第25話 勇者の解体
神の威光を傘に着て、増長し腐敗した「勇者」たち。
無能な彼らに差し出す救済など、もうどこにも存在しない。
死を撒き散らす異常者を前に、冷徹な神官は道徳すら捨て去り、泥に塗れた孤児たちと共に最悪の盤面を構築する
血飛沫と臓物が舞い散る、暴動の牢獄区画。
数千の囚人たちが看守を八つ裂きにする狂乱のただ中で、そこだけがぽっかりと不気味な空白地帯になっていた。
勇者ゼルの周囲。囚人たちは長年植え付けられた恐怖から、どれだけ数がいても彼にだけは絶対に近づけなかった。
「……あ?」
血塗れの長剣を下げたゼルは、立ち止まっていた視線を、ルシアンたち一行に向けた。
そして、獲物を見つけた蛇のように、その瞳を爛々と輝かせる。彼の視線の先にあるのは、ただ一人――最も若く、活気に満ちた青年、ザックだった。
「あははっ! お前、いい目をしてるなぁ! なぁ、いい声で鳴けよ! お前みたいな威勢のいいガキが絶望して、声を枯らして泣き叫ぶ音が一番たまらないんだよ!」
一切の迷いなく、ゼルがザックに向かって一直線に地を蹴る。
「ヒッ……! く、来るなッ!」
ザックは構えた短刀を振るうことすらできず、悲鳴を上げて無様に背を向けて逃げ出した。
だが、それは完璧な演技だった。彼はゼルの『若者が絶望して逃げ惑う姿に興奮する』という異常な性癖を逆手にとり、哀れな獲物を演じながら最下層の採掘場へと誘導を開始したのだ。
「……ザック、そのまま奥へ」
背後の暗がりからルシアンが冷徹な声を落とす。
その言葉の真意を、誰よりも早く理解した者がいた。カインだ。
彼は大斧を背負い直すと、階段へ向かう一瞬だけ、ザックへ向けて微かに顎をしゃくった。
――下へ追いやれ。
自分がこれから何をするかなど、一切語らない。死線を潜り抜けてきた者同士の、最小限のアイコンタクト。
ザックはそれだけで真意を瞬時に察知し、即座に完璧な演技へと移行した。
「お、おいカイン!? どこへ行くんだよ、見捨てないでくれぇッ!」
ザックの迫真の泣き言が響く。ゼルは「あははははッ! 仲間にも見捨てられたなぁ!」と狂喜し、逃げ惑うザックの背中を嬉々として追いかけ始めた。
* * *
「遅い遅い遅いっ! 逃げ回るだけか!? 手足から少しずつ削いでやるよぉ!」
薄暗い採掘場の最奥。巨大な縦穴の下。
絶望したふりをして逃げるザックは、闇雲に走るふりをしながら、道端の『巨大な岩柱』の傍らでわざと足をもつれさせて転倒した。そこには、あらかじめ死にかけの囚人が一人、岩の陰に寄りかかるように倒れている。
「ひぃぃッ!」
無様に尻餅をつき、足首を晒すザック。歓喜したゼルが、ザックの足を断とうと傍らの死体を踏み越え、剣を大きく振り下ろした――その瞬間だった。
「――かかりましたね、単細胞」
岩柱の完全な死角。
ザックが遠回りで囮をしている間に、闇に紛れて最短ルートで先回りしていたルシアンが、岩の裏で息を潜めて待ち構えていたのだ。
暗がりから伸びたルシアンの手が、岩陰に隠れていた死体の頭部に触れる。衣服の下の変換炉(心臓)が脈打ち、死にゆく肉体へ強制的な神経信号が流し込まれた。
ビクンッ!! と、囚人の肉体がバネのように跳ね上がった。自らゼルの凶刃の軌道へと飛び込み、その肩口から胸骨にかけて、深々と刃を食い込ませたのだ。
「……は?」
さらにボキボキッという異音と共に、刃を深く受け止めた囚人の全身の筋肉と肋骨が「異常な死後硬直」を引き起こす。万力のように硬化した肉体と骨格が、ゼルの剣を『肉の鞘』として完全にロックしたのだ。
「今です!」
哀れな青年の演技を解いたザックが、氷のような目で短刀を構え直す。
剣を封じられ、無防備になった勇者。ここで勝負が決まる――そう確信した瞬間、ゼルは狂気的な笑みを浮かべた。
「抜けなけりゃ、形を変えればいいだけだろぉ?」
ガシャンッ!
