第11話 向こう側の人事
神田の古い雑居ビルにある労務記録相談室「逆転帳」。
西日が差し込む時間帯になっても、室内の蛍光灯はつけっぱなしのままで、デスクの上にはルミナスコードの印刷資料やノートが所狭しと広げられていた。かすかに唸る安っぽい換気扇の音だけが、沈黙の中で妙に耳につく。
壁面に設置されたホワイトボードには、ルミナスコード株式会社における中村航平の時系列が、マグネットと黒いマーカーで整理されていた。
四月の入社。五月中旬の仕様変更と、中村の反発。
そして、六月からの業務改善指導と、急激な低評価の連続。
任三郎はそのホワイトボードを背に、デスクで数枚の書面を睨んでいた。
作成しているのは、ルミナスコードへ送付する正式な「確認事項」のリストだ。
「……徹底していますね」
向かいのデスクから身を乗り出し、その書面を覗き込んだ田中襟華が、半ば呆れたような、それでいて感心したような声を漏らした。
みなと中央法律事務所に所属する弁護士である彼女は、任三郎がまとめた事実を法的な代理交渉や照会手続きへ接続する役割を担っている。今日も上質なグレーのパンツスーツを身に纏い、隙のない実務家の顔をしていた。
「相手は『試用期間中の総合的な判断』という、便利な言葉で逃げるつもりです。なら、その逃げ道を塞ぐまでです」
任三郎は淡々と答え、手元のリストを指先で叩いた。
質問項目は、「なぜ本採用拒否をしたのか」という理由を問うものではない。
「誰が」「いつ」「何を根拠資料として」本採用拒否の稟議を起案し、誰が最終承認したのか。その一点に集中していた。
「抽象的な反論を許せば、水掛け論になります。ですが、社内の決裁手続きには必ず『日付』が存在する。六月の改善指導より前に本採用拒否の決裁が下りていたなら、指導そのものがクビを切るための後付けだったと証明できる」
「法的な照会文書としては、非常に有効です。ただの感情的な告発ではなく、記録の開示に絞っている点が素晴らしい」
襟華は書面を受け取り、自身のファイルに収めた。
任三郎がかつて見せたような、桐和ヒューマンキャピタルへの強い執着から結論を急ぐ危うさを見せず、冷徹なまでに事実関係を詰めていることを評価しているようだった。
「就業規則の観点から見ても、ルミナスの運用は完全にアウトね」
事務所のソファでノートパソコンを開いていた伊藤みのりが、画面から顔を上げずに言った。社会保険労務士である彼女は、手元でルミナスコードの就業規則と、中村に実施された改善指導の記録を突き合わせている。
「規則には『改善の見込みがないと判断した場合、本採用を拒否できる』ってあるけど、指導を始める前に見込みがないと決めていたなら、この条文を根拠にはできないわ。ただの制度の悪用よ」
「ええ。だからこそ、その『決めた日』を引っ張り出す」
任三郎が頷いたとき、事務所のドアが開いた。
入ってきたのは、ネクストゲートキャリアの人事担当者であり、かつて桐和ヒューマンキャピタルで任三郎の一年先輩だった吉田彩だ。
「こんにちは。……またずいぶん、人が揃っているのね」
彩は室内を見渡し、襟華とみのりの存在にわずかに眉を寄せた。
昨日、桐和のフォーマット識別番号について説明した彼女は、追加の確認事項があったのか、あるいは単に様子を見に来たのか、足早に任三郎のデスクへと近づいてくる。
彩が部屋に入ってきた瞬間、佐々木紘子が冷ややかな視線を向け、手元のファイルと名簿をあからさまに片付ける動作で牽制した。彼女は「逆転帳」の有償案件管理担当として、任三郎のスケジュールと資料の版管理を担っている。
「またアポイントなしですか、吉田さん」
紘子の棘のある言葉を、彩は軽く受け流して襟華の方を見た。
「あなたが、代理人の弁護士先生ね。私は吉田彩。昨日の番号の件、少しは役に立ったかしら」
「田中襟華です」
襟華は名刺を差し出し、冷静な声で返した。
「ええ、重要な手掛かりになりました。ですが、最終的な判断は会社側からの公式な回答を待ってからになります」
襟華の言葉の裏にある「あなたの証言だけで動くことはない」という線引きを感じ取ったのか、彩は小さく鼻を鳴らした。
しばらく実務的な確認が行われた後、彩は「それじゃ、また何かあれば直接連絡するわ」と任三郎へ言い残し、事務所を出て行った。
紘子がその背中を忌々しげに見送った後、襟華が任三郎に向き直った。
「佐藤さん」
襟華の声は、先ほどまでの実務的なトーンより一段低く、硬かった。
「元同僚だからといって、彼女の言葉を無条件に信用するのは、なしですよ。向こうの都合の良い情報だけを流されている可能性もゼロではありません」
弁護士としての当然の忠告だった。だが、任三郎は手元のキャンパスノートから顔を上げず、ペンを走らせたまま即答した。
「信用してませんよ」
そのあまりにも迷いのない言葉に、襟華はわずかに目を瞬かせた。
「あの人が知っているのは過去の桐和の書式であって、現在のルミナスの内部情報じゃない。彼女の証言が使える情報かどうかは、他の客観的な記録と照合して判断するだけです」
「……そうですか。それなら、いいんです」
