第7話 試用期間だから
休日の丸の内のオフィス街。平日ほどの喧騒はなく、街路樹の緑が初夏の風に揺れている。その一角にある、落ち着いた雰囲気のカフェテラス。パラソルの影が落ちるテーブルで、佐藤任三郎と田中襟華は向かい合って座っていた。
「佐々木紘子さんの口座へ、未払い残業代と解決金の着金を確認しました」
アールグレイの香りが漂うティーカップを静かにソーサーへ戻し、襟華が告げた。
休日のためか、今日の彼女はいつもの隙のないスーツ姿ではない。グレーのノーカラージャケットに、デコルテがわずかに覗く薄手の白ニット。少しだけ私服寄りの、柔らかな装いだ。それでも、真っ直ぐに伸びた背筋と、知的な目鼻立ちから醸し出される近寄りがたいような上品さは健在だった。彼女の手元には、数枚の書類が収められた薄いクリアファイルが置かれている。
「合意書通り、評価記録の訂正も完了しています。退職証明書と離職票の離職理由についても『会社都合』で処理されたことを、伊藤先生が確認済みです」
「……ありがとうございます。助かりました」
任三郎が短く頭を下げると、襟華はわずかに眉を動かした。
「私は代理人として、当然の仕事をしたまでです。和解条件を文書と期限で縛り、履行させる。それが私の領域ですから」
「それでも、田中さんがいなければ、会社側にあそこまで綺麗に条件を飲ませることはできなかった」
「……佐藤さんの整理した時系列があったから、会社側も言い逃れができなかった。それは認めます」
襟華は少しだけ視線を逸らし、早口で付け加えた。照れ隠しのように実務的な説明が長くなるのは、彼女の不器用な癖だった。
「非公表条項も着金をもって発効しましたから、佐々木さんはこれで過去の会社に縛られることなく、本格的に再就職活動に専念できるはずです。法的にも、この一件は完全に終了しました」
任三郎は静かに頷いた。紘子の第一案件は、こうして確かな着地点を迎えたのだ。
「ところで、佐藤さん」
襟華がふと、細い指先で自身の目の下を指差した。
「目の下にクマがありますよ。ちゃんと食べて、休んでいるんですか? いくら調査や整理の能力が高くても、自己管理ができていないようでは専門家として失格です」
「……少し、夜寝るのが遅くなっていまして」
「夜更かしして、また一人で勝手に会社の資料を漁っているんじゃないでしょうね。合法的な証拠集めの線を越えないようにと、あれほど言ったはずですが」
理詰めで追い詰めてくる襟華の口調は厳しいが、その奥にあるのは明らかな「心配」だった。任三郎は軽く肩をすくめ、テーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスの結露に触れた。
「違法な調査はしていません。単に、犬を飼い始めまして。その世話で手を取られているだけです」
「……犬?」
襟華の大きな目が、驚きに丸くなった。
「佐藤さんが、犬、ですか?」
「おかしいですか」
「いえ、少し……意外だっただけです。あなたがそんな、生活感のあることをしているなんて想像もしていなかったので。……お名前は?」
「ポメラニアンのロクです。」
「……そう、ですか」
襟華の顔に、ふっと柔らかい微笑みが浮かんだ。張り詰めた実務家の顔から、年相応の女性の顔に戻った一瞬だった。彼女のそんな柔らかな表情を見るのは、任三郎にとっても初めてのことだったかもしれない。しかし、彼女はすぐに小さく咳払いをして、表情を引き締めた。
「ちゃんと面倒を見てくださいね。あなたは他人の記録のことになると鋭いのに、自分のことになると途端に雑になるんですから。あなたが倒れでもしたら、困るのは依頼人なんですよ」
「……善処します」
説教という形でしか気遣いを見せられない彼女の不器用さを、任三郎は嫌いではなかった。
★★★★★★★★★★★
数日後。神田の古い雑居ビルにある労務記録相談室「逆転帳」。
