第1話 会社に言われた言葉
東京都千代田区、神田。
西日が斜めに差し込む古い雑居ビルの一室には、生活の匂いがまるでなかった。
壁に掛けられたホワイトボードには予定一つ書き込まれておらず、スチール製の棚には空のファイルがいくつか並んでいるだけだ。
窓際のパイプ椅子に深く腰掛けた佐藤任三郎は、手元にある一枚の紙切れを無表情に凝視していた。
桐和ヒューマンキャピタル株式会社からの解雇通知。
つい数ヶ月前まで彼が所属していた、人事コンサルティング会社の公式な書面だ。そこに記載されている解雇理由は、たった二行に集約されていた。
『重大な職務上の問題』
『情報管理上の不適格』
任三郎は短く息を吐き、指に挟んでいた煙草を机の上の灰皿に押し付けた。細い煙が立ち上り、安っぽい換気扇に吸い込まれていく。
自分が切る側にいた頃、幾度となく見てきた定型文だった。会社にとって都合の悪い人間を排除する際、誰も傷つかないように、そして誰の責任にもならないように選ばれる綺麗な言葉。それが今、自分自身に向けられている。
口の中に残った煙草の苦味と、胃の奥に居座る鉛のような重さを洗い流すため、任三郎は立ち上がった。
壁際の小さな冷蔵庫を開け、未開封の紙パックの牛乳を取り出す。コップに移す手間すら煩わしく、封を開けて直接口をつけて煽った。冷たい液体が喉を通り抜ける感覚だけが、今の彼にとって唯一の明確な現実だった。
コンコン、と。
控えめだが、はっきりとしたノックの音が室内に響いた。
任三郎は口元を手の甲で拭うと、紙パックを机の端に置き、首の詰まりを直すようにシャツの襟元を少しだけ緩めた。
「どうぞ」
すりガラスのドアを開けて入ってきたのは、この古びたビルにはひどく不釣り合いな女性だった。
ネイビーのテーラードジャケットに、センタープレスの入った美しいシルエットのパンツ。ヒールの音を静かに響かせて室内を見渡す彼女の姿勢には、一切の隙がない。明確な顎のラインと高い頬骨が、彼女の自尊心の強さと気の強さを物語っていた。胸上まである艶やかなダークブラウンの髪が、彼女が首を巡らせるたびに華奢な肩の上で静かに揺れる。健康的で引き締まった百六十八センチほどの長身は、仕立ての良いジャケットの上からでもその曲線的な美しさを十分に主張していた。意志の強い目元が、任三郎をじっと見据える。
「労務記録相談室、逆転帳……ここで間違いないですか?」
「ええ。どうぞ」
任三郎が応接用の簡素なソファを手で示すと、女性は任三郎の顔をまじまじと見つめ、あからさまに眉をひそめた。
無理もない。相談室の主は、ネクタイすら締めていない二十四歳の若い男だ。耳にかかるほどの少し無造作で黒に近い髪に、細身ながらもしっかりとした肩幅。端正だがどこか鋭さと疲労を同居させた目元には、この神田の寂れた雑居ビルには不釣り合いな、冷ややかな色気が漂っていた。およそ自分の人生を左右する労務相談の窓口だとは思いにくいだろう。
「あなたが、佐藤さん?」
「はい」
「……弁護士の先生がいらっしゃるわけではないんですね?」
「俺は弁護士でも社会保険労務士でもありません。代理で会社と交渉することも、法廷に立つこともできない。できるのは、あなたの手元にある記録を整理して、専門家に渡せる状態にすることだけです」
女性は少しの間、任三郎の目を値踏みするように見た。その端正な顔立ちに浮かぶ無愛想さと、無理に同情を引こうとしない態度に、逆にいくらか納得したように小さく息を吐く。
彼女はソファに浅く腰掛け、持参した上質な革のトートバッグから分厚いクリアファイルを取り出した。
「東都業務ソリューションの営業企画部に所属しています。佐々木紘子と言います」
任三郎は佐々木の対面に座り、まっさらなキャンパスノートを開いた。依頼人ごとに作る、一冊の案件帳だ。黒のボールペンを握り、ノートの最初のページに視線を落としたまま尋ねる。
「会社から、何と言われましたか?」
佐々木は姿勢を正し、はっきりとした口調で答えた。
「能力不足。それと、協調性の欠如だそうです」
任三郎はボールペンを走らせる。
『能力不足』
『協調性欠如』
それだけを書き込むと、任三郎はあっさりとページをめくった。
佐々木が目を丸くする。
「……それだけですか? なぜ私がそんなことを言われたのか、聞かないんですか」
「これから聞きます。起きた順番に教えてください」
佐々木は少し苛立ったようにクリアファイルを開いた。中から出てきたのは、退職勧奨通知書、評価面談の記録コピー、そして大量に印刷された業務用チャットの履歴だった。
「結論から言いますと、上司の完全な責任転嫁です」
佐々木は書類を指先で強く叩いた。
「来期の売上予測を立てるプロジェクトで、直属の上司が致命的な数字の計算ミスをしたんです。私はそれを指摘しましたが、彼は自分のミスを認めず、強引にその予測で進めました」
任三郎は相槌を打たず、視線は佐々木の手元の資料に向けられている。
「結果として予測は破綻し、他部署からのクレームが殺到しました。上司はその尻拭いと、他部署との炎上した調整業務を、すべて私に丸投げしたんです」
佐々木の声に熱がこもる。プライドの高さと、不当な扱いに対する強い怒りが滲んでいた。
