の就業規則と一般的な実務に照らし合わせても、本気で改善指導をする気なら、最低でも一ヶ月から二ヶ月は様子を見るべきよ。それが、六月に入ってからのわずか数週間、しかも週に一度の面談だけで『改善見込みなし』って結論づけてる。最初から切るつもりで、面談の回数だけこなした形ね。書類上の体裁を整えるためだけの、後付けの指導よ」
「……間違いない」
任三郎は低く呟いた。昨夜から頭を支配している直感が、確信へと変わる。
「紘子さんの時と同じだ。桐和の支援手法だ。書類の体裁だけ整えて、期間満了での退職に追い込む。……田中さん、すぐにルミナスコードへ内容証明を送りましょう。指導記録の開示とともに、桐和の関与を問いただす」
任三郎の言葉は熱を帯びていた。早すぎる。
「佐藤さん、やめてください」
冷水を浴びせるような、襟華の静かな声が響いた。
彼女はクリアファイルをテーブルに置き、理路整然とした、しかし厳しい視線で任三郎を射抜いた。
「それは調査ではなく、ただの暴走です。処理の期間が不自然なことと、桐和が直接関与していることは別の問題です。似た文言や手法があるからといって、法的な証拠にはなりません。憶測だけで会社に踏み込めば、相手に警戒され、揚げ足を取られるだけです」
「だが、構造は完全に一致している」
「だから何ですか」
襟華は一歩も引かない。弁護士としての冷静さが、彼女の言葉の端々に宿っている。
「今、私たちが守るべきは中村さんの権利です。桐和への追及は、確たる証拠が出てからにしてください。あなたの焦りは、依頼人の不利益になります」
反論しようとした任三郎だったが、襟華の正論の前に口を閉ざした。昨夜の葉巻と酒がもたらした焦燥が、まだ頭の芯に残っている。桐和への執着が、目の前の依頼人への対応を歪めかけていた。襟華の言う通りだ。今は目の前の事実だけを見るべきだ。
その重い沈黙を破ったのは、紘子の声だった。
「……でも、このチャットのログ。これはちょっと、目に余ります」
紘子はプリントアウトされた数枚の画像を示した。
そこには、中村が他部署の担当者や直属の上司に対して送ったメッセージが残されていた。
『その仕様変更は技術的に無意味です。なぜ理解できないんですか』
『前にも言いましたよね。納期を遅らせるだけの愚策です』
相手の立場や状況を一切考慮しない、攻撃的で空気を読まない文面の数々。
紘子は必死に自分の口を閉ざそうとしていた。だが、プリントアウトされた中村の、露骨にトゲのある並ぶチャット画面を見つめるうちに、彼女の眉間がみるみる険しくなっていく。
かつて自分が同じように他者を正論で切り捨て、結果的にチーム内で孤立した苦い記憶が、中村の横柄なログと重なり、喉の奥の自制心を激しく揺さぶった。この男の性格の問題まで、すべて会社のせいにして擁護する必要があるのかという苛立ちがこみ上げる。
「……中村さん」
抑えようとした紘子の声は、低く、しかし隠しきれない苛立ちを孕んで漏れ出た。
「あなた、技術的には正しいことを言っているつもりなのでしょうけど、これじゃただの和を乱す人です。……やっぱり、あなたにも問題があったんじゃないですか」
中村は顔を青ざめさせ、再び下を向いた。
「……すみません。やっぱり、僕の性格が……」
「中村さん」
任三郎が、静かに声を張った。
全員の視線が任三郎に集まる。彼は深呼吸をし、いつもの淡々とした、事実だけを切り分ける目に戻っていた。
「このチャットの文面や、会議で人の話を遮ったという事実は、誰がどう見てもあなたの対人面での問題です」
中村の肩がビクッと跳ねる。
「ですが」
任三郎は続けた。
「あなたに性格上の欠点があることと、会社が適正な指導期間をすっ飛ばして、後付けの評価で本採用拒否をしていいこととは、全く別の問題です」
紘子は言葉を失い、書類を仕分ける指先をピタリと止めた。
自分の案件の時、任三郎が言ってくれた言葉と重なっていた。
『あなたの性格と、記録を書き換えていいかは別でしょう』
そうだ。自分に非があっても、それを理由に会社が不正をしていいわけではない。自分自身が誰よりもその理不尽に苦しんだはずだった。
「桐和のことは横に置きます。田中さんの言う通りだ。今はルミナスコードの手続きと、あなたの問題に集中する」
任三郎はペンを取り、案件帳に事実を書き込んでいく。
「中村さん、今後はコミュニケーションの取り方を具体的に改善する必要があります。相手を否定する言葉から入らないこと。これは絶対の条件です」
「……はい」
「その上で」
任三郎はペンを止めた。
「あなたが強く反発したという『仕様変更』についてですが、これは単なるわがままだったのか、それともエンジニアとして技術的な正当性があったのか。そこが問われます」
もし、中村の主張が技術的に正しいものであり、会社の仕様変更が無意味なものであったなら、「総合的判断」という会社側の評価自体が根本から揺らぐ。単に「扱いづらい社員」として切り捨てられただけで、業務上の価値はあったことになる。
「……僕は、間違ったことは言っていません。あの仕様変更は、納期を遅らせるだけでシステムの安定性を損なうものでした。だから、引けなかったんです」
中村が初めて、はっきりとした声で言い返した。俯きがちだった彼の目に、エンジニアとしての確かな矜持と熱が宿っている。
「なるほど」
任三郎は頷いた。しかし、と心の中で呟く。
俺にも、襟華にも、みのりにも、紘子にも、その「技術的な正当性」を客観的に評価することはできない。専門外の領域だ。中村の言葉が真実だとしても、それを証明する手立てがこの場にはない。
「中村さんのエンジニアとしての成果が、市場から見て本当に価値があったのか。ただの厄介者として扱われるべきではなかったのか。それを客観的に整理できる人間が必要です」
任三郎はスマートフォンを取り出し、山本ゆき子の連絡先をタップした。耳元で静かに鳴り響く呼び出し音を聞きながら、彼は案件帳の白い余白をじっと見つめていた。




