第10話 元同僚が知っている番号
神田の古い雑居ビルにある労務記録相談室「逆転帳」。
午後を回った室内には、蛍光灯のわずかな唸り音と、任三郎がキャンパスノートにペンを走らせる乾いた音だけが響いていた。外を走る車の走行音すら、厚いガラス窓に遮られて遠く感じる。
デスクに向かう任三郎の視線は、昨日中村航平が置いていった仕様変更の指示メールのプリントアウトに釘付けになっていた。より正確に言えば、その用紙のヘッダー部分に小さく印字された英数字の羅列だ。
『TC-O-2026-05…』
宛先でも、プロジェクト名でも、日付でもない。システムの自動印字とも違う、意図的に付与された管理番号の痕跡。
任三郎の脳裏に、かつて桐和ヒューマンキャピタルに在籍していた頃の記憶が鮮明に蘇る。退職勧奨支援や、組織適性改善支援といった人事コンサルティングのプロジェクトにおいて、顧客企業ごとに割り振られていたフォーマットの識別番号。それと酷似していた。
(……やはり、桐和が裏で糸を引いているのか)
冷たい怒りが胸の奥で静かに鎌首をもたげる。
中村を「組織適性不足」「スケジュール管理の甘さ」と一方的に決めつけ、急な仕様変更という無理難題を押し付けた上に、六月からの短い期間で形ばかりの業務改善指導を行ったルミナスコード株式会社。その理不尽な処理の背後に、あの鷺沢征司へ繋がる承認経路が存在するのだとしたら。
今すぐ桐和に電話をかけ、この番号の意味を問い詰めたい衝動に駆られ、指先が動きかけた。
だが、任三郎はキャンパスノートの上でペンを止めた。
『憶測だけで会社に踏み込めば、相手に警戒され、揚げ足を取られるだけです』
つい先日、連携する弁護士の田中襟華から受けた厳しい制止の声が蘇る。
この案件の初期段階で、任三郎は桐和への執着から結論を急ぎ、危うく中村の案件ごと台無しにしかけた。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。この番号が桐和の書式と似ているというだけで、法的な証拠にはならないのだ。
任三郎は深く息を吐き出し、ペンを置いた。
「……憶測だけで動くのは、三流のやることだ」
小さく呟き、スマートフォンを手に取る。怒りに目を曇らせてはいけない。事実だけを、順番通りに並べるのだ。発信先は、昨日の中村の面談にも同席していたネクストゲートキャリアの転職エージェント、山本ゆき子だ。
数回のコールの後、ゆき子の穏やかな声が響いた。
『はい、佐藤さん。何かありましたか?』
「昨日の中村さんの資料について、確認したいことがあります。あの仕様変更の指示メールに印字されていた番号なんですが……」
任三郎が文字列の特徴と、それが特定の企業の人事支援フォーマットに似ているという懸念を伝えると、ゆき子は電話の向こうで少し考え込むような沈黙を挟んだ。専門外の領域にも誠実に向き合おうとする彼女らしい間だった。
『私では、その番号の規則性までは分かりません。ただ……うちの人事担当なら、心当たりがあるかもしれません』
「人事担当?」
『ええ。以前、桐和ヒューマンキャピタルに勤めていた人間です。資料の書式のことなら、分かるかもしれません。今日の夕方、私が彼女をそちらへ連れて行きましょうか』
思わぬ提案に、任三郎はわずかに目を見開いた。過去の桐和を知る人間が、こんな身近にいたとは。だが、今は背に腹は代えられない。
「助かります。お願いします」
通話を切り、任三郎は再び時系列表へ視線を落とした。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時、「逆転帳」のドアが開いた。
ゆき子に案内されて入ってきたのは、小柄で非常に細身の女性だった。知的な緊張感を宿した端正な小顔に、強い意志が表れる目元。アッシュ系のダークブラウンのミディアムヘアをきれいに横分けにし、仕立ての良いチャコールグレーのジャケットと細身のパンツを着こなしている。
小柄ながらも、顎をわずかに上げて背筋をピンと伸ばした立ち姿は、現役の人事担当者としての鋭い圧を放っていた。
「こちら、弊社の吉田です」
ゆき子が紹介するより早く、その女性――吉田彩は、まっすぐに任三郎へと歩み寄った。勝ち気な強い目元が、任三郎の顔をじっと見据える。だがその視線の奥には、一瞬だけ、痛みを堪えるような揺らぎがよぎっていた。
「……久しぶりね、任三郎」
