第2話 善意の悪魔
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第2話は、ルシアンがいかにして「ただ生きたいと願う無力な子供」から「冷徹な怪物」へと変貌したのか、その決定的な転機となる過去編の中編です。
※本話には、理不尽で胸糞の悪い展開や、ダークファンタジー特有の陰惨な描写が含まれます。あらかじめご注意いただいた上でお読みください。
彼が「神」という虚飾を捨てた、最も残酷な日の記憶です。
その男は、凍てつくような冬が終わりを告げ、ようやく芽吹き始めた春の陽だまりのような微笑みを浮かべて、辺境の修道院へとやってきた。
泥と埃にまみれた薄暗い修道院にはひどく不釣り合いな、一滴の汚れもない純白の神官服。金糸で刺繍されたエルシオン聖王国の聖印を胸に輝かせた若きエリート神官、セオドア。
視察に訪れた彼は、冷たい石の床に這いつくばるようにして、擦り切れた古い教典の文字をなぞっていた私を見つけるなり、大仰な歓喜の声を上げて歩み寄ってきた。そして、私の泥まみれの小さな両手を、白く柔らかな手で大切そうに包み込んだのだ。
『素晴らしい……! なんて純粋な魂の輝きだ。君からは、とても強くて美しい聖なる力を感じる』
彼の透き通るような青い瞳は、本物の感動に潤んでいた。打算も悪意もない、純度百パーセントの善意がそこにはあった。
『こんな田舎の修道院で、その才能を埋もれさせるべきではない。私と一緒に王都の本部へおいで。君の力は、もっと恵まれた環境で、神の御為に使われるべきだ』
神の御為、などという高尚な言葉の意味は、十歳の私にはよく分からなかった。
当時の私の頭の中を占めていたのは、ただ「もう二度と飢えたくない」「冬の夜に凍え死ぬ恐怖を味わいたくない」という、這いつくばって生きる獣のような生存本能だけだ。
私には何もない。力も、金も、身を守る術もない。もしこの綺麗で優しい大人の機嫌を損ねて手を離されれば、私はまたあの凄惨なスラムの泥水の中へ逆戻りだ。それだけは絶対に嫌だった。
だから私は必死だった。彼が望むような「神を信じる無垢で純粋な子供」でいようと、小さな頭をフル回転させて最適解を探した。
「……はい、セオドア様。神様の導きに、心から感謝いたします」
私が上目遣いでそう口にすると、セオドアは感動のあまり涙ぐみ、私の頭を優しく撫でてくれた。その大きな手の温もりと、衣服から漂う微かな香の匂いに、私は心の底から安堵した。
ああ、よかった。この人にしがみついてさえいれば、私は生きていけるのだ、と。大人の顔色を窺い、気に入られることだけが、弱者が生き残るための唯一の武器だった。
───
王都の大聖堂。その最奥にいるという教会の頂点、教祖への謁見には、まだ数時間の猶予があった。
『少し時間があるね。君に、神に祝福されたこの美しい王都の街並みを見せてあげよう』
セオドアに手を引かれて歩いた王都の大通りは、私のようなスラム上がりの孤児には目が眩むほど華やかだった。馬車の車輪の音、色とりどりの果物が並ぶ屋台、着飾った貴族たちの笑い声。
だが、一歩裏路地に目を向ければ、そこには私がかつて這いつくばっていたのと同じ、骨と皮だけになった飢えた子供たちが、生ゴミの山を野犬と奪い合っていた。華やかな表通りと、死臭の漂う裏路地が、薄い壁一枚で隔てられているだけの歪な世界。
すれ違う瞬間に、痩せこけた小さな子供が、裕福そうな商人の腰袋を掠め取るのを、私ははっきりと見た。だが、逃げる間もなく大柄な衛兵に取り押さえられ、子供は硬い石畳の上に顔面から引き倒された。
「このクソガキが! 誰の財布に手を出したか分かっているのか!」
容赦なく振り下ろされる軍靴が、子供の腹や顔面を何度も蹴り上げる。骨が砕ける鈍い音。胃液と血を吐き出しながら痙攣する子供の悲鳴。
私はビクッと肩を震わせ、すがりつくようにセオドアの純白の服の裾を強く握りしめた。
しかしセオドアは、歩みを止めることすらしなかった。「迷える子羊に、どうか救いがあらんことを」と目を伏せて、ただ空虚な祈りのポーズをとるだけだ。手を差し伸べて、助けようとはしなかった。
どうして助けないの。そんな言葉は、私の喉の奥で凍りついて出てこなかった。
少しでも「面倒な子供」だと思われたくなかった。ここで彼を責めれば、私もあの蹴り飛ばされている子供と同じ側に突き落とされる。私が今、血を吐かずに立っていられるのは、ただ運良くこの白い服の青年に手を引かれているからに過ぎないのだという絶対的な恐怖が、私を黙らせた。
やがて私たちは、王都の中心にある巨大な円形広場へと差し掛かった。
そこには、耳をつんざくような怒号と熱狂が渦巻く、黒山の人だかりができていた。広場の中央には黒ずんだ木製の処刑台が組まれ、血まみれの襤褸切れのような男が、太い釘で磔にされている。
『あれは……教会から聖遺物を盗み出そうとした、大罪人だよ』
セオドアが、私を安心させるような、ひどく穏やかな声で言った。