「私は当然、抗議しました。そもそもの原因はあなたにあるんじゃないですか、と。そうしたら、私の態度が攻撃的だ、周囲との協調性がないと評価を下げられ……この退職勧奨です」
佐々木は任三郎の顔を見た。共感か、あるいは会社への憤りを共有してくれることを待っている目だった。
しかし、任三郎は表情一つ変えずに口を開く。
「その計算ミスをあなたが指摘したのは、何月何日ですか?」
「……え?」
「口頭ですか、メールですか。それともチャットですか」
佐々木は少し戸惑ったように答える。
「口頭です。会議室で」
「他に誰かいましたか?」
「いえ、二人きりでした」
任三郎はノートに短いメモを書き込む。
「では、そのミスが発覚して、他部署からクレームが来たのはいつですか」
「今月の十日です。メールで一斉に送られてきました」
「上司があなたに調整業務を指示したのは?」
「その日の午後です。口頭で、『お前が適任だからやっておけ』と」
任三郎の視線が、印刷されたチャット履歴に落ちる。
「このチャットで、あなたが他部署の担当者に対して『そちらの確認不足では』と送信しているのは、十二日の午前十時。そして上司に対して『ふざけないでください、自分で説明してください』と送っているのは、十四日の午後三時ですね」
「私が怒ったのは当然です! 何の引き継ぎもなく、他部署からはサンドバッグにされて……!」
「ええ」
任三郎は佐々木の言葉を遮った。
「ですが、あなたが感情的になったという記録は残っていて、上司がミスをしたという記録、そして上司があなたに尻拭いを指示したという記録は、今のところどこにもありません」
佐々木の顔が強張った。
「じゃあ、私が悪いって言うんですか? あなたも会社と同じことを言うんですね」
佐々木の声には、自分を不当に扱う者への攻撃的な響きがあった。
任三郎はボールペンを走らせる手を止め、初めて佐々木の目を真っ直ぐに見た。
「俺はあなたが悪いとは一言も言っていません」
「でも……!」
「あなたの怒りはもっともですが、それは証拠にはならない。会社が残した記録と、実際に起きた日付を分けているだけです」
任三郎は少し伸びた前髪を鬱陶しそうにかき上げた。
「会社は綺麗な言葉で人を切ります。総合的判断、組織適性、協調性。そういう主語のない曖昧な言葉に、あなたの感情で対抗しても勝てない。必要なのは、事実を順番に並べることです」
任三郎の静かで冷たい声に、佐々木は反論の言葉を飲み込んだ。この男は自分に同情していない。だが、自分を見下しているわけでもない。ただ、机の上の紙切れだけを、残酷なほど正確に見つめている。
任三郎は佐々木から書類の束を受け取り、机の上に並べた。
退職勧奨通知。評価面談記録。チャット履歴。
任三郎の指先が、退職勧奨通知の日付、面談の記録、チャットの送信時間を順番になぞっていく。佐々木の言葉から感情的な怒りだけを削ぎ落とし、ただの数字と文字として脳内のタイムラインに並べ替えていく。
室内には、紙をめくる音と、遠くから聞こえる車の走行音だけが響いていた。
ふと、任三郎の手が止まった。
彼は二つの書類を並べ、じっと見比べた。目元に、ほんのわずかな鋭さが宿る。
「佐々木さん」
「……はい」
「先ほど確認した通り、あなたが他部署との調整を拒否し、上司と決定的に口論になったのは、今月の十四日ですね。チャットの履歴にもそう残っている」
「はい」
任三郎は、もう一枚の紙を佐々木の前に滑らせた。
「この『評価面談記録』を見てください」
佐々木は怪訝な顔でその紙に目を落とす。
「あなたの協調性のなさ、他部署とのトラブル、上司への反抗的な態度が組織の秩序を乱したため、総合的判断として最も低い評価をつける。そう書かれています」
「だから、それが責任転嫁だって言ってるんです。私の態度の問題にすり替えて——」
「作成日を見てください」
任三郎の短い言葉に、佐々木の視線が書類の右上に移動する。
そこには、会社のシステムで出力された日付が印字されていた。
佐々木の呼吸が止まる。
「……え?」
「この面談記録の作成日は、十二日になっています」
任三郎は机の上のボールペンを拾い上げ、チャットの十四日の日付と、面談記録の十二日の日付を交互に指し示した。
「上司があなたを呼び出し、『お前のせいで部署が回らない』と退職を促した面談が行われたのは、十四日の夕方のはずだ。だが、この記録は二日前に作られている」
任三郎の声には、隠しきれない皮肉めいた響きが混ざっていた。
「この面談記録を作った時点では、まだ問題は起きていません」
佐々木は書類を握りしめ、顔を上げた。彼女の自尊心と怒りが、今度は正しい方向への熱を持って任三郎を見据える。
任三郎は案件帳のページをめくり、新しいページに『十二日・評価面談記録作成』と書き込んだ。
「あなたの協調性が欠如していたから退職を勧めたんじゃない。退職させるという結論が先にあって、後からあなたの怒りを利用したんです」
任三郎はボールペンを机に戻し、ノートをそっと閉じて佐々木を見た。
「会社が事前に用意していた時系列です。この矛盾した記録から、会社側の説明を崩しますよ」




