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第1話 奇跡の代償

初めまして。本作を開いていただき、ありがとうございます。

誰もが知る「あの名台詞」から始まる、少しダークで、徹底的な合理主義を貫く冷徹な神官の物語です。

甘い綺麗事や神の奇跡に頼らない、己の命と知略だけを武器にして這い上がる男の覇道を、どうぞお楽しみください。

※本作にはダークファンタジー特有の理不尽な世界観や、主人公の凄惨な過去の描写が含まれます。あらかじめご注意ください。

鉄錆と、内臓の焼けるような酷い臭いが、冷たい石造りの大祈祷室に立ち込めていた。

 天井の極彩色を帯びたステンドグラスから差し込む斜陽は、神聖な祈りの場を紫黒の影で満たしている。その中央、白大理石の祭壇の上に無造作に横たえられているのは、この王国の希望とされる男の死体だった。

「……また、この男ですか」

 私は神官服の裾が汚れるのも厭わず、血溜まりの施された祭壇へと歩み寄った。

 死体の胸部は、魔物の爪によって容赦なく引き裂かれ、肋骨が白く露出している。男の名はガストン。エルシオン聖王国が『第三勇者』として祀り上げ、大層な聖剣を与えた男だ。死に顔には、己の敗北を信じられないといった風な、酷く間抜けな驚愕の表情が張り付いていた。

 祈祷室の片隅には、すでに次の戦いへ投入される予定の『第四勇者』の予備の甲冑が、主のいないまま冷たく鈍色に光っている。この国にとって、勇者とは代わりの利く使い捨ての駒に過ぎず、大がかりな歯車の一部でしかない。そして彼ら自身も「死んでも教会が生き返らせてくれる」と慢心している。歪みきった世界の縮図が、ここにあった。

「ああ、勇者よ。死んでしまうとは情けない。……本当に、情けない男だ」

 私は死体を見下ろし、小さく呟いた。

 湧き上がるのは怒りではない。ただ、果てのない徒労感だけだ。

 私は細く白い指先を伸ばし、祭壇の周囲に埋め込まれた『特級魔石』へと触れる。実態は、安い下級魔石の表面を特殊な術式でコーティングし、あたかも高価な奇跡の触媒であるかのように見せかけた私の『偽造品』だ。

 冷たい床に両膝をつき、深く頭を垂れて、祈るように両手を組む。

 ――勘違いしないでいただきたい。私は神などに祈ってはいない。ただ、私の内側に構築された残酷な『ことわり』の数式を、目の前の千切れた魂に縫い付けるための、精密な精神集中の作業を行っているのだ。

「――ッ、く、は……」

 術式が起動した瞬間、喉の奥からせり上がる強烈な鉄の味を、私は奥歯を噛み締めて強引に飲み込んだ。

 心臓を直接、凍った刃で抉り取られるような激痛が全身を駆け巡る。視界が急速に明滅し、指先が不自然に震えた。私の肉体の内側で、何かが確実に摩耗し、灰へと変わっていく感覚。この強烈な反動を伴う魔力の酷使に、私の肉体は悲鳴を上げている。読者がこれを見れば、単なる大魔術の「代償」や「過負荷」だと解釈するだろう。だが、真実はもっと切実なものだ。

 どれほどの絶対的な対価を支払って、この薄っぺらい命を現世に繋ぎ止めているか。この傲慢な肉の塊は、想像したこともないだろう。

 祈祷室が、不気味なほど鮮烈な白光に包まれた。

 抉られたガストンの胸の肉が、蠢く芋虫のように不浄な音を立てて再生を始める。骨が噛み合い、皮膚が閉じ、やがて男の胸が大きく上下した。

 勇者が激しくむせ返りながら、血に濡れた大理石の上で跳ね起きる。

「ぶはっ……! げほっ、ごほっ! あ、俺は……!? そうだ、あのクソ魔物め、背後から卑怯な真似を……!」

「お目覚めですか、勇者殿」

 私は懐から取り出した真っ白なハンカチで口元の血を拭い、何事もなかったかのように、完璧な神官の微笑みを浮かべて彼を見つめた。口調はどこまでも穏やかに、礼節を保って。

