第3話 偽りの聖域
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第3話は、絶望の淵に落されたルシアンが教会の裏に隠された蘇生の真実を知り、禁忌の術式に辿り着く過去編の完結話となります。
教祖の私室という名の地獄で、私の心は完全に死んだ。
だが、肉体まで死ぬことは許されなかった。教祖の歪んだ寵愛を受けた特別で愛らしい玩具として、私は大聖堂の奥深くで、虚ろな日常を送ることを余儀なくされたのだ。
大聖堂での生活は、規則正しく、そしてひどく息苦しいものだった。
朝は夜明けと共に冷たい石の床で祈りを捧げ、昼は教典の暗唱と果てしない写本、夜は再び祈りという名の洗脳を受ける。ここにいる見習い神官や修道女たちの多くは、私と同じように各地のスラムや修道院から集められた身寄りのない孤児たちだった。少しでも暗唱を間違えれば、指導係の神官から容赦なく硬い杖で殴打され、粗末な硬いパンと水だけの罰が与えられる。
大聖堂の書庫で密かに知識を貪るうちに、私はこの教会が隠し持つ醜い真実に気付き始めていた。
かつてセオドアが私に見出した『聖なる力』などというものは、この世界に存在しない。それは単なる魔力の言い換えに過ぎなかった。
権力と財力を持つ貴族の子供たちは、高い魔力を持っていれば、王国軍の華やかな魔法騎士や宮廷魔術師といったエリート職を目指すのが常識だ。彼らには帰るべき温かい家があり、守るべき一族の誇りがある。
だからこそ、教会は孤児を狙うのだ。
魔力量の多い孤児を這いつくばる泥の中から拾い上げ、「お前は神に選ばれた」と甘い言葉で徹底的に洗脳する。教会の庇護がなければ生きていけない無力な子供たちは、簡単に自我を奪われ、教会という搾取システムの忠実な歯車へと育成されていく。
ただし、稀に高位貴族の出身でありながら、この大聖堂へ送られてくる者もいた。
たとえば、私の前を静かに通り過ぎていく、あの少女のように。
大理石の冷たい回廊。ステンドグラスから差し込む極彩色の光の中を、ひとりの見習い修道女が歩いてくる。
色素の薄い柔らかな髪に、どこか庇護欲をそそる儚げな瞳。彼女の名はクラーラと言った。
彼女は高位貴族の家に連なる娘でありながら、生来の病弱さゆえか、あるいはその高貴な血に表沙汰にはできない不義の影が落ちていたためか。いずれにせよ政略結婚の道具として扱うことすら憚られ、体よく教会へと厄介払いされた事情ありの令嬢なのだという。
だが、同じ捨てられた子供であっても、彼女と私たち孤児との間には、明確で残酷な待遇の差があった。
私たちが粗末な麻布の服を着て硬い床を雑巾掛けしている時、彼女は上質な絹糸で織られた見習い服を纏い、指導係の神官たちからも決して杖で打たれることはなく、温かいスープと柔らかい肉を与えられていた。厄介払いされたとはいえ、彼女の背後には強大な貴族の影がある。腐敗した教会が、貴族の令嬢を孤児と同じように扱うはずがなかった。
回廊ですれ違う瞬間、私たちは足を止めた。
大聖堂では純潔と神への集中を保つため、見習い期間中の異性との会話を固く禁ずるという絶対の掟がある。
だが、真実は違う。それは教祖が、自らの玩具である少年たちが、同年代の少女に心を移すことを防ぐために作った、ひどく俗悪で利己的なルールに過ぎなかった。
私は無表情のまま、機械的に頭を下げた。
すると、クラーラは私の顔を見上げ、ふわりと――まるで陽だまりに咲く花のように、年相応の子供らしい、純真で無垢な笑顔を浮かべて、優雅にお辞儀を返してくれたのだ。
その穢れを知らない微笑みを見た瞬間、私の胸の奥に湧き上がったのは、親愛でも嫉妬でもなかった。
ただ、圧倒的なまでの断絶だった。
彼女は捨てられたとはいえ、温かい庇護の下で、まだ人間の子供としての心を保っている。だが、私は違う。毎夜、あの悍ましい密室で肉体と尊厳を切り刻まれている私には、彼女のその無邪気な笑顔が、まるで別の生き物の生態を見ているかのように遠く、異質なものに感じられた。
美しいものを美しいと感じる機能すら、私の中ではとうに壊れ果てていたのだ。
───
夜。教祖の部屋へと呼ばれ、虫けらのように尊厳を踏みにじられる時間が終わった後。
教祖が満足気にいびきをかき始めるまでの間、私はシーツの陰で息を殺しながら、あるやり取りを完璧に記憶していた。
『今日はもういい。その禁書庫の鍵は、別室の棚に置いておけ』
教祖が側仕えの部下に命じた何気ない言葉。私はその声の響き、部下が退室する足音の数、別室の棚に鍵が置かれる微かな金属音まで、すべてを脳裏に焼き付けた。
私は何日もかけて、教祖が深い眠りに落ちるまでの時間、見回りの神官たちが廊下を通る巡回ルート、大聖堂全体の規則的な行動パターンを秒単位で計算し、完全に把握した。
そして深夜。疲労と屈辱で泥のようになった体を這わせ、教祖の寝室を音もなく抜け出すと、計算通りに別室の棚から鈍色の鍵をかすめ取り、地下深くの禁書庫へと向かったのだ。
誰もいない、埃とカビの匂いが充満する隠し部屋。そこには、教会が異端として隠蔽する古代の魔術書や、人体と魂の法則に関する悍ましい研究記録が山のように積まれていた。
それが、私の唯一の救いだった。