手元のスイッチ。ゼルの長剣が、細かい刃の連なりである『蛇腹状の鞭』へと一瞬で変形し、肉の鞘を引き裂いて周囲へと暴れ狂った。
「嘘だろっ!? あれでまだ動けんのかよ!」
必殺の罠を力技で破られ、ザックが驚愕と焦燥に顔を歪めて叫ぶ。
無軌道に振り回される鞭の刃は、ゼル自身の鎧や肉体をも切り裂く。だが彼は、自身の流血と激痛にすら絶頂を覚える異常者だった。
「あはぁっ! 気持ちいいッ! 最高だぁッ!」
自身の痛みに興奮し、さらに速度を上げる鞭剣。
飛来する刃から必死に逃げ惑うザック。だが、盤面を支配する指揮官は、この異常事態にすら一切の動揺を見せなかった。
「……自身の肉ごと削るとは、呆れるほどの異常者ですね。ザック、予定通り『次』へ」
岩陰から響く、ルシアンの氷のように冷徹な声。
その一切の焦りを含まない指示を聞いた瞬間、ザックは逃げ惑う青年の表情をスッと消し去り、プロの暗殺者の目をして振り返った。
「……鳴くのはテメェだ、狂犬」
ザックが手元の暗器を投擲し、壁面に這っていた採掘用の「巨大なガス管」を破壊した。
プシュゥゥゥッ!!
一瞬にして高濃度の鉱山ガスと粉塵が噴出し、ゼルの視界と呼吸を強制的に奪う。
「ゲホッ……!?」
ゼルの動きが、ほんの一瞬、完全に止まった。
その直後。
遥か数十メートル上空。ガスと粉塵の天井を突き破り、数トンはある『巨大な鉄の重り(カウンターウェイト)』が落下してきた。
いや、ただ落ちてきたのではない。
「ルシアン、ザック……あとは任せたぜッ!!」
戦士の筋力では、決して勇者の肉体を断ち切ることはできない。
絶対的な力の格差を埋めるため、カインは上層で重りを吊るす鎖の留め金を叩き割り、落下し始めた鉄塊より一瞬早く、自らもその真下へと跳んだのだ。数トンの鉄塊を『巨大なハンマー』とし、己の大斧と肉体を『杭』として勇者に打ち込む――決死のギロチン戦法。
ガスを切り裂き、カインの大斧がゼルの右肩に食い込む。
その直後。
――ドゴォォォォンッ!!!
上から落ちてきた数トンの鉄塊が、大斧を構えるカインの背に激突した。
絶大な質量と落下のエネルギーが、カインの肉体と斧を媒介にしてゼルへと叩き込まれる。ゼルの右半身がひしゃげ、右腕ごと完全に両断された。
と同時に、上からの数トンの重圧と、下からの反発を一身に受けたカインの「両脚」から、すべての骨が砕け散る凄惨な破砕音が響き渡った。
「アッ……あ、あははははッ……!!」
右半身を粉砕され、血の海に倒れ込んだゼルは、口から大量の血の泡を吹きながら、己の破壊に絶頂して爆笑した。
その狂った隙を逃すはずがない。粉塵の中から無音で滑り込んできたルシアンとザックの短刀が、ゼルの残る左腕と両脚の腱を正確かつ無慈悲に切り裂いた。
「ハァ……ハァ……やったか……ッ!」
ゼルの四肢を完全に潰し終えた瞬間、カインはガクンと転げ落ちた。
極限のアドレナリンが切れ、ここで初めて彼は自身の凄惨な状態に気がついた。落下の衝撃を殺さずに受け止めた両脚は完全に砕け、もはや原形をとどめていなかった。
「ええ。見事な一撃でした、カイン」
静かに歩み寄ったルシアンが、カインの両脚に手を添える。
衣服の下の変換炉(心臓)が低く脈打つと同時に、カインの両脚からバキバキと不気味な音が鳴り響いた。砕けた骨が強制的に結合し、千切れた筋肉が一瞬にして正しい位置へと引き戻されていく。
「ありがとよ、ボス」
立ち上がったカインは、軽く足首を回してニヤリと笑った。
その足元では、血の海で微塵も動けなくなったゼルが、四肢を潰されながらも「あぁっ……もっと、もっと俺を壊してくれぇ……っ」と恍惚とした吐息を漏らしている。その異常な肉塊を見下ろし、ルシアンは一切の感情を排した声で冷酷に告げた。
「……上層の広間に、処刑用の『鋼鉄の棺』がありましたね。この肉塊をそこへ運びなさい。微塵も残さず挽き潰します」
「了解だ、ボス」
カインは地に伏せるゼルの髪の毛を片手で無造作に鷲掴みにした。
そして、血を垂れ流す狂犬の身体を、荒い石畳の上をズルズルと引きずり始める。その横を、ザックが血振りを終えた短刀を弄びながら歩調を合わせた。
「にしても、お前のあの泣き叫ぶ演技、最高に情けなくて笑いそうになったぜ」
「うるせえよ。こっちは本当に命がけだったんだ。お前のあの無茶苦茶なダイブに比べりゃ、よっぽど計算されてただろ」
「……フッ、違いねえな」
命を削る死闘の直後だというのに、二人の間には乾いた笑いが交わされる。背後には、髪を引かれ、石畳に傷口を削られながらも不気味に喘ぎ続ける狂犬の血の跡が、薄暗い坑道の奥へ、どこまでも長く続いていた。
勇者との絶対的な力の差を埋めるため、数トンの鉄塊の媒介(杭)として自らの両脚を砕いたカイン。絶望した獲物を完璧に演じたザックの誘導と、密かに先回りしていたルシアンの罠。命を削る連携により、ついに狂犬は物理的に粉砕されました。