『神の慈悲を裏切った者は、ああして裁きを受ける。人々の怒りは、神の怒りそのものなのだからね』
群衆は狂喜していた。日々の重税と理不尽な生活に苦しむ平民たちが、自分たちより明確に「下」の存在、正当に石をぶつけていい「悪」を見つけて、溜まりに溜まった鬱憤を晴らしているのだ。
「死ね!」「悪魔め!」「神の裁きを受けろ!」
誰もが血走った目で叫び、足元の石や、腐ったトマト、家畜の糞を拾っては、磔にされた男へ力任せに投げつけている。男の顔はすでに原型を留めておらず、赤黒い肉の塊になって、ピクピクと痙攣を繰り返すだけだった。
怖い。大人の歪んだ笑顔が怖い。怒鳴り声が怖い。血の匂いが怖い。私は足がすくみ、今すぐ耳を塞いで逃げ出したくてたまらなかった。
『……怖いかい、ルシアン。だが、あれが正義なのだよ』
セオドアが私を見下ろした。
その真っ直ぐな青い瞳の奥に、「君も正義の側の、良い子だろう?」という無言の圧力を感じた。
私は息が詰まりそうだった。あの男が何を盗んだのかなんて知らないし、どうでもいい。他人に石を投げたいなんて、微塵も思わない。
けれど、ここで「嫌だ、怖い」と泣き喚けば、セオドアはどう思うだろう。見損なったと、私を突き放すのではないか。この怒り狂う群衆の「正義の輪」から外れれば、次は私が広場の真ん中に引きずり出されて、石を投げられるのではないか。
捨てられたくない。嫌われたくない。痛いのは嫌だ。生きたい。生きたい。
私はガタガタと震える手で、足元に転がっていた拳大の石を拾い上げた。
小さな手のひらに伝わる、ザラザラとした冷たい感触。涙が出そうになるのを必死に奥歯を噛んで堪え、セオドアを見上げて、ひきつった笑みを浮かべてみせた。
「……神様を裏切るなんて、絶対に許せません」
私は目をぎゅっと瞑り、磔にされた名もなき男に向けて、力いっぱい石を投げた。
ゴッ、と鈍い音がして、私の投げた石が男の肩口に命中した。
ワアッ、と群衆の歓声が一段と高くなる。セオドアは「よくやったね」と満足そうに微笑んで、私の震える肩を優しく抱き寄せてくれた。
私は自分が安全な場所で生き残るために、大人の顔色を窺い、無抵抗な人間に石をぶつけて叩き潰す「共犯者」になったのだ。自己嫌悪と罪悪感で、胃袋が裏返りそうなほどの吐き気が止まらなかった。
───
そして私たちは、ついに教会の本部、大聖堂の最深部へと足を踏み入れた。
華やかなステンドグラスの光すら届かない、地下深く。足音すら吸い込むような分厚く重厚な絨毯が敷き詰められた、薄暗い廊下の突き当たり。そこには、不気味なほど緻密な宗教画のレリーフが施された、分厚い鉄の扉があった。
『さあ、着いたよ。この奥に、我らが教祖様がいらっしゃる』
セオドアが恭しく、軋む鉄の扉を押し開ける。
室内に漂うのは、神聖さとは程遠い、甘ったるく、どこか腐肉を花で隠したような不快な香草の匂いだった。
私は、広場でのあの罪悪感もこれで報われるのだと、これでやっと安全で温かいベッドで眠れるのだと自分に言い聞かせ、その部屋へと一歩を踏み出した。
背後で、ガシャン、と重い鉄の扉が閉ざされ、外側からかんぬきと鍵がかけられる音が響いた。
『ご苦労だったね、セオドア。……ああ、なんて瑞々しく、愛らしい子供だ』
部屋の奥。薄暗い間接照明に照らされた、信じられないほど豪奢な天蓋ベッド。そこに深々と腰掛けていた初老の男――教祖が、濡れたような舌でひび割れた唇を舐めずりながら、獲物を見る目で私を見つめていた。
恰幅の良い体に纏った最高級の法衣。だが、その濁った瞳に宿っていたのは、神への信仰などではない。
それは、広場で石を投げられていた大罪人に向けられた大衆の目よりも遥かに悍ましい、剥き出しの粘着質な劣情だった。
『ルシアン、君は今日から教祖様の特別な御側仕えになるんだ。本当に、光栄なことだよ』
分厚い扉の向こう側から、セオドアの底抜けに無邪気な声が響く。
彼は本気で気づいていないのだ。自分が、純粋な信仰と完全なる善意から、ひとりの無力な子供を、色情狂の老人のベッドへと「極上の生贄」として捧げているという悍ましい事実に。
私は生きるために、必死に「いい子」を演じた。自分の心を殺して、他人に石まで投げた。
けれど、そんな涙ぐましい努力は、何一つ意味を持たなかったのだ。私に待っていたのは、大人の劣情を満たすための慰み者として、尊厳を徹底的に破壊され、ただ消費されるだけの絶望だった。
「さあ、おいで。神の愛を、私の体を通して、たっぷりと教えてあげよう……」
教祖が立ち上がり、脂ぎった手を私へと伸ばしてくる。
――この瞬間。
温かいベッドとパンを夢見て、怯えて泣くことしかできなかった『十歳の子供』は、鍵の閉ざされた密室の中で、跡形もなく完全に死んだ。
第2話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
生きるために心を殺して群衆の狂気に同調したにもかかわらず、一番残酷な形で大人に裏切られたルシアン。ただの怯える子供だった彼は、この絶望の密室で完全に死に絶えました。




