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切られ屋、逆転帳~不当解雇された元人事マンの企業復讐~  作者: 伊達ジン


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第6話 取り戻した言葉

 都内のオフィス街にある貸し会議室。無機質な白い壁に囲まれた空間には、息苦しいほどの張り詰めた沈黙が満ちていた。佐々木紘子は、テーブルの上に置かれた自身のチャット履歴のコピーと、会社側から提示されたばかりの和解案の書面をじっと見つめていた。


 実名で公表し、会社と徹底的に争う道。

 非公表の条件を飲み、正当な退職理由と解決金を得て再出発する道。


 和解案の文面から視線を上げ、紘子はふと、テーブルの末席で静かに手元の資料を整理している任三郎に目をやった。彼は自分の復讐――自身を不当に解雇した桐和ヒューマンキャピタルを追うために、東都業務ソリューションのこの案件の記録を欲していたはずだ。会社と徹底的に争う道を選べば、彼にとっても有利な証拠が公の場に引きずり出せたかもしれない。それなのに、彼は紘子の選択に一切干渉せず、ただ静かに待っている。自分を道具にしないというあの言葉が、決して耳障りのいい嘘ではなかったのだと、紘子は胸の内で噛み締めた。

 彼は先ほど、『俺たちはあなたの人生の決定者ではありません。決めるのは佐々木さん本人です』と告げた。冷淡にも聞こえるその響きが、今は何よりも誠実に紘子の背中を押していた。


 紘子は深く息を吸い込み、人事部担当者の目を真っ直ぐに見据えた。


「……提示された条件、受け入れます」


 その言葉に、人事部担当者と営業企画部長が微かに肩の力を抜くのがわかった。会社の不正が公になるリスクを回避できたという、隠しきれない安堵だ。彼らにとって、社員ひとりの人生よりも、会社の体裁が守られたことのほうが重要なのだろう。


「ただし」


 紘子は確固たる決意を込めた声で続ける。


「私がこの条件を受け入れるのは、私が無能だからでも、あなたたちが図った記録の隠蔽を許すからでもありません。こんな姑息な操作しかできない会社に、これ以上、私の大切な人生の時間を一秒たりとも費やしたくないからです」


 営業企画部長が苦虫を噛み潰したような顔をしたが、反論はしなかった。紘子の揺るぎない視線の強さに気圧されたように、わずかに目を伏せる。


 すかさず、代理人である弁護士の田中襟華が事務的な、それでいて一切の逃げ道を許さない冷徹な声で引き継いだ。


「では、和解合意書の文面はこちらで作成いたします。佐々木さんの退職理由を『自己都合』から『会社都合』へ変更すること。十五日深夜に追記された同意文言をシステムから完全に削除し、評価記録を正しい状態に訂正すること。これらは合意書締結後、速やかに実行していただきます」

「……承知いたしました」

「また、未払い残業代および解決金の算定根拠については、後日書面にて明確にご提示ください。双方が合意した金額の着金をもって、非公表条項が発効するものとします。支払いが一日でも遅れた場合、合意は白紙に戻るものとお考えください」


 社会保険労務士の伊藤みのりも、手元の資料をまとめながら早口で念を押した。


「退職証明書と離職票の離職理由は、必ず『会社都合』で処理してくださいね。自己都合と会社都合では、失業保険の給付制限や支給日数に大きな差が出ます。万が一、現場のミスで自己都合として処理された場合は、即座にハローワークへ異議を申し立て、御社に再手続きを求めますので。社員のこれからの生活基盤に直結することです、手続きの遅れやミスは一切容認しません」


 会社側の二人は、法の専門家と労務の専門家から完全に逃げ道を塞がれ、ただ重々しく頷くことしかできなかった。

 任三郎は手元のノートパソコンを閉じ、案件帳を無造作に鞄へしまった。第一案件が、現実的な着地点を迎えた瞬間だった。


★★★★★★★★★★★



 数日後の朝。任三郎は神田の自宅ワンルームで、床にアイボリーのタイルカーペットを一枚ずつ敷き詰めていた。カッターで部屋の隅の形状に合わせて端を切り落とし、隙間ができないように慎重に押し込んでいく。