修道院で狂ったように文字を学んでいたことが、ここで最大の武器となった。しかし、私に許された時間は極端に短い。教祖の睡眠サイクルと見回りの隙を縫って、鍵を元の別室の棚へ完璧に戻さなければならないため、禁書庫に滞在し本を開けるのは、毎夜わずか数分間だけだった。
私はその数分間にすべてを懸けた。持ち前の異常な記憶力で、難解な古代文字で書かれたページを一瞬で網膜に焼き付け、昼間の過酷な労働や祈りの最中に、頭の中で何度もその数式を反芻し、解読を進めた。
そこで私は、教会が独占する死者蘇生の本当の仕組みを理解した。
死を覆す術式。本来それは、途方もない純度の魔力が結晶化した、この世界で最も希少な鉱石である特級魔石を糧に行うのが普通だ。小石ほどの大きさで小さな城が建つほど高価な特級魔石を消費し、その莫大なエネルギーを接着剤にすることで、死者の千切れた魂を強引に肉体へ繋ぎ止める。それが教会の奇跡の正体であり、王家から莫大な蘇生費用を搾り取るための絶対的な権力の源泉だった。
だが、教祖の玩具でしかない私に、城が買えるほどの特級魔石など手に入るはずがない。
だから私は、数分間の密かな反逆を何年も積み重ね、ひとつの残酷な仮説を数式へと変えた。
魂を繋ぎ止めるエネルギーは、外から与えられる特級魔石の魔力である必要はない。術者自身の内にある『二度と取り戻せない絶対的な何か』を変換し、直接魔石へと上書きすれば、特級魔石のエネルギーを完全に代替できるはずだ、と。
――そして、私が少年の面影を捨て、青年期の入り口に差し掛かった冬の夜。
何年もの間、頭の中で組み立ててきたその禁忌の術式を、初めて実践に移す機会が訪れた。
私と同年代である見習い神官の孤児のひとりが、この狂った大聖堂からの脱走を企てたのだ。しかし無力な子供の逃避行などすぐに露見し、彼は衛兵に捕縛され、見せしめとしての凄惨な拷問の末に息を引き取った。教会は下働きの孤児の死体などゴミのように扱う。私は共同墓地へ捨てられるはずだったその少年の遺体を、深夜、密かに地下の冷たい石室へと運び込んだ。
これが、私の最初にして最大のテストだった。
私は無惨に冷たくなった少年の胸の上に、安物の下級魔石を置いた。本来なら蘇生など絶対に不可能なゴミのような石だ。だが私は、この石の表面に、私自身の『不可逆の対価』を流し込むための偽装コーティングの術式を、あらかじめ完璧に刻み込んでいた。
少年の死体を見下ろし、ゆっくりと目を閉じる。
頭の中で、気が遠くなるほど精密な理の数式を展開していく。肉体の損傷、魂の乖離率、それを縫い合わせるために必要な圧倒的な質量。
必要なコストを弾き出した瞬間、私は一切の躊躇なく、術式を起動した。
「――ッ、あ、が……ァッ!!」
次の瞬間、私の喉から、声にならない絶叫が漏れた。
想像を絶する激痛だった。鋭く熱い鉄の杭を心臓に直接打ち込まれ、そのまま内臓を掻き回されるような感覚。全身の毛細血管が悲鳴を上げ、視界が真っ赤に明滅する。
自分の内側にあった『何か』――それも、私という存在の根幹を成す途方もない質量が、明確に抉り取られ、永遠に失われていくのが分かった。これが、神の領域を侵すということ。これが、他人の命を引き戻すための、絶対的な等価交換の痛み。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、私は奥歯が砕けそうなほど噛み締めながら、偽造魔石へと代償を注ぎ込み続けた。
やがて、私の対価を吸った偽造魔石が不気味なほどの白光を放ち、石室を眩く照らし出した。
「……は、ぁっ……! げほっ、ごほっ……!」
光が収まった直後。死んでいたはずの少年が、大きく胸を跳ね上がらせて咳き込んだ。冷え切っていた彼の肌に血色が戻り、確かな生気が宿っていく。
「あ、ここは……僕、たしか捕まって、殺され……」
「ええ、貴方は間違いなく死にました。ですが、私が『理』を書き換えた」
「……え?」
「ここは地下水路に繋がる廃棄層です。この鉄格子の先をまっすぐ進めば、王都の外へ出られる」
私は荒い息を吐きながら、痛みに震える手で石室の奥にある鉄格子を開け放ち、呆然とする少年に向けて冷たく言い放った。
「……さあ、逃げなさい。そして二度と、この地獄を振り返るな」
少年は怯えたような、それでいてすがるような目で私を見たが、やがて弾かれたように立ち上がり、暗い地下水路へと駆け出していった。
その遠ざかる足音を聞きながら、私は内側に空いた二度と埋まることのない巨大な虚無感を抱えたまま、暗闇の中で静かに口角を吊り上げた。
教会の独占する特級魔石など使わずとも、私には死を覆すことができる。神の奇跡を、私の手で完全にハッキングしたのだ。
「……さようなら。誰かの顔色を窺うことしかできなかった、哀れな子供時代の私」
暗い石室に響いた私の呟きは、逃げ去った少年に向けたものではない。
この狂った大聖堂から逃げ出したいと願いながらも、他人の庇護がなければ生きられなかった『無力な自分自身』の完全なる死を宣言する言葉だった。
息をするたびに内側で軋む絶対的な欠落感。それを心地よくすら感じながら、私は笑う。
絶望に満ちた私の幼少期は、この冷たい石室の中で、誰にも知られることなく確かな達成感と共に終わりを告げたのだった。
第3話を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて過去編は完結となります。




