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切られ屋、逆転帳~不当解雇された元人事マンの企業復讐~  作者: 伊達ジン


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12/12

第12話 切る日付は先に決まっていた

 神田の古い雑居ビル。労務記録相談室「逆転帳」の室内には、獲物を追い詰める直前のような、静かで濃密な緊張感が漂っていた。


 西日がブラインドの隙間から差し込み、無機質なデスクを照らしている。その上にはルミナスコード株式会社から田中襟華宛てに届いた一通の正式回答書が広げられていた。

 任三郎、襟華、みのり、紘子の四人が、その一枚の書面に記された文言を無言で見つめている。室内に響くのは、窓際の安っぽい換気扇が回るくぐもった音だけだ。


「『本採用見送りに関する五月二十八日の稟議は、あくまで予備的な現状報告および方向性の確認であり、最終的な本採用拒否の決定は六月の改善指導期間を経た後に行われたものである』……か」


 任三郎が回答書の文章を読み上げ、鼻で短く笑った。

 相手の背後にいる桐和の主任は、こちらの質問意図を正確に読み、事実の解釈をずらして見事な防衛線を張ってきた。決裁のプロセスを二段階に引き延ばしてまで時間稼ぎを図ったのはそのためだ。

 任三郎は手元の資料を指先で軽く叩き、心中で推論を確信に変える。


(だが、五月二十八日という正式な記録までは消せなかったな)


 どれほど巧妙に言い逃れようとも、会社として正式に処理された日付という事実は、彼ら自身の手で改ざんすることができない。


 紘子が黙ってホワイトボードへ向かい、中村航平の時系列の隙間に黒いマーカーで書き込んだ。


『五月二十八日 最終稟議承認』。


 キュッ、とマーカーの滑る音が静かな室内に響く。


「ええ。記録として日付が出ました。これで十分です」


 任三郎は短く答えると、椅子から立ち上がって窓際の換気扇の下へ向かった。

 ポケットから煙草を取り出して火をつけ、深く吸い込む。しばらく紫煙を揺らし、情報と次の一手を頭の中で整理する。……ひと息ついた任三郎は、煙草を灰皿のフチで揉み消した。それから傍らの小さな冷蔵庫を開け、未開封の紙パックの牛乳を取り出すと、その封を開けて直接口をつけて煽った。


「佐藤さん」


 その様子を見ていた紘子が、耐えかねたように鋭い声を上げた。


「コップも出さずに直飲みですか。あなたの身の回りの管理は本当に雑すぎます」

「俺しか飲まないんです。わざわざ洗い物を増やす必要はないでしょう」

「ズボラなのを理屈で誤魔化さないでください。それに、また牛乳だけで食事を済ませるつもりですか」


 任三郎の気まずい言い訳を、襟華が真顔で切り捨てた。

 冷徹な弁護士としての口調を取り繕ってはいたが、その厳しい小言の底には、任三郎の体調を案じる響きがどうしても隠しきれずに混ざっていた。書類や証拠の整合性となれば寸分の隙も見せない男が、自分の体調や生活空間に対しては無頓着すぎることに、彼女なりの苛立ちがあるのだろう。


 みのりも深く同意するように溜息をつく。


「ほんと。他人の記録の矛盾にはあんなに細かいのに、自分の食生活の矛盾は平気で見逃すんだから」


 そのとき、事務所のドアが開き、山本ゆき子が姿を見せた。彼女の手には、美しく整えられた数枚のクリアファイルが握られている。


「お疲れ様です。中村さんの実績確認、終わりました」

「お疲れ様です。どうでしたか」


 任三郎は手早く口元を拭ってからデスクへ戻り、ゆき子からファイルを受け取った。


「五月中旬の急な仕様変更ですが、中村さんは確かに強い言葉で反発し、コミュニケーション上の衝突はありました。でも……納期自体はしっかり守っています。システムも正常に稼働し、クライアントからのクレームも一切出ていません。技術者として求められる要件は、完全に満たしています」

「なるほど」


 任三郎の目が細くなる。指先でトントンとデスクを叩きながら、時系列を繋ぎ合わせる。


「技術者としての成果は出しているのに、六月に入ってからの評価だけが『スケジュール管理不足』や『協調性欠如』で最低点になっているわけだ。中村さんの実際の仕事と、会社側の評価が完全に食い違っている」