 部屋の隅にあるケージの中では、ポメラニアンのロクが、任三郎の作業を不思議そうに鼻を鳴らしながら見つめている。滑りやすいフローリングの床は小型犬の関節に悪影響を及ぼし、脱臼の原因になりやすいという知識をネットで得た任三郎が、急遽ホームセンターで買ってきたものだ。


「よし、こんなもんだろ」


 最後のカーペットの端を合わせ、全体に隙間や段差がないことを確認してから、任三郎はケージの扉を開けた。

 ロクは恐る恐る外へ出ると、新しい床に小さな肉球を乗せた。前足で何度か感触を確かめるように踏み込み、しっかりと踏ん張りがきくとわかった瞬間、子犬特有の警戒心はどこかへ吹き飛んだ。短い尻尾をプロペラのように激しく振ってタタタッとリズミカルな足音を立て、部屋の端から端まで全速力で走り回り始めた。


 新しい感触が楽しいのか、カーペットに顔を擦り付けたり、任三郎の足元へ突進してきてスリッパの踵を甘噛みしようとしたりしている。

 そのあどけない毛玉の無邪気な動きに、任三郎の目元がわずかに緩んだ。


「……悪くないな」


 不器用な手つきでロクの頭を撫でた直後、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。画面には佐々木紘子の名前がある。


『今日の午後、ネクストゲートキャリアの山本さんが事務所へ来てくれるんですよね? 私、少し早めに行きます』


 任三郎は短く『了解です』とだけ返信し、立ち上がった。「逆転帳」の仕事は、会社を追い詰め、条件を勝ち取って終わりではない。依頼人の人生はその先も続くのだ。


★★★★★★★★★★★



 午後の労務記録相談室「逆転帳」。

 古い雑居ビルの一室に、柔らかな空気をまとう女性が訪れていた。転職エージェントの山本ゆき子である。

 百六十センチ前後の華奢な体。ハーフアップにまとめた、ほのかに赤みの混じる暗いブラウンのロングヘアが、肩先で緩やかなウェーブを描いている。白のブラウスにライトグレーの膝下丈スカートという、清潔感がありながらも相手を萎縮させない服装だ。

 大きく澄んだ目で紘子を見つめ、ゆき子はテーブルを挟んで座ると、相手の緊張を解きほぐすように小さく微笑んだ。


 ゆき子は手元にある、紘子が持参した職務経歴書に静かに目を通していた。任三郎は少し離れた自分のデスクで、ノートパソコンに向かいながら二人のやり取りを聞いている。


「佐々木さん。前の会社では、他部署への言い方がきつかったとご自身でおっしゃっていましたね」


 ゆき子の穏やかな声に、紘子は少しだけ身構えるように肩を張った。


「……ええ。協調性がない、組織の和を乱すって、会社からはそう言われました。実際、キツい言葉を使ったこともありましたし、自分でも言い過ぎた部分はあったと反省しています」

「でも、この『Aプラン』の進行管理の項目を見せていただいてよろしいですか」


 ゆき子は少し前傾姿勢になり、紘子の手元の職務経歴書をそっと指差した。その控えめながらも熱心な仕草には、求職者の経歴に徹底して伴走しようとする誠実さが滲んでいた。


「他部署の調整が遅れていたところを、佐々木さんが主体的にカバーして、結果的に納期に間に合わせています。言い方が強くなったのは、この納期を絶対に守るためですよね?」


 紘子はわずかに目を見開いた。


「……それは、そうです。営業企画としての責任でしたから。納期を落とせば、クライアントに多大な迷惑がかかる。だから、どうしても他部署のお尻を叩く必要があったんです」

「会社はそれを『協調性欠如』という言葉で評価したかもしれません。でも、転職市場ではこれを『高いプロジェクト推進力』や『危機管理能力』と呼びます。厳しい状況でも逃げずに、最後まで責任を持って結果を出した証明です」


 ゆき子は真っ直ぐに紘子の目を見た。


「会社のつけた表面的な退職理由だけで、佐々木さんがこれまで真摯にやってきた仕事の価値すべてが決まるわけではありません。まずは、ご自身ができていたことを、しっかりと言葉にして拾い上げましょう。佐々木さんのその推進力を求めている企業は、必ずあります」


 紘子の勝ち気な目元が、わずかに赤みを帯びた。能力不足と烙印を押され、必死に戦って退職理由を訂正させた。それでも心の底に澱のように残っていた「自分は本当に無能だったのではないか」という不安が、ゆき子の言葉によって静かに溶かされていく。


