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第4話 老豚の最期

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

第4話は、術式を完成させたルシアンが己の命を天秤にかけ、長年自分を蹂躙し続けてきた教祖にいよいよ牙を剥く、過去編の真の完結話となります。

※本作にはダークファンタジー特有の陰惨な描写が含まれます。

特級魔石の代替として、術者自身の「寿命」を魔力へ変換し、死者を現世に縫い止める。

 大聖堂の地下深く、カビと埃に塗れた禁書庫で私が組み上げたその術式は、かつて歴史上のどの魔術師も実証したことのない、完全な理論上の産物だった。

 理由は単純だ。あまりにもリスクが高すぎるからである。

 人間が本来生きるはずだった未来の時間を、強引にエネルギーへと変換し、自らの肉体を通して出力する。そんなことをすれば、器である肉体が負荷に耐えきれず、内側から弾け飛んで即死する可能性が極めて高い。成功率は不明。いや、限りなくゼロに近い自殺行為だ。

 だか、私はその致死のギャンブルに身を投じることに、一切の躊躇いを覚えなかった。

 失敗して死ぬなら、それでいい。

 肉体が弾け飛び、魂が消滅するのなら、それはこの息の詰まる地獄からの完全な解放を意味する。元より、この狂った世界に神の救いなど存在しないのだ。這いつくばって他人の顔色を窺い、毎夜自らの尊厳を切り売りしてまで生にしがみつく価値など、この世界にはない。

 この術式は、理不尽な世界をひっくり返すための唯一の蜘蛛の糸であり、同時に、最高に心地の良い自殺装置でもあった。

 地下の冷たい石室。私は祭壇の上に仰向けに寝そべり、自らの胸の中央――心臓の真上に、血を混ぜたインクで複雑な魔法陣を描き込んだ。

 今日私が行うのは、単なる蘇生実験ではない。今後、肉体を崩壊させずに連続して術式を使用できるよう、私自身の心臓を直接『魔力変換炉』へと作り変える、深淵の『第二段階』の術式展開だ。

「……さあ、世界を書き換えようか」

 冷め切った自暴自棄感と、どこか安堵にも似た虚無感を抱えたまま、私は術式を起動した。

「――ッ、あ、ガ、ァァァァァァァッ!!」

 直後、致死量の激痛が私を貫いた。

 全身の血液が沸騰し、鋭く熱い鉄の杭を心臓に直接打ち込まれ、かき回されるような激痛。視界が真っ赤に明滅し、声帯が千切れるほどの絶叫が石室に響く。

 自分の内側にあった『何か』――私という存在の根幹を成す途方もない質量が、明確に抉り取られ、永遠に失われていくのが分かった。

 それが、悪魔の契約の『初期費用』だった。術式の基盤を心臓に定着させるための前払いとして、私は本来生きるはずだった寿命の『八割』を、この瞬間、完全に世界へと明け渡したのだ。

 やがて、激痛が引いていく。

 私はゆっくりと身を起こした。肉体は弾け飛んでいなかった。胸に手を当てると、失われた八割の寿命の代わりに、おぞましいほどの魔力を内包した心臓が、力強く、そして冷たく脈打っていた。

 私は誰の手も借りず、歴史上誰も成し遂げたことのない『禁忌の第一人者』となったのだ。

「……素晴らしい」

 息をするたびに内側で軋む、二度と埋まることのない巨大な欠落感。

 私に残された命の時間は、もう決して長くない。だが、私を満たしていたのは圧倒的な全能感だった。この短いタイムリミットの中で、あの老豚を殺し、国を解体する。

 この日を境に、ただ怯えるだけだった無力な子供は完全に死滅した。

───

 それから数年の月日が流れ、私が少年の面影を捨てた青年に成長した頃。

 教祖はすでに老衰により、ベッドから起き上がることもままならない状態になっていた。高位の神官医たちがどれだけ祈りを捧げ、高価な薬草を与えようとも、老いという絶対の理には逆らえない。

