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切られ屋、逆転帳~不当解雇された元人事マンの企業復讐~  作者: 伊達ジン


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2/12

第2話 都合の悪いチャット

 朝の冷たい空気が残る室内で、小さな鳴き声が響いた。


「キュウ、キュウ」


 佐藤任三郎は、ベッドの中で重い瞼をこじ開けた。窓の隙間から差し込む白い光が、床に乱雑に脱ぎ捨てられた服や、読みかけのまま伏せられた分厚い実務書の背表紙を照らしている。桐和ヒューマンキャピタルを解雇されてからというもの、彼の生活リズムは乱れがちだった。出勤という絶対的な強制力がなくなったことで、夜更かしをしては過去の案件記録を脳内で反芻し、昼過ぎまで泥のように眠る日々が続いていたのだ。

 だが、ここ数日は強制的に朝起きる理由ができている。

 壁際に置かれた、この殺風景なワンルームにはひどく不釣り合いな真新しいケージ。

 中には、生後二ヶ月弱のポメラニアンの子犬がいる。

 数日前、ふらりと訪れた郊外のブリーダーの元で、衝動的に購入してしまったのだ。

 なぜ、収入も安定せず、自分の生活すらまともに管理できていない今の自分が、手のかかる子犬を飼い始めたのか。任三郎自身にも完全には説明がつかない。ただ、会社から「情報管理上の不適格」「重大な職務上の問題」と烙印を押され、社会的な価値を剥奪された虚無感。そして何より、過去に自分が人事コンサルタントとして加担してしまった業務——会社の論理で切り捨てられた者たちへの消えない後悔が胃の奥に冷たく居座る中で、誰の評価も介在しない、ただただ無条件に自分を頼ってくれる存在を求めたのかもしれなかった。

 ケージに近づくと、毛玉のような子犬が短い尻尾を千切れんばかりに振ってすり寄ってくる。キャンキャンと甲高い声を上げ、ケージの柵に小さな前足をかけて飛び跳ねていた。自分の小さな世界に現れた唯一の庇護者へ向ける、一切の疑いを持たない真っ直ぐな瞳。


「……待ってろ」


 任三郎は寝癖のついた前髪を無造作に掻き回しながら、不器用な手つきでドッグフードを計量した。電気ケトルで沸かしたお湯で少し柔らかくふやかしてから、子犬用の粉ミルクを規定量だけ混ぜてケージの中に入れた。

 子犬は勢いよく餌皿に顔を突っ込み、一心不乱に食いつく。ペチャペチャと音を立てて食べる小さな背中を見下ろしながら、任三郎はふと深く息を吐いた。

 名前を決めなければならなかった。ブリーダーからは血統書上の長くて立派な名前を聞かされていたが、日常的に呼ぶ気にはなれない。かといって、安直な愛称をつけるのも皮肉屋の自分には似合わない気がした。

 任三郎は、ミルクで少し汚れた子犬の鼻先を指で軽く拭いながら、ふと呟いた。


「……ロク」


 記録の、ロク。

 これからの自分が、決して見落としてはいけないものの名前。少しドライだが、今の自分の状況と奇妙に合致する、愛着の湧く響きだった。

 子犬は自分の名前だと理解したのか、食事から顔を上げ、くりっとした黒い目で任三郎を見上げた。小首を傾げ、鼻を短く鳴らす。


「留守番だ、ロク。行ってくる」


 任三郎は少しだけ口角を上げると、シャツに袖を通し、ネクタイを締めずにジャケットだけを羽織って神田の雑居ビルへと向かった。


★★★★★★★★★★★


 神田にある労務記録相談室「逆転帳」。

 約束の時間ちょうどに、乾いたノックの音が響いた。


「どうぞ」


 ドアを開けて入ってきた佐々木紘子は、昨日のネイビーのジャケットとは打って変わり、今日は少し落ち着いたベージュのセットアップを着ていた。だが、昨日と変わらない毅然とした佇まいは、ベージュの柔らかな色合いを纏っていても、彼女の内にある勝気な芯を隠しきれていなかった。不当な扱いを受けている自分を哀れまれたくないという強い自尊心が、その真っ直ぐな視線に表れている。

 机の上には、昨日佐々木が持参した退職勧奨通知書、評価面談記録、そして分厚い業務用チャットの履歴が並べられている。

 任三郎は、佐々木の名前を書いた案件帳を開き、彼女の対面に座った。


「佐々木さん。昨日、評価面談記録の作成日が十二日であることは確認しました。あなたが上司と決定的に口論になった十四日を理由にしているにも関わらず、記録は二日前に作られている。会社側が、退職という結論を先に決めていた可能性は高い」


 佐々木の顔に、微かに安堵と優越感が浮かぶ。自身の抱いていた疑念が、客観的な日付によって明確に裏付けられたのだから当然の反応だった。


「ですが」


 任三郎は、その空気に冷水を浴びせるような淡々とした声で続けた。


「このチャット履歴を見る限り、あなた自身の態度に問題があったのも事実です」


 佐々木の表情がピタリと固まった。

 任三郎は、印刷されたチャット履歴の束から数枚を抜き出し、ペン先で叩く。そこには彼女が社内で交わした業務上のやり取りが無機質なテキストとして並んでいる。


「十二日の午前。他部署からの問い合わせに対し、あなたは『そちらの確認不足では。当部署の責任範囲外です』と突き放している。その後、別件の調整依頼に対しても『リソース不足』の一言でシャットアウトしている。さらに、社内の共有フォルダの運用について同僚から質問された際にも、『マニュアルを読んでから聞いてください』と切り捨てていますね。……これを客観的に見れば、協調性を欠いていると判断されてもおかしくはない」