その親しげで、かつ棘を含む声に、少し離れたデスクで作業をしていた佐々木紘子の手がピタリと止まった。
「佐藤さん」
紘子が立ち上がり、来客用の茶を準備しながら、彩を値踏みするように細めた目で見た。
「昔のお知り合いですか」
「前の職場の、一年先輩です」
任三郎は表情を変えずに淡々と答えた。
彩は紘子をちらりと一瞥し、それから事務所の簡素な内装へ視線を巡らせた。
「神田で相談室を始めたって噂は聞いていたけど。……随分と立派な案件管理担当がいるのね」
「仕事ですから」
紘子は涼しい顔で茶をテーブルに置き、任三郎の隣のデスクへと自然な動作で戻った。
「ここの案件管理は、私がすべて任されています」
その迷いのない距離感に、彩の眉がわずかに寄った。
ただの仕事だと言うくせに、再会した任三郎の隣には、自分の知らない女性が当然のような顔をして座っている。
彩は任三郎から視線を外し、小さく奥歯を噛み締めた。その端正な横顔に一瞬だけ浮かんだ昏い翳は、かつて桐和を追われた彼を前にして、自分が選んでしまった行動への消えない悔恨の表れだったのかもしれない。
「……それで? 昔の同僚をわざわざ呼び出して、何の用?」
彩は感情を押し隠し、腕を組んで任三郎の正面に座った。
任三郎は女性たちの間に流れる静かな摩擦に全く気づかないまま、仕様変更メールのプリントアウトを彩の前に滑らせた。
「このヘッダーの番号、見覚えはありますか」
彩は任三郎の事務的な態度に少し唇を噛んだが、用紙に目を落すと、すぐに人事担当者としての鋭い顔つきに変わった。
「……間違いないわ。桐和のフォーマット識別番号よ。私がいた頃の規則と変わっていなければね」
彩は細い指で、文字列をなぞった。
「『TC』は桐和の頭文字。『O』は『組織適性改善支援』のプロジェクトを意味するわ。退職勧奨支援の場合は別のアルファベットになる。そして、ここからが重要なんだけど」
彩は『2026-05』の部分をトントンと指先で叩いた。
「年は分かるわよね。その後ろの『05』は、支援を開始した月よ」
任三郎の視線に、すっと鋭い光が宿った。
「五月、ですか」
「ええ。顧客企業ごとに番号を振って、いつから介入したか一目で分かるようにしているのよ。この資料が出力されたシステムには、五月の段階で桐和のコンサルティングが入っていたはず」
「……なるほどな」
任三郎は短く呟いた。
ただの文字列だと思われた羅列が、彩の記憶というフィルターを通すことで、ルミナスコードが隠していた欺瞞を暴くための鋭い『楔』へと変わっていく。
任三郎は手元のノートを開いた。昨日まとめた、中村の時系列だ。
四月、中村が入社。
五月中旬、仕様変更の指示。中村が強く反発するが、納期通りに納品。
五月末、上司からの「うちには合わない」発言。
六月、週一回の業務改善指導開始。評価の急落。
「会社は、六月に指導を始めてから『中村のコミュニケーション能力に問題がある』と判断したわけじゃない。五月の時点で、すでに桐和の組織適性改善支援を入れていた」
「つまり、本採用を拒否するための理由作りですね」
ゆき子が静かに言葉を添えた。
任三郎は頷く。
「ええ。五月中旬の仕様変更で強く反発した中村さんを排除するために、会社は五月の時点で切る結論を出していた。六月の改善指導も、最低点の評価も、その結論を正当化するために後から作った『台本』にすぎません」
見事な手口だ。会社は「改善の機会を与えたが、本人の能力と適性が不足していた」という客観的な記録を作るためだけに、中村に無意味な面談を受けさせていたのだ。
彩が身を乗り出し、任三郎の顔を覗き込んだ。
「桐和が絡んでいる証拠が一つ出たわね。どうするの? すぐに桐和へ怒鳴り込む気?」
彩の言葉には、任三郎が桐和のこととなると冷静さを失う弱点を知る者としての、棘のある心配が込められていた。
だが、任三郎は首を横に振った。
「しませんよ。この番号一つだけで桐和を追及しても、『一般的なフォーマットを提供しただけだ』と言い逃れされます。俺たちが相手にするのは、そういう連中だ」
彩は少し驚いたように目を丸くした。昔の彼なら、この情報を武器に単独で突っ走っていてもおかしくなかったからだ。
「中村さんの本採用拒否の正式な社内決定日と、桐和の支援開始日。この二つを、別々の客観的な資料から立証します。桐和の関与を確定させるのは、逃げ道をすべて塞いでからです」