「ル、ルシアンか! またあんたの奇跡に助けられたな! 悪い悪い、次は絶対にあの魔物の首を撥ねてやるからよ! さあ、俺の聖剣はどこだ! すぐに次の戦場へ行くぞ!」

反省の色など、微塵もなかった。

 彼にとって「死」とは、ただの軽いやり直しに過ぎない。私がどれほどのものを切り売りして、その安っぽい命を引き戻したかも知らずに、男は再び戦場へと駆けていく。

 私は丁寧に頭を下げ、その愚かな背中を見送った。

 他者の命を消費して生きる者。己の足で立とうとしない者。そして、それらを奇跡という欺瞞で甘やかす、このエルシオン聖王国。

 遠ざかる勇者の足音を聴きながら、私の唇からは冷え切った言葉が零れ落ちていた。

「――この国は、根底から腐りきっている」

 救いようのない、傲慢な国だ。

 閉ざされた鉄の扉を見つめながら、私は静かに目を閉じ、遥か遠い日を思い出す。私が「神の奇跡」などという虚飾をすべて捨て、この残酷な世界の理を骨の髄まで理解するに至った、あの始まりの季節を。

───

 私が後に「ルシアン」という名を与えられるより前、十歳に満たない頃の私には名前すらなかった。

 王都の最底辺。華やかな大聖堂の影に広がる、陽の当たらないスラム街。そこが私の世界のすべてだった。

 そこでは、飢えと疫病が灰色の霧のように絶えず蔓延していた。人間が生きる場所ではなく、ただの行き倒れた命が腐るのを待つだけの吹き溜まり。私はその泥水を啜り、泥にまみれた野犬と僅かな残飯を奪い合う、言葉を持たないただの「汚い生き物」として這いつくばっていた。

 エルシオン聖王国の権力者たち――貴族や王族は、絢爛豪華な馬車の上から、私たちを人間としてすら認識していなかった。きらびやかな衣装をまとい、民から搾り取った贅沢に溺れる彼らは、窓の外に転がる飢死した子供の死体を、道端の石ころのように踏みつけていく。王国の正規の兵士たちもまた、王政の命に従って動くただの冷酷な壁だった。貧民がどれほど助けを求めて叫ぼうとも、武器の柄でその顔を殴りつけ、容赦なく切り捨てる。

 王都には富が溢れているにもかかわらず、その恩恵は最底辺には一滴も滴らない。これが、神に祝福されたとされるこの国の、あまりにも絶対的な格差だった。

 そんな私がある日、奇跡的に生き延び、地方のひなびた古ぼけた修道院へと拾われた。

 そこで私は、生まれて初めて、他人に殴られない夜と、飢えのない静かな暮らしを知ったのだ。

 修道院の生活は慎ましく、朝から晩まで畑を耕すか、古い建物の修繕をする日々だったが、私にとっては天国にも等しかった。そして、その修道院の片隅にひっそりと置かれた古い書物との出会いが、私の内側に眠る「何か」を目覚めさせた。

 泥を舐め、家畜のように生きてきた私にとって、紙の上に規則正しく並ぶ黒い文字の列は、どんな金銀財宝よりも美しく輝いて見えた。

 文字を知ることは、世界の仕組みを知るための鍵。私は狂ったように文字の勉強に励んだ。

 日中の過酷な労働が終わった後、他の子供たちが眠りにつく中で、私は僅かな蝋燭の灯りを頼りに書物を貪り読んだ。周囲の大人たちが驚愕し、恐れるほどの速度で難解な言葉を覚え、神の教えや世界の歴史が記された書物を読み解いていった。

 一度目にした文字は決して忘れず、複雑な文章の構造を瞬時に把握する。その類稀なる知性と記憶力は、この孤独な学びの夜の中で確実に培われていったのだ。

 文字を知ることだけが、私がただの泥犬ではなく、思考を持つ「人間」であることの証明だった。

 書物を読むうちに、私は世界の構造を少しずつ理解し始めていた。国を動かす王政、民の信仰を縛り付ける教会、そして前線で命をすり潰す軍事。それらが美辞麗句で覆い隠した、いびつな支配の歯車。

 私はまだ幼い瞳で、その真実を静かに見つめていた。いつかこの知識が、私を本当の救いへと導いてくれると信じて。

 ――しかし。その学びの喜びさえも、あの偽りの善意によって、破滅の狂気へと塗り替えられることを、当時の私はまだ知る由もなかった。

第1話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

現在のルシアンの容赦のない冷徹な姿と、その原点となるスラムでの幼少期のお話でした。

次話では、文字を知り喜びを覚えた彼を待ち受ける「善意の悪魔」との出会い、そして彼が神を捨てる決定的な絶望の過去が語られます。

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