 ホワイトボードの時系列に、ゆき子が持ち帰った「稼働実績」が組み込まれる。

 五月の仕様変更と納期遵守、五月二十八日の本採用見送り稟議、六月の改善指導、そして事実と反する低評価。それらの事実が一本の時系列として繋がり、会社側の意図を露骨に示していた。


「準備は整いましたね」


 襟華がファイルを閉じ、毅然とした視線を任三郎へ向けた。


「ええ。相手が作った台本の裏は取れました。あとは、言い逃れのできない場所で突きつけるだけです」


★★★★★★★★★★★


 数日後。

 みなと中央法律事務所の広々とした会議室で、ルミナスコード株式会社との正式なオンライン協議が開かれた。


 大型モニターの向こう側には、ルミナスコードの人事部長である高橋が、細いフレームの眼鏡を神経質そうに押し上げながら、渋い顔で座っている。仕立ては良いが、首回りの窮屈そうなダークグレーのスーツを着た彼は、冷や汗をにじませながら、手元のメモに視線を落としていた。

 こちら側は代理人である襟華を中心に、任三郎とみのりが同席している。


『回答書にも記載しました通り、五月二十八日の稟議はあくまで予備的なものです。当社は規定に則り、六月に改善の機会を与えました。しかし中村氏には改善の見込みがなく、総合的に判断した結果です』


 画面越しの高橋は、用意された台本を読み上げるように主張した。背後にいる桐和の井上が組み上げた防衛線に、必死にすがりついているのが分かる。しかし、その声には明らかな焦りが混じっていた。


「『総合的な判断』という言葉で、事実の矛盾を覆い隠すのはおやめください」


 襟華が、冷たく澄んだ声で口火を切った。彼女は手元に用意していた別添の資料を画面へ向けて提示する。


「本日開示いただいた御社の社内送信履歴の中に、興味深い記録が存在します。……中村氏の上司が、五月末のチーム打ち上げよりも前の時点で、人事部へ『本採用は見送る方向で進めたい』と前提としたメールを送信していますね」


 高橋の肩がびくりと跳ねた。眼鏡の奥の目が泳ぎ、手元のメモを握る指が白くなる。

 話を振られたみのりが、手元の就業規則のコピーを指で叩きながら、早口で引き継いだ。


「しかし、御社は六月第一週から業務改善指導を開始したと主張している。改善させる見込みがないと事前に決めておきながら形式だけの指導を行ったのであれば、それは制度の悪用以外の何物でもありません」


『あ、悪用だなんて心外です! 我々は彼にチャンスを与えたんです。彼自身のスケジュール管理能力が不足していたからであって……!』


「五月中旬、中村さんは理不尽な仕様変更を押し付けられながらも、納期を守り、システムを正常に稼働させました。その事実があるにもかかわらず、あなたたちは六月に入ってから、彼に『スケジュール管理不足』という理由をつけて最低評価を集中させた。さらに、中村さんの評価資料に残されていた『TC-O-2026-05』という管理番号――」


 任三郎の淡々とした声が、人事部長の反論を鋭く断ち切る。


「――これが、あなたたちが五月の時点で中村さんを切ると決めていた決定的な物証です。だから五月から外部の組織適性改善支援を入れ、六月の改善指導と低評価は、その結論を正当化するために後から作った『台本』にすぎない。その矛盾を、どう説明するつもりですか」

『そ、それは……推測に過ぎない! こちらには正当な理由が……』


 高橋の声が情けなく裏返る。額には脂汗が浮いていた。


「推測ではありません」


 襟華が間髪入れずに追撃した。


「御社自身が提出した『五月二十八日の承認日』という公式回答。中村氏の実際の稼働実績。事前に送られていた上司のメール。そして吉田彩が解読した管理番号。これらすべての時系列と客観的記録が、御社の主張が事後的なつぎはぎであることを証明しています。これ以上、虚偽の説明を続けるのであれば、法的な措置も含めて争点を拡大せざるを得ません」


 ルミナスコードの人事部長は、突きつけられた日付の矛盾と逃げ道を塞がれた物証の前に、返す言葉を失い完全に沈黙した。画面越しに聞こえるのは、彼が荒い息を吐く音だけだった。


★★★★★★★★★★★


 協議の結果、ルミナスコードは本採用拒否の不当性を認めざるを得なくなった。


 本採用拒否の撤回と、十分な解決金の支払い。

 さらに、不当な仕様変更を強要して中村に責任転嫁した上司は、プロジェクト管理職から解任された。ルミナスコード自体も、今回浮き彫りになった評価制度のずさんな運用について、社内で内部調査を開始することとなった。