「……ええ、そうです。私は逃げずにやり切りました」


 自尊心で涙をこらえ、紘子は背筋を伸ばした。ゆき子もそれを受けて、穏やかに微笑み返す。


 デスクでキーボードを叩いていた任三郎は、小さく息を吐いた。法律を盾にする襟華や、制度の不備を突くみのりとは違う。会社のつけた理不尽な評価を、本人の実績から丁寧に切り離し、次の一歩へ踏み出すための強さに変えていく。それが、あの柔らかなエージェントのやり方なのだろう。記録と事実を追うことしかできない任三郎には、決して真似できない仕事だった。


 ゆき子との充実した面談が終わり、彼女が事務所を後にした後。

 紘子は大きく伸びをしてから、ふと事務所の中を見渡した。そして、任三郎のデスク周りに無造作に積まれたクリアファイルや書類の山を見て、美しく整った眉をひそめた。


「佐藤さん。さっきから気になってたんですけど、このファイルの山は何ですか? 顧客の同意書の管理も、資料の最新版の管理も、全然できてないじゃないですか。これじゃあ、必要な書類がすぐに出てきませんよ」


 痛いところを突かれ、任三郎は少し顔をしかめた。


「……俺は一人でやっているんです。調査と分析に追われて、そこまで手が回りません」

「私がやります」


 紘子が即答した。任三郎はキーボードから手を止める。


「恩返しなら断ります。佐々木さんの再就職活動が優先です」

「恩返しじゃありません。せっかく私が取り戻した記録が、こんな雑な場所で保管されるのは我慢ならないので。それに、面談までの間、少しでも実務から離れたくないんです。書類の整理や版管理なら、私の営業企画としてのスキルが活かせますから」


 紘子の言葉には、彼女本来の辛辣さと支配欲、そして有能な実務家として必要とされたいという感情が混ざっていた。救われただけの弱い立場でいることを、彼女の誇り高い自尊心が許さないのだ。

 任三郎は少し考え、引き出しから白紙の契約書を取り出した。


「……有償の業務委託としてなら受けます。週の稼働時間と業務範囲、報酬を明確にして契約しましょう。あなたには、新規相談の受付時の同意書の取得と、資料の版管理を任せます」

「いいでしょう。厳しく管理させてもらいますからね」


 紘子は不敵に笑い、さっそくデスクの上のファイルを仕分け始めた。依頼人から、最も身近な実務協力者へと変わった瞬間だった。


 任三郎は立ち上がり、本棚から黒いキャンパスノートを取り出した。佐々木紘子の第一案件の案件帳だ。

 最初のページには、会社から言われた言葉『能力不足』『協調性欠如』と記されている。


「最後のページは、本人が取り戻した言葉で締めることにしています」


 任三郎は案件帳を開き、ペンを持った。


「何を残しますか?」


 紘子はファイルを仕分ける手を止め、少しの迷いもなく真っ直ぐに答えた。


「『私は無能じゃない。自分の仕事の価値は、自分で決める』」


 任三郎はその言葉を無地のページに書き込み、案件帳を閉じた。


「……これで、あなたの案件は終了です」


 案件帳が棚に収められ、一つの記録が終わった。


 その数時間後。

 すっかり受付担当の顔になった紘子が、パソコンの画面を見ながら任三郎へ声をかけた。


「佐藤さん、これ、新規の相談フォームに来てたんですけど」


 プリントアウトされた紙を受け取る。相談者は、ルミナスコード株式会社という新興のIT企業に勤める男性だった。

 記載された退職勧奨の理由に、任三郎の目が止まる。


『試用期間中の総合的判断』

『組織適性不足』


 任三郎の目つきが、一瞬にして鋭く冷たいものに変わった。

 東都業務ソリューションの時と似ている。具体的な事実や数値ではなく、耳障りのいい、しかし反論しづらい曖昧な言葉で責任の所在をぼかし、個人の適性の問題にすり替える手法。明確な基準がないため、労働者自身も「自分が悪いのかもしれない」と思い込まされやすい。それは、桐和ヒューマンキャピタルが好んで使う、悪質な退職勧奨支援の文言だ。


「……調べてみる価値はありそうですね」


 任三郎は紙をデスクに置き、新しい案件帳の最初のページを開いた。

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