第5話 修正された順番
都内のオフィス街に位置する、時間貸しの貸し会議室。無機質な白い壁とグレーのカーペットに囲まれた長方形の空間には、張り詰めた沈黙が満ちていた。
テーブルを挟み、二つの陣営が対峙している。
一方は、東都業務ソリューション株式会社の人事部担当者と、営業企画部長。
人事担当者は四十代半ばほどの、白髪の混じった神経質そうな男で、仕立てのいいグレーのスーツのボタンをきっちりと留めている。その隣に座る営業企画部長は、いかにも叩き上げといった恰幅のいい五十代半ばの男性だが、どこか落ち着きなく、机の上の時計へしきりに視線を這わせていた。
もう一方は、佐々木紘子と、彼女の代理人であるみなと中央法律事務所の弁護士、田中襟華。そして、社会保険労務士の伊藤みのりと、労務記録相談室「逆転帳」の運営者である佐藤任三郎だ。
任三郎は陣営の末席に座り、手元のノートパソコンと案件帳を静かに開いていた。彼のダークネイビーのジャケットの袖口には、薄茶色の細い毛が一本張り付いている。今朝、自宅でポメラニアンの『ロク』に離乳食を与え、ケージの掃除をした際についたものだろう。来る前に紘子から「犬、飼ってるんですか?」と怪訝な顔で指摘されたが、任三郎は「少し」とだけ答えて払い落とした。
彼の意識は今、目の前のテーブルの上で繰り広げられる事実と嘘の境界線にのみ注がれている。
「――田中先生から事前にいただいた書面は、社内でも慎重に拝見いたしました」
沈黙を破ったのは、会社側の人事部担当者だった。手元の資料を揃えながら、極めて事務的で丁寧な、それでいてどこか壁を作るような口調で語り始める。
「しかしながら、十五日の深夜にシステムへ追記された文言について、『事後的な記録の改ざんである』と断定されるのは、会社としては心外です。十四日の面談において、佐々木さんは確かに『自分の言い方に非があった』と認められました。現場の課長はそれを『自らの問題を自覚し、業務継続が困難であることに同意した』と受け取った。深夜のシステム更新は、多忙な課長が面談内容をシステムへ反映させるのが遅れただけであり、改ざんといった意図的なものではございません」
人事担当者の隣で、営業企画部長が太い首を縦に振って深く頷いた。彼らはあくまで、評価手続きの遅延と、面談における言葉の解釈の相違という線に持ち込む構えだった。
襟華は表情を変えず、手元のペンを静かに置いた。
「面談で本人が『言い方が強かった』と口にしただけで、退職勧奨への同意としてシステムに入力する。それが御社の公式な人事評価の運用ですか? 本人の確認も取らず、退職という重大な不利益を伴う結論を、現場の課長の解釈だけで確定させるのは、著しく合理性を欠くと言わざるを得ません」
「言葉の綾、あるいは解釈の幅の範囲内かと存じます。何より、佐々木氏の他部署に対する調整拒否や、攻撃的なチャットの文言が存在するのは紛れもない事実です」
人事担当者が、プリントアウトされた紘子のチャット履歴をテーブルの中央に滑らせた。そこには、他部署へ向けて紘子が放った強い言葉がいくつもマーカーで引かれている。会社側は「佐々木紘子の協調性のなさ」という本人の性格上の欠点に、再び論点を戻そうとしていた。個人の性格に問題があるのだから、会社が退職を促すのは当然の権利だと言わんばかりだ。
「性格の問題と、評価制度の運用はまったく別の話です」
すかさず声を上げたのは、みのりだった。彼女は手元のバインダーから、東都業務ソリューション株式会社の就業規則と人事評価規定のコピーを提示した。
「御社の人事評価規定、第十三条。評価の確定には一次評価者だけでなく、二次評価者の決裁が必要であると明記されています。ですが、十四日の退職勧奨面談で使われた十二日付の評価記録には、二次評価者であるそちらの部長の署名も捺印も、日付すらありません。評価が確定していない、本人への事前説明も行われていない未完成の記録を使って退職を迫るのは、この就業規則のどこに規定されている運用なんですか?」
みのりの早口で容赦のない具体的な指摘に、営業企画部長がわずかに肩をビクつかせた。
「そ、それは……私が当時、関西支社へ出張しておりまして。決裁が物理的に間に合わなかったという、単なる手続き上の遅れでして……。一次評価者である課長と私の間では、口頭でのすり合わせは済んでおりました」
「出張中なら、帰社してから決裁を終え、その後に面談を行えばいいだけでしょう。なぜ、評価手続きを完了させずに、急いで退職勧奨を行う必要があったんですか? 社員の生活を奪う手続きを、『物理的に間に合わなかった』という理由で省略していいはずがありません」
みのりの鋭い追及に、会社側の二人が言葉に詰まる。
彼らが目を泳がせたわずかな隙間を縫うように、任三郎が淡々とした声を響かせた。
「感情や言葉の解釈は横に置きます。実際に起きた順番を確認しましょう」
全員の視線が任三郎へ向く。彼は案件帳を開いたまま、抑揚のない声で事実だけを羅列し始めた。
「佐々木さんの評価が急激に下げられた発端は、営業企画部での会議です。会社側の主張では、佐々木さんの他部署との調整不足でAプランの売上予測に問題が生じたとされていますね。しかし、その会議に参加していた別の人間のメモには、課長自身が提示した売上予測として、会社側の現在の修正資料とは異なる数値が記録されています」