事務所の風景は、以前とは少し変わっていた。任三郎のデスク周りに無造作に積まれていたクリアファイルや書類の山は、顧客の同意書、証拠資料、版管理された時系列表など、項目ごとに美しい規則性をもって棚に整理されている。
それを取り仕切っているのは、有償の案件管理担当として「逆転帳」の業務に加わった佐々木紘子だった。営業企画時代を思わせる隙のないパンツスタイルで、彼女は手元のパソコンで予約と進捗の管理シートを睨みつけている。
その日の午後、新規の相談者が事務所を訪れていた。
ルミナスコード株式会社という新興IT企業に勤める男性、中村航平。二十代後半のエンジニアだ。度の強い眼鏡の奥で落ち着きなく視線を泳がせ、心許なげに背を丸めている。少し着古したブルーのダンガリーシャツの袖口をいじりながら、中村は来客用のテーブルで身を縮め、膝の上で所在なさげに手を組んでいた。
「……それで、試用期間での本採用を拒否された、と」
紘子が中村の持参した数枚のプリントアウトを冷ややかな目で見下ろしていた。
「はい。三ヶ月の試用期間が終わる直前になって、急に。理由は『試用期間中の総合的判断』と『組織適性不足』だと言われました」
「中村さん」
紘子の声には、営業企画としてプロジェクトを管理していた頃の厳しさが滲んでいた。
「ここにあるのは、本採用拒否の通知書と、直近ひと月のタイムカードだけですよね。会社が『適性不足』だと判断した根拠となる、業務上の指示メールや、面談の記録、成果物のデータなどはどうされたんですか?」
「いや、その……急に言われたもので、会社のシステムにもうアクセスできなくなってしまって……」
「急に言われたからこそ、手元に残せるものは日頃から保全しておくべきだったのでは? この資料だけでは、あなたの言う『不当な扱い』を証明する客観的な事実が何一つありません。会社と争うつもりなら、準備が甘すぎます」
正論で殴りつけるような紘子の言葉に、中村はすっかり萎縮してしまった。彼はうつむき、消え入りそうな声で呟いた。
「……すみません。やっぱり、僕がダメだったんだと思います。チームの和を乱すって言われて……僕の性格に問題があるから、切られても仕方ないんだって……。お忙しいところ、申し訳ありませんでした」
中村が諦めたように立ち上がろうとしたその時、少し離れたデスクで静かにノートパソコンに向かっていた任三郎が口を開いた。
「佐々木さん、そこまででいいです」
淡々とした、しかし拒絶を許さない声だった。紘子は不満げに口をへの字に曲げたが、黙って引き下がった。
任三郎は立ち上がり、中村の対面の席に座った。その手には新しいキャンパスノートが握られている。
「座ってください。俺が話を聞きます」
「でも、証拠がないんじゃ……」
「戦える形にするのが、俺たちの仕事です」
任三郎はノートを開き、ペンを持った。相手の感情に同情するような笑顔は一切ない。ただ、事実を切り分けるための静かな目が中村を射抜いていた。
「会社からは、具体的に何と言われたんですか?」
「……コミュニケーション能力に問題があり、組織の和を乱していると。確かに、会議で他の人の話を遮ってしまったり、仕様変更の指示に強く反発したりしたことはありました。周りの空気を悪くしていた自覚はあります。だから、やっぱり僕の性格が……」
「その言葉は会社の評価です」
任三郎は中村の言葉を遮った。
「会議で発言を遮った。仕様変更に反発した。それは実際に起きた事実として記録します。ですが、あなたの性格に問題があるということと、会社が本採用を拒否できるかどうかは別問題です。実際に何があったかを、順番に教えてください」
任三郎の淀みのない問いかけに、中村は少し落ち着きを取り戻し、記憶をたどり始めた。
四月入社。試用期間は三ヶ月で、六月末まで。
技術面での成果は出していたが、チーム内での意思疎通に齟齬があった。ここまでは事実だ。
「……会社から、問題点を指摘されて『業務改善の指導』を受けたことはありますか?」