 ある嵐の夜。

 誰もいない豪奢な教祖の私室で、私はベッドの傍らに立ち、静かに教祖を見下ろしていた。

「あ……ぅ……」

 教祖は、虚ろな目をわずかに動かし、私を見た。

 彼は今、声一つ出すことができず、指一本動かすことができない。魔法によるものではない。私が長期間にわたり、彼の食事と水に、薬学の知識を総動員して調合した『遅効性の毒』を微量ずつ混ぜ続けた結果だ。

 それは肉体を殺す毒ではなく、運動神経を完全に麻痺させるだけのもの。つまり、教祖は「意識と聴覚は極めて鮮明なまま、動くことも喋ることもできない生ける屍」と化していた。

「教祖様。今夜はひどく冷えますね」

 私は優雅な微笑みを浮かべ、かつて彼に蹂躙された時と同じように、極めて従順で美しい所作のまま、彼のベッドに腰を下ろした。

 そして、彼の耳元に顔を寄せ、毒蛇が這うような滑らかな声で囁き始めた。

「貴方はもう、声を出すこともできない。ですから、今夜は私が少しだけ、面白いお話をして差し上げます」

「……ッ、……!」

「ご存知ですか? 私は数年前、自らの寿命の八割を代価として、死を覆す『理』の改竄かいざんに成功しました。歴史上誰も為し得なかった禁忌の力を、貴方の足元の地下室で、貴方が私を抱いた後の数分間を使って、完成させたのです」

 教祖の瞳孔が、驚愕に大きく見開かれた。

「ええ、心の底から感謝していますよ、教祖様。貴方というおぞましい豚が、私から人間としての尊厳を微塵も残さず奪い去ってくれたおかげで、私は躊躇うことなく己の命を投げ出し、禁忌に至ることができた。貴方のその歪んだ劣情こそが、私をこの世界の『理』へと到達させてくれたのです」

 私は構わず、彼の冷たい耳元へ残酷な呪いを流し込み続ける。

「明日、貴方が惨めに息を引き取った後。私は貴方の遺言をでっち上げ、この大聖堂の中枢に食い込みます。そして、貴方が心血を注いで築き上げたこの腐った教会を……跡形もなく叩き潰す」

「……ぁ、……ッ!!」

「ああ、教会だけではありませんよ。この王国そのものも、私が内側から完全に解体して差し上げます」

 私は彼の手を優しく握りしめ、かつてないほど無邪気な声で囁いた。

「王国が崩壊すれば、どうなるか。……貴方の威光に群がり、安全な場所で贅沢を貪っている貴方の誇り高き『家族』たちは、すべてを失う。名誉も、財産も、命さえも。私が彼らを絶望の底へ引きずり下ろし、這いつくばって泥水をすするだけの家畜に変えてあげましょう。貴方が私にしたようにね」

 教祖の顔が、恐怖と絶望で激しく歪んだ。

 自分の作り上げた地位だけでなく、一族郎党のすべてが自分のせいで破滅するという、取り返しのつかない事実。自分がただの玩具だと思い込んでいた孤児が、どれほどの怪物を腹の底に飼っていたのか。

 助けを呼ぼうにも喉は鳴らず、私を突き飛ばそうにも指先すら動かない。想像を絶する絶望に、彼の精神は限界を迎えていた。

「安心してください。貴方の大切なものは、すべて私が壊してあげます」

「……さあ。何もかもを奪われる恐怖に震えながら、惨めに死んでいきなさい。哀れな老豚」

 ビクン、と教祖の体が最後に一度だけ大きく跳ねた。

 恐怖、絶望、そして極度の心労。動かない肉体の中で暴走した感情に心臓が耐えきれず、彼は目を見開いたまま、ついに息絶えた。

 一滴の血も流さない、完全なる暗殺の達成だった。

───

 だが、私は気付いていなかった。

 雷鳴が轟くこの嵐の夜、見放された教祖へせめてもの祈りを捧げようと、一人の少女がランタンを手に私室を訪れていたことに。

 わずかに開いた分厚い扉の隙間。

 そこに立ち尽くしていたクラーラは、嵐の音に掻き消され、私が耳元で何を囁いたのかは聞こえていなかった。

 だが、彼女の瞳には明確に焼き付いていた。死にゆく教祖の手を優しく握りながら、まるで地獄の底から這い出た悪魔のような顔で微笑む青年の横顔。そして、何か得体の知れない絶望と恐怖に顔を激しく歪ませ、もがき苦しむように息絶えた教祖の最期が。