任三郎のその冷静な判断に、彩はわずかに表情を緩め、それからまた複雑な顔をした。自分が助けられなかった後輩は、確実に自分がいなくても戦える力を身につけつつある。
「とりあえず、私の役に立てる情報はこれくらいね」
彩は立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「これからは、こういう資料の確認なら私が直接見るわ。いちいち山本さんを通さなくていいから。連絡先、変わってないわよね?」
彩が任三郎にスマートフォンを向けた瞬間、紘子がすかさず口を開いた。
「外部の方との面会や資料のやり取りは、案件管理担当の私を通していただけますか」
紘子は立ち上がり、彩へ真っ直ぐに視線を向けた。
「佐藤さんは実務で忙しいので、スケジュール管理や資料の版管理は私が一本化しています。個人的なご連絡は結構ですが、案件に関わることはルールを守ってください」
「へえ」
彩は紘子を見据え、ふっと笑った。
「単なる事務員かと思ったら、随分と強い権限があるのね」
「責任を持って管理していますので。中途半端な介入は困ります」
火花が散るような二人の視線。そこへ、ゆき子が穏やかな、しかし芯のある声で割り込んだ。
「吉田さん。私は中村さんの再就職支援も担当していますから、会社側の評価と実際の実績を分けるためにも、情報の共有は私にも必要です」
ゆき子は任三郎へ向き直る。
「佐藤さん。この後のキャリア整理の打ち合わせ、私はもう少し残ってもよろしいですか?」
「あ、はい。助かります」
任三郎は、三人の間に流れる不穏な空気の変化に全く気づかないまま、ノートの時系列に何かを書き込みながら事務的に答えた。
彩は忌々しげに任三郎を睨みつけ、「……相変わらず、自分の身の回りのことには無頓着なのね」と捨て台詞のように残して、足早に事務所を出て行った。
★★★★★★★★★★★
都内の高層オフィスビル。桐和ヒューマンキャピタル株式会社の会議室。
退職勧奨支援案件担当主任の井上愛永は、手元のタブレット端末をスワイプしながら、かすかに眉をひそめた。
赤みの強いダークブラウンの長い髪を端正なまとめ髪にし、上質なネイビーのジャケットを着こなす彼女は、華やかさと隙のない実務家の空気を同時に纏っている。
会議室の上座には、法人支援本部長の鷺沢征司が深く腰を掛けていた。
「ルミナスコードから連絡があった」
鷺沢は不機嫌そうに言った。
「『逆転帳』というふざけた名前の相談室が、彼らの元社員の入れ知恵をしているらしい。うちが提供した資料の管理番号にも気づいたようだ」
「佐藤任三郎、ですね」
井上は手元の資料から顔を上げた。
「元社員の私怨だ。適当にあしらっておけ」
鷺沢は吐き捨てるように言った。
「ルミナスには『うちは一般的な助言しかしていない。最終的な本採用拒否はそっちの個別判断だ』と回答させろ」
だが、井上はタブレットに表示された、ルミナス側から転送されてきた質問事項を見つめていた。
それは、任三郎が作成し、連携する弁護士を通じて送る準備をしている「確認事項」のリストだった。
(……なぜ本採用拒否したのか、ではないわね)
井上の目が、細く鋭くなる。
質問の焦点は、「誰が」「いつ」「何を根拠に」本採用拒否を決定したのか。その日付と承認経路に極端に集中していた。
(この質問に下手に答えれば、六月の改善指導より前に『本採用拒否』の結論が存在したことが露呈する。……ただの逆恨みで感情的に動いている人間の質問じゃないわ。逃げ道を正確に塞ぎに来ている)
「本部長」
井上は、内心の苛立ちを隠して丁寧な声を出した。
「その回答では、おそらく相手は引き下がりません。質問の意図が正確すぎます」
「何が言いたい」
「相手は、うちの手口を知っています。ルミナス単独で対応させれば、矛盾を突かれて崩れる可能性があります。私が、逆転帳の対応を引き受けましょう」
鷺沢は少し意外そうな顔をした後、鼻で笑った。
「いいだろう。お前の好きにしろ。ただし、桐和に火の粉は振りかからせるなよ」
会議が終わり、鷺沢が退室した後、井上は小さく息を吐いた。タブレットの隅に表示された時計を見る。もうすぐ保育施設へ、一歳の息子を迎えに行く時間だ。立ち止まれば、自分と息子の生活基盤が崩れる。だからこそ、どんな案件でも結果を出してきた。
「面倒な相手ね……」
井上は、まだ直接顔を合わせたことのない敵対者の名前を、舌の上で転がすように呟いた。