「はい。六月に入ってから、急に面談が増えました。週に一度呼び出されて、ダメ出しばかりされるようになって……」
「指導が始まったのは六月からですね。では、本採用を拒否されるかもしれないと、最初に匂わされたのはいつですか?」
「それは……五月末です。別のプロジェクトの打ち上げの席で、上司から『お前みたいなタイプはうちには合わないな』って、はっきり言われました」
任三郎は、静かにペンを握る手に力を込めた。
「……五月末、ですか」
「はい」
「その時、まだ正式な業務改善指導は始まっていなかったんですね?」
「そうですね。面談が設定されたのは、その飲み会の翌週からです」
任三郎の脳内で、バラバラだった証言が一本の時系列として繋がった。
試用期間中とはいえ、会社は客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当であると認められない限り、本採用を拒否することはできない。もし能力や適性に問題があるなら、まずは指導を行い、改善の機会を与えるのが原則だ。
だが、この時系列は逆だ。
五月末の時点で、上司の中ではすでに「排除」の結論が出ていた。六月に入ってから急に増えた面談や指導は、本人の能力を改善させるためのものではない。
結論が先にあり、理由は後からアリバイとして補強される。かつて佐々木紘子の案件で見たものと全く同じ、個人の性格へのすり替え。そして、その背後にあるはずの——桐和ヒューマンキャピタルの影。
ルミナスコード株式会社と桐和の間に直接の契約関係があるかどうかはまだ分からない。だが、調べてみる価値は十二分にある。
「……状況は分かりました。会社側が『業務改善指導』を装って、後付けで評価を下げた可能性が高いです。まずは、五月までのあなたの業務成果を示すデータと、六月以降の面談日時をできる限り思い出して書き出してください」
任三郎の言葉に、中村の顔に初めてわずかな希望の光が差した。
★★★★★★★★★★★
中村が少し晴れやかな顔で事務所を後にした後。
紘子は腕を組み、不満げに任三郎を睨みつけていた。
「私の対応の、どこが悪かったんですか。事実じゃないですか。あんな手ぶら同然の状態で来られても、会社とは戦えません」
「資料を管理する能力と、相談者から話を引き出す能力は別です」
任三郎はノートを閉じ、淡々と告げた。
「あなたは正論で相手を追い詰めた。彼は、証拠を持っていないことを責められにここへ来たわけじゃない。会社から『お前が無能だ』と言い含められ、すっかり自信を失っている人間に、さらに追い打ちをかけてどうするんですか」
紘子は押し黙り、視線を落とした。彼女の誇り高い自尊心が、素直に非を認めることを邪魔している。だが、同時に任三郎の指摘が正しいことも、頭の片隅では理解していた。自分自身が、かつて会社から能力不足の烙印を押され、絶望的な気持ちでこの「逆転帳」のドアを叩いたのだから。
「あなたは有能な案件管理担当です。ですが、相談者の感情を切り捨てるなら、それは会社がやっていることと同じだ」
任三郎の厳しい言葉に、紘子はうつむき、何も言い返すことができなかった。
任三郎はそれ以上紘子を責めず、視線を再び手元の案件帳へと戻した。
ページに記された「試用期間中の総合的判断」「組織適性不足」という言葉。それを眺めながら、任三郎は中村が置いていった数少ない資料――タイムカードと本採用拒否通知書の間に挟まっていた、一枚の簡易的な評価フィードバックの紙に目を留めた。
(指導が始まったとされる六月以降、それ以前の良好な技術実績を無視するように、不自然なほど低い評価だけが集中している……)
点数の推移があからさまだった。五月までは平均かそれ以上だったはずの項目が、六月に入った途端に最低点へと急落している。
(改善する前に、決まっていた……か)
会社の用意した台本を崩すための、新しい証拠戦が始まろうとしていた。




