第4話 本人も納得していた
無機質な蛍光灯の光が、二つの液晶画面を暗い室内に照らし出していた。
東京都千代田区神田の古い雑居ビルにある、労務記録相談室「逆転帳」。その簡素なスチール製の机の上には、佐々木紘子が持参したノートパソコンと、任三郎のノートパソコンが並べて置かれている。
紘子の画面に表示されているのは、十四日の退職勧奨面談直後に彼女自身が会社の共有フォルダからダウンロードし、ローカルに保存しておいた『評価面談記録』のファイルだ。
一方、任三郎の画面には、紘子のアカウントを通じて今現在アクセスしている、東都業務ソリューション株式会社のクラウドサーバー上にある最新の『評価面談記録』が表示されていた。
並べられた二つの文書を、任三郎は画面をスクロールしながら静かに見比べていた。
沈黙が降りた事務所内で、田中襟華と伊藤みのりもまた、画面の文字の羅列を一つずつ目で追っている。窓の外から微かに聞こえる車の走行音だけが、張り詰めた空気を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
「……見つけましたよ」
任三郎の淡々とした声が、重い空気を揺らした。彼はマウスを操作し、最新版のファイルの一箇所を反転させた。
「佐々木さんが十四日に保存した版には、一次評価者である課長のコメント欄に『他部署との調整において非協力的。協調性に欠ける』とだけ記載されていました。ですが、今サーバーにある最新版には、その続きが追記されています」
紘子は目を凝らし、任三郎が示す画面へ身を乗り出した。
『十四日の面談にて、本人に事実関係を確認。本人も自身の協調性の欠如、および業務遂行上の問題を自覚し、当部署での業務継続が困難であることに同意した』
その一文を読み上げた瞬間、紘子の表情が怒りで赤く染まった。
「同意なんてしていません! 私は面談で、問題の発端は課長の売上予測の計算ミスだと主張しました。私の態度の悪さを責められたことに対して『言い過ぎた部分はあったかもしれない』とは言いましたが、辞めることに納得なんて……!」
「佐々木さん、落ち着いてください」
襟華が、感情的になりかけた紘子を静かで通る声で制した。
「あなたが納得したかどうかという真実は、法律の場ではすぐには見えません。会社側は、この『同意した』と書き足された記録を盾にして、『佐々木紘子本人が面談で退職勧奨に納得していた』と主張してくるはずです」
「でも、これは十四日の面談の後で、勝手に書き足されたものですよ!?」
「ええ。だからこそ、佐藤さんが見つけた『更新履歴』が武器になるんです」
襟華は任三郎の画面を指差した。ファイルのプロパティに記録された更新時刻は『十五日・午前二時十五分』を示している。更新者のアカウントは、一次評価者である営業企画部課長のものだった。
「午前二時って……」
みのりが呆れたようにバインダーを叩いた。
「そもそも、深夜の二時に部下の評価ファイルをいじってる時点で、この課長の労働時間管理はどうなってるのよ。残業代はちゃんと出てるんでしょうね。……まあ、今はそれは置いておくとして」
みのりは咳払いをして、実務家の険しい目つきに戻った。
「十四日の夕方に面談をして、その直後には『同意した』なんて一文は影も形もなかった。なのに、翌日の深夜になって突然、課長のアカウントから『本人は同意した』という決定的な文言が追記されている。……どう見ても、退職勧奨を正当化するために、後から記録を補強したとしか思えないわね」
「その通りです」
任三郎はキャンパスノートに新しいページを開き、時系列を箇条書きにしていく。
「十二日に評価を作成し、十四日に退職を迫った。そして十五日の深夜に『本人は納得した』という証拠をでっち上げた。……会社は、あなたを問題社員として追い出すために、出来事の順番を後から意図的に操作しています」
彼が書き込んだ短いメモが、会社の狡猾な意図を浮き彫りにしていた。通常であれば、時間をかけて行われるべき評価や面談の手順が、退職という一つの結論に向けて強引に辻褄合わせをされている。任三郎の声には熱がなかった。だが、その冷たさの底には、会社の都合で個人の記録を歪める行為に対する静かな怒りが確かに存在していた。
「問題は」
任三郎は紘子に視線を向けた。