襟華はそう答えながら、心の中に奇妙な苛立ちが生まれるのを感じた。
任三郎が彩に私的な情を挟んでいないと分かり、安堵した自分がいる。弁護士としてではなく、個人的な感情で安心したことに気づき、彼女は無意識のうちに不機嫌な表情を取り繕うように書類へ視線を落とした。
そのやり取りを、ドアの向こう側で忘れ物に気づいて引き返しかけていた彩が、静かに聞いていた。
(……信用してない、か)
彩は自嘲気味に唇を歪めた。任三郎の隣には今、彼の仕事を支え、彼を案じる女性たちが当然のように陣取っている。自分が彼を見捨てた過去の代償を、まざまざと見せつけられているようだった。
★★★★★★★★★★★
数日後、都内の高層オフィスビル。桐和ヒューマンキャピタル株式会社の会議室。
退職勧奨支援案件担当主任の井上愛永は、耳に当てたスマートフォンの向こうから聞こえる、ルミナスコード株式会社の人事担当者の声に、冷ややかな視線をタブレット端末へ落としていた。
不利な局面ほど背筋を伸ばし、肩を開いて堂々と立つ――それが彼女が厳しい実務の中で身につけた、交渉相手を気圧すための無言の自己演出だった。
『――というわけで、逆転帳とやらから、弁護士名義で正式な照会書が届きましたよ。うちは現場の総合的な個別判断で押し通します。回答書も適当に濁しておきますから、ご安心を』
「お待ちください」
井上は、相手の楽観的な言葉を冷徹に遮った。
「濁すだけで引き下がる相手ではありません。相手が狙っているのは、本採用拒否の決定日付、その一点です」
『え? 日付、ですか?』
「ええ。相手が聞いているのは本採用拒否の理由ではなく、決裁の日付と承認経路です。もし、こちらの回答書で五月二十八日の最終決裁をそのまま出してしまえば、六月の改善指導がアリバイだったことを自白するようなものです。相手はそこを突くために質問を設計している」
電話の向こうで、ルミナス側の担当者が息を呑む気配がした。
『な、なら、どう答えろと……。五月二十八日にはもう、社長までの決裁が下りちゃってるんですよ?』
「言い方を変えるのです」
井上はタブレットの画面をスクロールした。
「五月二十八日の稟議は、あくまで『予備的な現状報告と方向性の確認』であり、本採用拒否の『最終決定』ではない、と言い張るのです。最終決定は六月の改善指導の結果を踏まえ、試用期間満了直前に行われたと、プロセスを二段階に引き伸ばした構成に書き換えてください。回答書の文面はこちらで確認します。余計な一言は一切付け加えないで」
通話を切り、井上はタブレットに表示された任三郎の質問リストを改めて見つめた。
(……本当に、面倒な男)
ふと、タブレットの隅に表示されたデジタル時計が目に入る。保育施設へ一歳の息子を迎えに行くタイムリミットが、刻々と迫っていた。完璧に整えたメイクと姿勢の奥に、日常の張り詰めた焦燥を隠し、井上は小さく息を吐いた。
嘘はついていない。だが、事実の『解釈』をずらし、法的な包囲網を紙一重でかわす。完璧な防衛線を敷いたつもりでも、喉の奥に冷たい焦りが張り付いていた。
自分がここで防衛線を構築しなければ、桐和にも火の粉が及ぶ。
井上は思考を切り替え、足早に会議室を後にした。
★★★★★★★★★★★
それからさらに数日後の午後。
「逆転帳」の事務所に、田中襟華が分厚い封筒を持参して現れた。
「ルミナスコードから、代理人宛に正式な回答書が届きました」
襟華がデスクに書類を広げると、任三郎、みのり、そして紘子がその周囲に集まった。
「ずいぶんと時間がかかりましたね」
任三郎が書面に目を落とす。
「ええ。相手も、こちらの質問の意図に気づいたのでしょう。慎重に言葉を選んで、抽象的な回答を避けています」
襟華の言う通り、回答書は不要な言い訳を削ぎ落とし、事実関係のみを淡々と記載する形式を取っていた。おそらく、背後にいる桐和の……あの井上という主任がコントロールした結果だろう。
だが、どれほど言葉を飾ろうと、社内で正式に処理された「記録」の事実は変えられない。
任三郎の視線が、回答書の中盤、本採用拒否の決裁に関する項目で止まった。
「本採用見送りに関する最終稟議の承認日……五月二十八日」
任三郎がその日付を口にした瞬間、みのりが手元の資料を弾くように指差した。
「中村さんの業務改善指導が始まったのは、六月の第一週からよ。間違いないわ」
沈黙が落ちた。
それは、会社側が必死に隠そうとしていた「台本の裏側」が、完全に白日の下に晒された瞬間だった。
「……五月の時点でクビを決めておきながら、六月に改善の機会を与えたふりをした」
任三郎の口元に、冷たい皮肉の笑みが浮かぶ。
相手がどれほど優秀な防衛線を敷こうとも、過去に彼らが残した不正な処理の順序までは消せない。
「台本の裏が取れました。これで、奴らの逃げ道は塞がった」
任三郎は回答書から顔を上げ、ホワイトボードの時系列表を真っ直ぐに見据えた。
切る日付は、最初から決まっていた。
あとは、この事実を使って、理不尽な評価を下した責任者たちを順番に追い詰めるだけだ。