林の名前は出さない。だが、その『異なる数値』の存在を告げた瞬間、営業企画部長の顔色が変わった。時計へ向かっていた視線が、任三郎の顔に釘付けになる。
「それは……現場の、単なる伝達ミスか何かで……」
「ええ、ミスの所在は今は問いません。問題は『順番』です」
任三郎は冷ややかに畳み掛けた。
「上司の計算ミスがあり、その後に佐々木さんへの責任転嫁が始まりました。そして、十二日に事前の説明もないまま、二次評価者の決裁を飛ばして評価面談記録を作成し、十四日に退職勧奨を行った。面談で佐々木さんが反発したため、十五日深夜になってから『本人は同意した』という文言を追記して記録を補強した」
任三郎はそこで言葉を区切り、まっすぐに人事部担当者の目を見据えた。
「……御社の記録は、退職という結論に合わせて、後から作られています。これを解釈の幅と呼ぶには、時系列が破綻しすぎています」
会議室に、決定的な沈黙が落ちた。
曖昧な主語と「本人のため」「手続きの遅延」といった言葉で責任を濁そうとしていた会社の逃げ道が、時系列と記録の矛盾によって完全に塞がれた瞬間だった。
「ですが……!」
人事部担当者が焦ったように声を上げる。端正に整えられていたグレーのスーツの肩が、わずかに怒りで上下していた。
「佐々木氏の態度に問題があったことは紛れもない事実です! あのチャットの暴言を見れば、協調性がないと判断されるのは当然でしょう! いくら記録の順番が前後したからといって、彼女が我が社で円滑に業務を遂行できるとは到底思えません!」
「ええ、私の言葉が強かったことは認めます」
ずっと沈黙を守っていた紘子が、顔を上げて凛とした声で言った。
彼女はテーブルの中央に置かれた自分の不利な資料から目を背けなかった。自尊心を傷つけられる恐怖を押し殺し、真っ向から会社側の大人たちを睨み据える。
「他部署への言い方がきつかったことも、周囲への配慮が足りなかったことも、反省すべき点だと思っています。でも、それは課長のミスを押し付けられたことへの抗議でもありました。……私自身の性格が悪いことと、会社が公式な記録を勝手に書き換えて私を追い出していいことは、まったく別の問題でしょう」
紘子の声には、自分の欠点を認めた人間だけが持つ強さがあった。彼女は自分の不完全さを盾に会社を責めるのではなく、事実の歪曲そのものを拒絶していた。
襟華が静かに書類をまとめ、冷徹な弁護士の顔で会社側へ告げた。
「これらの不自然な記録の作成順と、二次評価手続きの意図的な欠落。これを法廷に持ち込めば、客観的な不当退職誘導として認定される可能性が極めて高いと判断します。我々は、会社側の対応次第では公の場で争うことも辞さない構えです。御社のコンプライアンス体制そのものが問われることになりますが、よろしいですね?」
労働審判、あるいは訴訟という具体的な法的手続き、そして公の場での追及というリスクを突きつけられ、人事部担当者と営業企画部長は顔を見合わせた。
数十秒の無言の協議の後、人事部担当者が深く息を吐き出し、探るような視線をこちらへ向けた。
「……会社として、評価手続きに一部不備があったことは認めざるを得ません。つきましては、穏便な解決を提案したいと存じます」
会社側が、ついに白旗とも呼べる妥協案を口にした。
「佐々木氏の退職理由を、自己都合から『会社都合』へ変更します。同時に、評価記録についても当該の追記文言を削除し、適正な形に訂正いたします。さらに、未払い残業代および解決金として、相当額をお支払いしましょう」
それは、紘子が望んでいた名誉回復と実利を兼ね備えた条件だった。「能力不足」や「協調性欠如」というレッテルを撤回させ、自身の言葉を取り戻すという目的は達成される。だが、人事部担当者は言葉を区切り、重いトーンで条件を付け加えた。
「ただし。この条件に応じる場合、本件に関する一切の情報を外部に漏らさないこと。SNSへの投稿、マスコミへの接触、他社員への吹聴を禁じる『全面的な非公表条項』に合意していただきます」
秘密和解。会社は金と退職理由の訂正を差し出す代わりに、自分たちの不正が表に出ることを完全に封じようとしていた。
紘子の喉元がかすかに引き攣り、隣に座る任三郎へ視線を向けた。
任三郎はこの記録を使って、彼自身を解雇した桐和ヒューマンキャピタル株式会社へ繋がる証拠を探しているはずだ。退職勧奨の裏で動く支援会社の影。非公表に応じれば、紘子の案件はここで完全に蓋をされ、任三郎の復讐の役には立たなくなる。
紘子の視線を受け止めた任三郎は、しかし、一切の迷いを見せずに淡々と答えた。
「俺を見ないでください。俺たちは代理人でも、あなたの人生の決定者でもありません」
任三郎は手元の案件帳を閉じ、紘子へ向き直った。
「決めるのは佐々木さん本人です。実名で公表して、会社と徹底的に争う道を選ぶか。あるいは、非公表の条件を飲み、正当な退職理由と解決金を得て『再出発』を優先するか。……あなたが望む方を選んでください」
任三郎の言葉は冷たく聞こえるかもしれない。だが、そこには依頼人を自分の復讐の道具としては決して扱わないという、固い意志が込められていた。彼の目的が桐和への逆襲であっても、今目の前にいる依頼人の人生を犠牲にすることは選ばない。
会社によって奪われた言葉を取り戻すのは、他の誰でもない、佐々木紘子本人でなければならないのだ。
静まり返った会議室で、紘子は差し出された二つの道の前に立たされていた。