「会社側が『協調性欠如』の根本原因を、すべて佐々木さん個人の性格の問題にしようとしていることです。あなたは先程、発端は課長の売上予測の計算ミスだと言いましたね。そのミスを証明できる記録は残っていますか?」
紘子は、林さんへの申し訳なさと口惜しさから小さく拳を握りしめた。
「……会議の資料自体は、後から課長がこっそり修正版に差し替えていました。でも、当時の会議で配られた間違った数字の資料を、同僚の……林さんが、自分のノートにメモしているはずです」
「その林さんという方に、証言してもらえますか」
襟華が尋ねる。
「LINEで聞いてみます。林さんなら、課長が数字を間違えた上に、調整の責任を私に押し付けたことも知っているはずですから」
紘子はスマートフォンを取り出し、素早いフリック入力でメッセージを打ち始めた。
すぐに既読がつく。しかし、返信のインジケーターが表示されては消え、また表示されては消える。向こうで林が言葉を選び、逡巡している様子が画面越しにありありと伝わってきた。
数分の重苦しい沈黙の後、ようやく一つのメッセージが返ってきた。
画面を見た紘子の表情が、すっと強張る。
「……メモは、あるそうです。確かに課長が間違った数字を出していたと」
紘子は絞り出すような声で言った。
「でも、『自分から表立って証言するのは怖い』って……。まだ会社にいる以上、課長に逆らって目をつけられたくないから、会社との争いには巻き込まないでほしいと……」
「林さんは薄情だと言いたいですか」
任三郎が、冷や水を浴びせるような淡々とした声で言った。
「えっ……」
「あなたが自分の生活とキャリアを守りたいように、林さんにも自分の生活と雇用があります。会社に在籍したまま上司の不正を証言することが、どれほどのリスクを伴うか。それを『薄情だ』と責める権利は、俺たちにはありません」
任三郎の言葉は容赦がなかった。だが、その声に冷酷さはなく、どこか頑なな響きがある。襟華もそれに合わせるように、静かに頷いた。
「佐藤さんの言う通りです。現役の社員に、会社の不利益になる証言を強要することはできません。林さんの安全を優先すべきです」
「……わかっています」
紘子は俯き、スマートフォンを両手で握りしめた。
「私も、林さんに無理をしてほしいわけじゃありません。ただ、証拠がこれしかないなら……私は、会社に嘘をつかれたまま、泣き寝入りするしかないんですか」
「誰がそんなことを言いました?」
任三郎は静かにホワイトボードに向かって立ち上がった。
「林さんに、会社と戦う証人になってもらう必要はありません。確認するのは『会議メモに書かれている数字』という事実だけです。……佐々木さん、林さんにこう返信してください。『表立って証言はしなくていい。ただ、あの日の会議で課長が提示した売上予測の数字が、Aプランでいくらになっていたか、メモの数字だけを教えてほしい』と」
紘子は任三郎の意図を測りかねたまま、言われた通りにメッセージを送った。
やがて送られてきた数字を見て、任三郎はホワイトボードの時系列の端に、その数字を書き込んだ。
「これで十分です」
任三郎は満足げに言った。
「会社側が修正した資料の数字と、林さんのメモにある数字。この二つが存在する事実だけでいい。会社側が『計算ミスなどなかった』と言い張るなら、なぜ会議に参加していた人間のメモと数字が食い違うのかを説明しなければならなくなる。弱い証言でも、記録の矛盾を突くための『楔』にはなるんです」
任三郎は手元の時計をちらりと見た。時刻は夕方を過ぎている。ロクの離乳食を用意する手間を考えると、そろそろ帰宅したい時間だったが、彼の意識は目の前の記録の矛盾に縫い付けられていた。
「時系列の整理はできました」
任三郎は、完成した案件帳のページを襟華の方へ向けた。
「上司の判断ミス、佐々木さんへの責任転嫁、十二日の評価作成、十四日の退職勧奨、そして十五日深夜の評価記録改ざん。……この順番で、会社に確認事項を突きつけます」
襟華は案件帳を一瞥すると、持参したビジネスバッグから一枚の名刺を取り出した。
「では、ここからは私の領域ですね。佐々木さん、私が代理人として、会社側に『退職勧奨の根拠となる評価手続きの不備』について、正式に照会をかけます」
「はい。お願いします」
紘子が深く頭を下げる。
