第3話 署名のない評価
「二次評価者の欄が、空欄……?」
伊藤みのりの短く鋭い指摘が、静まり返った事務所に響いた。佐々木紘子は喉の奥で息を詰まらせ、弾かれたように身を乗り出して机上のコピー用紙を覗き込んだ。
窓の外から微かに聞こえる神田の街の喧騒から切り離されたような、古びた雑居ビルの一室。労務記録相談室「逆転帳」の無機質な蛍光灯の光に照らされたそれは、東都業務ソリューション株式会社のロゴが入った評価面談記録だった。
一次評価者である直属の上司の欄には、真新しい朱肉の跡がくっきりと残っている。だが、そのすぐ横に設けられた『二次評価者』の四角い枠の中には、印影はおろか、日付すら何も記載されていなかった。完全な空白だ。
今まで自分自身の態度やチャットの文面に非があったという罪悪感ばかりを気にしていた紘子は、目の前の書類としての決定的な欠落にまったく気づいていなかったのだ。
「佐々木さん、あなたの部署の二次評価者は誰になるの?」
みのりが分厚いバインダーから視線を上げずに問う。書類の端をめくる指先の動きには一切の迷いがなく、その早口で淀みない口調には、有無を言わせない実務家としての圧があった。
「……営業企画部の部長です」
紘子は少し戸惑いながら答えた。
「でも、部長は最近、関西の支社にかかりきりで出張が多くて……現場の評価は、ほとんど一次評価者である課長に任せきりになっていました。判子をもらう時間も惜しいくらい、いつも忙しそうに飛び回っていて、私たち平社員が直接顔を合わせる機会も月に数回あるかないかという状態で……」
「出張中だから省略した、なんて言い訳が通るわけないでしょ」
みのりは呆れたように鼻を鳴らすと、手元の就業規則と評価制度の冊子を引き寄せ、特定のページを指先でトントンと叩いた。乾いた音が事務所に響く。
「いい? 東都業務ソリューションの規程によれば、評価の確定には一次評価と二次評価、双方の署名と捺印が必須だと明記されている。それはこの会社のルールブックで定められた絶対のプロセスよ。いくら現場が忙しかろうが、部長が出張中だろうが、二次評価者の決裁を経ずに評価を確定させる権限は誰にもない。つまり、二次評価者の署名がないこの書類は、会社の制度上、まだ手続きが完了していない未完成品ってこと」
「未完成の、評価……」
「そう。未完成の評価を根拠にして、あなたに『能力不足』だの『協調性欠如』だのという烙印を押し、退職勧奨まで突きつけてきた。会社として、あってはならない重大な瑕疵よ」
紘子の顔に、怒りとも安堵ともつかない複雑な色が浮かんだ。自分が突きつけられた理不尽な評価が、自身の能力や態度の問題以前に、そもそも会社のルールすら守られていない杜撰なものだったという事実。目の前を覆っていた濃い霧が、プロの指摘によって一気に晴らされていくような感覚だった。
だが、その対面に座る佐藤任三郎は、紘子のように感情を動かすことはなかった。
彼はただ淡々と、黒いボールペンを案件帳の上で滑らせている。紙の表面をペン先が擦れる微かな音だけが、彼の思考の軌跡を示していた。彼の視線は常に、感情ではなく記録の矛盾を、冷たい金属のようなどこまでも客観的な事実を探し求めている。
「伊藤さん。制度上の不備は分かった。だが、それだけじゃないはずだ」
任三郎はペン先を、コピーされた面談記録の下部へと滑らせた。
「ここを見てください。本人確認欄です」
任三郎が示した箇所には、『説明済み』という項目に黒いボールペンで無造作にチェックが入れられていた。
「佐々木さん。昨日も確認しましたが、この評価面談記録の作成日は十二日になっていますね」
「はい」
「十二日の時点で、あなたはこの評価について、上司から何らかの説明を受けましたか? あるいは、この書面に目を通し、内容を了承してサインを求められたことは?」
「いえ、絶対にありません」
紘子は強い口調で否定した。迷いのない真っ直ぐな視線が任三郎を射抜く。
「私が会議室に呼ばれて、一方的に『今の態度ではこの部署には置いておけない』と退職を迫られ、口論になったのは十四日です。十二日には、面談はおろか、評価の話すら一切出ていませんでした。普段通りの業務をこなし、定時で退社しただけです」
任三郎は小さく頷き、立ち上がると背後のホワイトボードに書き出していた時系列に視線を向けた。黒のマーカーを手に取り、キュッとキャップを外す。そして、十二日と十四日の間に太い線を引いた。
「つまりこういうことだ。上司は、十二日の時点であなたの退職という結論を先に決め、それに合わせて評価をでっち上げた。そして、本人への説明や確認を一切行わないまま、書類上だけ『説明済み』として処理した。十四日になってからあなたを呼び出し、口頭で退職を迫った」