 中村の転職活動のための推薦内容も、会社側が虚偽の「能力不足」というレッテルを取り下げ、技術実績の正当な評価へと訂正された。


 後日、逆転帳を訪れた中村は、憑き物が落ちたような顔をしていた。以前のような刺々しさは消え、どこか晴れやかな表情を浮かべている。


「俺は、自分の仕事が否定されたわけじゃなかったんですね。ただ、あいつらの思い通りの筋書きにならなかったから、邪魔になっただけで」

「ええ。記録がそれを証明しています」


 任三郎は淡々と答え、手元の案件帳を閉じた。

 ゆき子が隣で、中村に新しい求人情報のリストを渡している。会社との決着がつき、技術者としての正当な実績を取り戻した中村には、すでに複数の企業から声がかかり始めていた。ゆき子の丁寧なヒアリングと実績の整理が、彼の市場価値を正しく引き出した結果だった。


「次からは、仕様変更の記録も自分で残すようにします」

「それがいいでしょう。記録は嘘をつきませんから」


 中村が深々と頭を下げて事務所を出て行くのを見送る。

 無事に案件が一つ片付いた安堵の空気が流れる中、ゆき子がふと、任三郎の方へ向き直った。


「あの、佐藤さん」


 ゆき子は少しだけ頬を染め、もじもじと指先を合わせながら口を開いた。


「中村さんの再出発も決まりましたし……その、今度は仕事ではなく、プライベートで食事にでも行きませんか? お礼も兼ねて」


 その言葉に、事務所内の空気が一瞬にして凍りついた。

 任三郎が鈍感な顔で「お礼ですか?」と聞き返そうとした瞬間、ホワイトボードのマーカーを片付けていた紘子が、ヒールを鳴らして二人の間に強引に割り込んだ。


「山本さん。今日は『案件終了の打ち上げ』ですよね。私たちも参加する予定だったはずですけど」

「えっ、あ、いえ、私は佐藤さんと……」

「もちろん、みんなで行くべきです。チームの慰労ですから」


 紘子が笑顔のまま全く笑っていない目で牽制したその時、デスクの上に置かれていた任三郎のスマートフォンが振動した。画面には『田中襟華』の文字が表示されている。


 任三郎が通話ボタンを押すと、スピーカー越しに澄んだ声が響いた。


『佐藤さん、ルミナスの件で最終的な書類の手続きが完了しました。……それと、個人的な報告があります。今夜、お時間はありますか』

「今夜ですか? 今ちょうど、打ち上げの話に――」


 任三郎が言い終わる前に、ゆき子が一歩前に出た。

 普段の控えめな彼女からは想像もつかないほど、その瞳にははっきりとした意志が宿っていた。


「では、私もご一緒します。佐藤さんの今後のスケジュール管理も含めて、お話ししたいことがありますから」


 一歩も引き下がらないゆき子の態度に、紘子の目の色が微かに変わった。


(……この子、ただの大人しいエージェントじゃない)


 紘子は笑顔の張り付いた顔のまま、値踏みするようにゆき子をじっと見つめ返した。


 女性陣の間で火花が散っていることなど露知らず、任三郎は「まあ、人数が多い方が予約は取りやすいですが」と頓珍漢なことを考えながら、コートを手に取るため入り口のドアへ向かった。


 そのとき、ドアポストに一通の封筒が挟まっているのに気づいた。

 宛名は『労務記録相談室 逆転帳 佐藤任三郎様』。

 差出人は――『桐和ヒューマンキャピタル株式会社 法人支援本部長 鷺沢征司』。


 封を開け、中から引き出した書面に目を通す。

 それは、任三郎が過去に桐和で知り得た機密情報を不正に利用しているのではないかと疑い、業務妨害として法的措置をちらつかせる「正式な警告書」だった。


 背後で紘子とゆき子が何やら言い合っている声を遠くに聞きながら、任三郎は手元の警告書を冷徹に見つめた。

 敵はこちらを完全に脅威として認識し、直接的な潰しにかかってきている。無警戒だった第一案件の時とは違う。

 だが、だからこそ叩き潰す価値がある。


 任三郎は書面を握りつぶすように力を込め、来るべき次なる戦いへと視線を鋭くした。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


現在予約受付中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告/近況ノートをご覧ください。

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