襟華はその場で自分のスマートフォンを取り出し、東都業務ソリューション株式会社の人事部へ電話をかけた。
数回のコールの後、相手が出た。
「お世話になっております。みなと中央法律事務所の弁護士、田中襟華と申します。御社の営業企画部に所属されている佐々木紘子氏の代理人として、ご連絡いたしました」
襟華の声は、先程までの事務所内での口調とは打って変わり、感情の波を一切感じさせない、冷徹な法務担当者のそれに切り替わっていた。
電話越しの相手が戸惑っているのが、漏れ聞こえる声のトーンでわかる。
「ええ。佐々木氏に対する退職勧奨の件について、数点、事実確認をさせていただきたいのですが。……はい。御社は『能力不足』および『協調性欠如』を理由とされていますが、その根拠となる十二日付の評価面談記録についてです」
襟華は手元のメモを見ながら、淡々と問い詰めていく。
「当該評価について、二次評価者の決裁手続きが完了していないこと。ならびに、十二日の段階で本人への説明が行われていないことについて、御社の見解を伺えますか」
相手が何かを弁明している。おそらくは、現場の忙しさや手続きの遅れを口実にしているのだろう。数分間のやり取りの後、襟華の眉がわずかに動いた。
「……なるほど。十四日の面談において、佐々木氏本人も自らの問題を認め、退職勧奨に納得していた、と」
その言葉に、紘子がビクッと肩を震わせた。任三郎は無表情のまま、静かにそのやり取りを見つめていた。
「承知いたしました。では、その『納得した』というご主張の根拠となる記録について、後日改めて書面にて回答を求めます。本日はご挨拶までということで。失礼いたします」
襟華は通話を切り、スマートフォンを机に置いた。
その顔には、予想通りだという冷ややかな光が宿っていた。
「会社側の主張は、やはり想定通りです。二次評価の不備については『手続き上の遅れ』と言い逃れつつ、『十四日の面談で、佐々木さん自身が協調性の欠如を認め、退職に納得した』と回答してきました」
「そんな……私はただ、言い過ぎた部分はあったと言っただけで……」
「それが、会社側の言う『納得』の手口です」
任三郎が、冷ややかな声で引き継いだ。
「本人が『一部の非を認めたこと』を、強引に『退職勧奨に納得したこと』へとすり替える。そして、そのすり替えた結論に合わせて、十五日の深夜に『同意した』という一文を記録に書き足した。……佐々木さん、あなたは自分の言葉を、会社にとって都合のいいように要約され、奪われたんです」
紘子は唇を噛み締め、俯いた。自分の放ったチャットの刺々しい言葉が、自分の首を絞めるだけでなく、退職という不当な結論の正当化にまで利用されている。自分自身の性格の悪さや、周囲への配慮のなさが招いた結果でもある。だが、だからといって、会社が記録をでっち上げて自分を追い出していい理由にはならないはずだ。
「ですが、会社は逃げ切れません」
襟華が、はっきりとした声で断言した。
「『本人も納得していた』という主張が、事後的な記録の書き換えに基づくものであるなら、その前提は崩れます。佐藤さんが整理した時系列と、ファイル更新履歴。そして、二次評価者の署名がないという事実。これらを組み合わせれば、会社側が不当な退職誘導を行ったことを、法的に争うことができます」
襟華はバッグから、数枚の書類を取り出そうとした。
「佐藤さん。私が会社に内容証明を送り、正式な交渉のテーブルに着かせる前に、必ずこれを――」
「用意してあります」
任三郎は襟華の言葉を遮るように、机の引き出しからきちんとした書式で作成された『業務委託契約書』および『個人情報取扱同意書』を取り出し、紘子の前へ差し出した。
襟華がわずかに目を見張る。
「約束通り、プロセスは飛ばしません。佐々木さん、署名をお願いします」
紘子は差し出された同意書を見つめ、そして、任三郎、みのり、襟華の三人を順番に見回した。
彼らは誰も、紘子を哀れな被害者として甘やかしてはくれない。自分の性格の悪さも、失敗も、すべて容赦なく記録に残される。
だが、だからこそ――彼らが武器として整えてくれたこの記録は、決して嘘をつかないと信じることができた。
「わかりました」
紘子は力強く頷き、同意書にボールペンを走らせた。
微かなインクの匂いとともに、紘子の震えない署名が、紙の上に黒々と刻まれた。