「……」
「評価期間内に業務改善の指導もせず、二次評価者の決裁も得ず、本人への説明も偽装した。結論ありきで記録を作った明確な痕跡です。これは単なる手続きのミスではなく、意図的な記録の改ざんに等しい」
任三郎の声は静かだった。声を荒らげて怒鳴ることも、紘子の境遇に大袈裟に同情することもない。だが、その低く沈んだ声の底には、会社の都合で個人の記録を歪める者たちへの静かで冷たい怒りが張り付いていた。
紘子は自身の受けた仕打ちの悪質さに、悔しげに書類の端を指先で強く圧しつけた。紙がわずかに歪み、指先が白くなる。
「ただ」
任三郎はマーカーを置いて続けた。
「この手続きの瑕疵が、法的にどこまでの効力を持つかは俺の領分じゃない」
「ええ。私の領分でもないわね」
みのりも同意するようにバインダーをパタンと閉じた。
「私は制度と実際の運用のズレを見つけるだけ。会社がルール違反をしていることは確実だけど、それを盾にして会社と交渉し、退職勧奨を撤回させたり解決金を取ったりするのは、別の専門家の仕事よ。私たちができるのは、戦うための武器を揃えるところまで」
そのとき、事務所のすりガラスのドアが、今度は控えめだが確かなリズムでノックされた。
「どうぞ」
任三郎が応じると、ドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。
ネイビーの細身のスーツを身に纏った彼女は、雑多でヤニ臭いこの古い雑居ビルの空気を一瞬で引き締めるような、知的で上品な雰囲気を漂わせていた。肩下まであるダークブラウンの髪は低い位置できっちりとまとめられ、明確な目鼻立ちと涼やかな瞳が、繊細さと実務家としての芯の強さを同時に感じさせる。手には上質な革のビジネスバッグが握られていた。
みなと中央法律事務所に所属する弁護士、田中襟華だった。二十九歳。
「佐藤さん。連絡をもらっていた件ですが——」
襟華はそこまで言いかけて、歩みを止め、机の上を見た。
出しっぱなしにされた依頼人の資料。チャットの履歴。そして、任三郎の案件帳。
襟華の端正な眉が、ほんのわずかに動いた。
「……伊藤先生から聞いていた通りですね」
襟華は、呆れたような、しかし慣れ切ったような声で言った。
「機密情報の扱いが雑すぎます。佐藤さん、同意書は?」
「これから作ります」
任三郎が不器用に視線を逸らすと、襟華は静かに、しかしはっきりとしたため息をついた。
「これから、じゃ困るんです。ここは労務トラブルを扱う場所でしょう。依頼人の人生と個人情報を机の上に広げたまま放置するなんて、危機感が足りません。もし誰かが急に入ってきたらどうするつもりですか」
「……善処します」
「善処じゃなくて、今すぐやってください」
紘子は、自分をあれほど冷徹に追い詰めた任三郎が、今度は二人の女性から同時に責め立てられている構図に、可笑しさを覚えるとともに不思議と緊張が解けていくのを感じていた。孤立無援だった自分に、これほど頼もしい味方がいるという事実が、強張っていた心を少しずつほぐしていく。
「初めまして。みなと中央法律事務所の田中襟華と申します」
襟華は任三郎への説教を打ち切ると、紘子に向き直って丁寧にお辞儀をした。百六十五センチ前後の、細身ながらも背筋のピンと伸びた美しい立ち姿は、それだけで対峙する者に確かな安心感を与える。
「佐々木紘子です。よろしくお願いします」
自分と同等か、あるいは少しだけ背の高い、だが圧倒的な知性を湛えた弁護士という肩書きに、紘子も慌てて姿勢を正して頭を下げた。
襟華は任三郎の向かい、みのりの隣のパイプ椅子に座ると、机上の資料に素早く目を通し始めた。彼女が書類を目で追う様子はみのりとはまた違い、一つ一つの言葉の『証拠能力』を冷徹に見定めるような鋭さがあった。法廷で使える事実か、それとも単なる推論に過ぎないのかを、細い指先で文字をなぞりながら瞬時に振り分けていく。無駄のない所作だった。
「なるほど。退職勧奨通知書、評価面談記録、そしてチャット履歴……。時系列の整理は終わっているようですね」
「ええ。結論から言うと、会社は評価を偽装しています」
紘子が身を乗り出して言った。
「評価記録が作られた十二日には説明を受けていません。二次評価者のサインもありません。私が上司と口論になったのは十四日です。会社は、私の『協調性欠如』を理由にしていますが、そもそも上司の計算ミスが原因で——」
「佐々木さん」
襟華が、静かで通る声で紘子の言葉を遮った。
「お気持ちは分かります。理不尽な扱いを受け、怒りを感じるのは当然です。……ただ、それをそのまま会社にぶつけると、あなたは圧倒的に不利になります」
「不利、ですか?」
「はい」
襟華は、任三郎がピックアップしていた紘子のチャット履歴を指差した。