 翌朝、教祖の死を発見し、大聖堂はパニックに包まれた。

 幹部たちが集まる中、私は教祖の亡骸の傍らで、誰よりも悲痛な涙を流して崩れ落ちた。長年、寝たきりの教祖を最も献身的に介護してきた青年の涙を、周囲の者たちは微塵も疑わなかった。

 ただ一人、扉の端から青ざめた顔で私を見つめるクラーラを除いて。

「教祖様は、昨夜……息を引き取られる直前、私に手を伸ばし、声なき声でこう遺言なされました……」

 私は涙を拭い、幹部たちを見渡して言った。

「次期体制が整うまでの間、このルシアンを神官の列に連ね、特例として大聖堂の『特級魔石』の管理補佐に就けるよう……そう、仰られたのです」

 それは、確認する術のない死人の遺言。

 だが、教祖の最期を看取った私の芝居は完璧だった。幹部たちは疑うことなくその言葉を受け入れ、私はただの慰み者から一躍、特級魔石の金庫の鍵を握る「若き神官」へと出世を果たしたのだ。

 数日後。

 大理石の回廊を歩く私の前に、聖女クラーラが立ち塞がった。

 彼女は、かつてないほど鋭く、それでいて酷く悲しげな瞳で私を真っ直ぐに見据えていた。

「……教祖様の死と、貴方の急な抜擢。あまりにも都合が良すぎます、ルシアン神官」

「神の導きとは、往々にして数奇なものですよ、クラーラ様」

「誤魔化さないでください。私……見てしまったのです」

 クラーラは震える両手を胸の前で強く組み、絞り出すように言った。

「昨夜、教祖様へお祈りを捧げようと部屋へ向かった時……開いた扉の隙間から、見てしまった。貴方が教祖様の耳元で何かを囁き……教祖様が、尋常ではない恐怖の中で息絶える瞬間を」

「……」

「貴方が泣き崩れていたのも、あの遺言も、すべて嘘ですね。貴方の裏には、私たちが想像もつかないほどの恐ろしい闇がある」

 決定的な告発。

 だが、私は顔色一つ変えず、ただ氷のように冷たい目で彼女を見下ろした。

「おや。それは見苦しいところをお見せしました。……それで? 聖女様は、私を異端審問にかけると?」

 私の静かな挑発に、クラーラは血の気の引いた唇を強く噛み締めた。

 証拠はない。彼女の言葉など、教祖の最期を看取った忠実な神官である私への嫉妬だと揉み消されて終わる。だが、彼女が私を密告しない理由は、それだけではなかった。

「……いいえ、密告はしません」

「ほう?」

「誰にも知られず、あんなにも恐ろしく、哀しい顔で笑う貴方を……放っておけない。私が聖女である限り、貴方がこれ以上深い闇に落ちぬよう、絶対に目を離しません。私が貴方の魂を、正しい光の道へ導いてみせます」

 正義感と、青臭い思い上がり。

 だが彼女は、私という怪物の正体を知った上で、自ら泥沼に足を踏み入れることを選んだのだ。

「ご立派な心がけだ。お好きにどうぞ」

 私は鼻で笑い、彼女の横を通り過ぎた。

 資金源は確保した。あとは横領した金で時間の猶予を買い叩き、手足となる者を集めるだけだ。

 寿命を対価にした極限の国取りが、完全なる共犯者を伴って、今ここから始まる。

第4話を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

これにて過去編は真の完結となります。

生存確率すら不明の禁忌に自暴自棄のまま飛び込み、寿命の八割を前払いして理を書き換えたルシアン。

教祖への復讐は、一族すべてを絶望に突き落とすという呪いを意識だけの肉体に耳打ちし、恐怖の中で衰弱死させるという最も残酷な完全犯罪でした。資金源と出世のロジックが揃い、そしてルシアンの「怪物の顔」を目撃してしまったクラーラとの、逃れられない共犯関係がここで成立します。

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