 佐々木は唇を強く噛み締めた。整った顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。


「……またそうやって、私の態度の問題にすり替えるんですか。あれは上司のせいで……」


 前日のやり取りを思い出したのか、佐々木は一瞬言い淀んだものの、それでも納得できないというように言葉を繋いだ。


「そもそもの原因は上司の計算ミスで、私がその尻拭いをさせられていたからで……私は理不尽な指示を押し付けられて、それでも部署を回そうとしていたんです!」

「原因が誰にあろうと、他部署との調整を放棄し、同僚に対して攻撃的な言葉を投げたという『事実』は消えません」


 任三郎は少しも同情を含まない目で佐々木を見返した。


「あなたの怒りはもっともですが、その態度は問題です。組織で働く上で、協調性を欠いていたと評価される要素は確かに存在した。……だが、それと、上司が自分の失敗を隠すためにあなたに責任を押し付け、日付を偽装してまで退職勧奨の記録を作っていいこととは、まったくの別問題です」


 佐々木は目を見開いた。反発しようとして開かれていた唇が、行き場を失ってわずかに震える。

 任三郎は案件帳に黒いボールペンを走らせる。『同僚への攻撃的言動』『他部署への調整拒否』。佐々木にとって不都合な事実を、一切隠すことなく書き込んだ。


「あなたの欠点は隠しません。隠せば、会社側がそこを突いてきたときに必ず崩れる。欠点は欠点として記録に残し、認めた上で、会社の記録改ざんと責任転嫁を切り離して戦うんです」


 任三郎の冷徹な事実へのこだわりを前に、佐々木は言葉に詰まった。彼は決して自分を甘やかさない。しかし、同時に自分を陥れようとする欺瞞も絶対に看過しない。そのぶれない一貫性が、佐々木に奇妙な信頼感を抱かせ始めていた。


「……分かりました。私が送ったチャットの内容については、言い訳しません」


 佐々木が小さく、だがはっきりと頷いたとき、事務所のすりガラスのドアがノックもなしに勢いよく開いた。


「相変わらず、換気が悪いわね。ヤニ臭い」


 早口で遠慮のない声とともに部屋に入ってきたのは、小柄な女性だった。

 背筋をピンと伸ばした彼女は、百五十八センチ前後の細身で華奢な体格を感じさせないほど圧倒的な圧を放っている。黒のテーラードジャケットに白いブラウス、細身のパンツ。外回りに適した実務的な服装だが、彫りの深さを感じさせるほどに美しく整った小顔と、通った鼻筋、そして射すように強い光を宿した涼やかな双眸が、彼女の並外れた知性と、決して折れない意志の強さを雄弁に語っていた。

 顎下で切り揃えられた黒いショートボブの髪を、邪魔そうに細い指で耳にかけながら、彼女は任三郎を鋭い視線で見据える。

 伊藤みのり、二十七歳。彼女自身が代表を務める社労士事務所の社会保険労務士だ。


「伊藤さん。早かったですね」

「あんたが急に東都業務ソリューションの就業規則と評価制度の確認が必要だって言うから、予定を前倒ししてきたのよ」


 みのりはヒールの音を響かせて机に近づくと、腕を組み、不機嫌そうに眉をひそめて机上の惨状を一瞥した。


「……ちょっと、佐藤さん。依頼人の資料、机に出しっぱなし? 同意書は取ったの? 情報の取り扱い範囲の確認は?」


 任三郎は少しバツの悪そうな顔をして、前髪をかき上げた。


「これから整備するつもりです」

「あんた、自分のことになると本当に雑ね。会社を訴える前に、ここが情報管理の不備で訴えられるわよ。依頼人の人生背負ってるって自覚ある?」


 早口で容赦のない指摘に、任三郎は反論もできず押し黙る。

 佐々木は、自分に対してはあんなに冷静で容赦なかった任三郎が、小柄な女性に叱り飛ばされている光景に少し呆気にとられていた。


「あなたが佐々木さんね。伊藤みのりです。社労士をやっています。よろしく」


 みのりは佐々木に向き直ると、きっぱりと挨拶した。その声には先ほどの怒気はなく、実務家としての静かな信頼感があった。

 佐々木も慌てて姿勢を正し、頭を下げる。


「佐々木紘子です。……社労士の先生が、ここに関わってくださるんですか」

「先生なんて呼ばなくていいわ。私は制度と、それが現場でどう運用されたかのズレを見るだけ。法的な有効性の判断や、会社との代理交渉が必要になったら、また別の専門家に任せるから」


 みのりは早速、鞄からノートパソコンと分厚いバインダーを取り出すと、佐々木が追加で持参した東都業務ソリューションの就業規則と評価制度の冊子を手に取った。


「佐藤さんから昨日の夜、ざっくりとは聞いてる。評価面談記録の日付がおかしいって話ね」


 みのりはパラパラと素早くページをめくり、活字の海から必要な情報を瞬時にすくい上げていく。その無駄のない手つきと視線の運びは、膨大な労務資料を日常的に処理している専門家特有のものだった。

 やがて、みのりは書類のある箇所で指をピタリと止めた。


「佐々木さん、東都業務ソリューションの規程だと、評価の確定には一次評価だけじゃなくて『二次評価者の署名』が必要になってるわね」

「はい。規程上はそうなっていますが……」


 みのりは、手元にある評価面談記録のコピーを、刃のような鋭い眼差しで睨みつけるように見つめた。


「でも、このコピー、二次評価者の欄が空欄のままだわ」


 みのりの短く鋭い指摘が、室内に静かな波紋を広げた。

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