「『そちらの確認不足では。当部署の責任範囲外です』。『マニュアルを読んでから聞いてください』。……この言葉の記録は、会社側にとって『協調性欠如』の格好の証拠になります。あなたが原因は上司にあると感情的になればなるほど、会社側は『やはり感情的で扱いづらい社員だった』という主張を強め、このチャットの文言を盾にして正当化してきます。法律の場では、原因を作ったのが誰かよりも、残された記録がどう見えるかが重要になるんです」
紘子はきつく拳を握りしめた。奥歯を噛み締め、任三郎に指摘された時と同じ、苦い敗北感を飲み込む。事実として自分が発信した言葉である以上、言い逃れはできない。画面越しに放った刺々しい言葉が、今になって自分自身の首を絞めている。
「ですが」
襟華の眼差しが、スッと冷たさを帯びた。
「会社側の手続きにも、明確な瑕疵があります。伊藤先生が指摘した二次評価者の署名の欠落。そして、佐藤さんが整理した本人確認日付の偽装。これは、退職勧奨の前提となる評価そのものの正当性を根本から揺るがす事実です」
「じゃあ、勝てるんですか?」
「『勝てるか』ではなく、まず『争える形』にします」
襟華は安易な勝利を保証することはしなかった。現実的な着地点を見据える実務家の顔だった。
「感情論は横に置きます。チャットでのあなたの態度は不適切だったかもしれないが、それは業務指導の対象であって、即座に退職を強要される理由にはならない。一方で、会社の手続きはルールを逸脱している。この二つを切り離し、客観的な事実と記録だけで会社側に反論をぶつけます。私たちは、会社のルール違反という事実だけを武器にして戦うんです」
襟華の論理的な整理に、紘子は深く頷いた。彼女たちは紘子を無条件に肯定し、慰めてくれるわけではない。しかし、会社側が仕掛けた狡猾な欺瞞に対しては、冷徹なまでに容赦がなかった。
頼りなげだった神田の古い一室で、三人の異なる視線が交差していく。人事の目、労務の目、そして法律の目。一人では抱えきれず、ただ立ち尽くすしかなかった理不尽が、彼らの手によって、会社へ突き返す鋭利な『武器』へと研ぎ澄まされていくようだった。
「佐藤さん」
襟華は、不意に任三郎へと鋭い視線を向けた。
「ここから先の会社への通知、代理交渉は私の領域です。あなたは絶対に手を出さないでください。あなたが会社と直接交渉をすれば、非弁行為として足をすくわれます。依頼人を守るためにも、越権行為は許されません」
任三郎はボールペンを机に放り出すと、微かに皮肉な笑みを浮かべた。
「分かっている。俺は代理人じゃない。証言を時系列に落とし込み、使える形にして、代理人に渡すのが仕事だ。越権行為をするつもりはない」
「ならいいんですが。……あなたは目的のためにプロセスを飛ばす危うさがあるから、念を押しているんです」
襟華の言葉には、単なる業務上の注意にとどまらない、任三郎自身への強い警戒と心配が入り混じっていた。任三郎が桐和ヒューマンキャピタルに抱く復讐心が、いつか彼自身を破滅させるのではないか。そんな危惧が、彼女の厳しい口調の裏に透けて見えた。
「大丈夫だ。プロセスは飛ばさない」
任三郎はそう言って、再び視線を資料へと戻した。
「田中さんが交渉に入る前に、もう一つだけ、確実に固めておきたい『事実』がある」
「事実?」
襟華とみのりが同時に任三郎を見る。
任三郎は、紘子が持参したチャット履歴の横に置かれていた、クラウド上のファイル共有履歴のプリントアウトを引き寄せた。
「佐々木さん。あなたがこの『評価面談記録』のファイルを、会社の共有フォルダから自分の端末にダウンロードしたのはいつですか?」
「えっと……十四日です。退職を迫られた面談の直後、これは証拠になると思って、自分のパソコンにすぐにダウンロードしました」
「その時点では、二次評価者の署名もなく、本人確認欄も『説明済み』にチェックが入っているだけだった」
「はい。間違いないです」
任三郎はプリントアウトされた更新履歴の、ある一行をペン先で強く叩いた。沈黙に包まれた部屋に、紙を叩く音が異様に大きく響く。
「会社の共有フォルダの更新履歴です。十四日の面談後……十五日の深夜に、この評価ファイルが書き換えられている」
「えっ……」
紘子が声を漏らす。襟華の目つきが鋭くなり、みのりが眉をひそめた。
「佐々木さんが面談直後に保存したファイルと、今現在、会社のサーバーに保存されている最新のファイル。中身に何らかの違いがあるはずだ」
任三郎の声は淡々としていたが、その中には決定的な矛盾を見つけた猟犬のような熱が孕んでいた。
「面談で退職を迫った後で、会社は評価記録に何を書き足したのか。……そこを詰めれば、会社はもう逃げられない」




