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第22話 亡者の聖典

いつもお読みいただきありがとうございます。

第21話での凄惨な処刑劇を経て、物語は一度、彼らの絶対的な聖域である拠点へと舞台を戻します。

第22話では、過酷な因果の戦いから一時的に離れた少年たちの年相応な無邪気さと、それを見つめる聖女クラーラの心境の変化を描きます。そして、自らの命をたきぎにくべながら新たな秩序を紡ぎ出すルシアンの真意が、クラーラとの激しい対話の中でついに明かされます。

白磁の勇者を味方の怨念によって骨の髄まで喰らい尽くさせた、あの国境の凄惨な処刑場から数日。

 ルシアンたちが帰還したのは、彼らの真の拠点であり、理不尽な世界への反逆の牙城たる『辺境の村ノルド』であった。

 かつて聖王国の軍勢によってすべてを焼き払われ、一文の価値もない焦土として見捨てられたその土地は、今や頑強な石造りの家屋が整然と立ち並び、完全に機能する新たな砦へと変貌を遂げている。周囲には、泥の中から集められた孤児や罪人、逃亡奴隷たち約五十人の精鋭が潜み、飢えた獣のような眼光で周囲の警戒にあたっていた。

 その村の中心にそびえる、ひときわ強固な石造りの館の一室。

 分厚い石壁に守られた薄暗い空間には、冷たい雨風の音も、戦場の凄惨な絶叫も届かない。ただ、壁に掛けられた古びた燭台の炎だけが、静かに揺らいでいた。

「おいザック! その干し肉、俺が先に目を付けてたんだぞ! 返せよ!」

「うるせえカイン! 飯の恨みは恐ろしいんだ、嫌なら力ずくで奪い返してみせろ!」

「あーっ、二人ともずるい! だったら僕が両方とももらっちゃうからね!」

 部屋の片隅では、粗末な木箱を机代わりにして、ザック、カイン、そしてエリアスの三人の少年たちが、硬いパンと干し肉を巡って騒がしく小競り合いを繰り広げていた。

 カインがザックの首に腕を回してじゃれつき、銀髪の王子であるエリアスが笑いながら二人の間に割り込んでいく。

 ほんの数日前まで、戦場の陰で冷酷に死体の顎をこじ開け、禍々しい劇薬を流し込んでいたとは思えないほど、屈託のない無邪気な声。地獄のような世界を生き抜いてきた彼らであったが、その本質はまだ、他愛もないことで目を輝かせる年相応の幼さを残した、ただの子供たちだった。

「……よかった。あの子たち、まだあんな風に笑えるのね」

 部屋の隅の木椅子に座り、膝を抱えていた聖女クラーラは、胸を撫で下ろすように小さく呟いた。

 国王から「妄想狂」の烙印を押され、合法的にルシアンの厳重な監視下に置かれた彼女には、もはやこの拠点から逃げ出す術も、大聖堂へ帰る居場所も残されていない。しかし、ルシアンの命令で血に染まっていく少年たちの心が完全に壊れてしまったのではないかと怯えていた彼女にとって、今目の前で繰り広げられる他愛のない光景は、唯一の救いだった。あの子たちの中には、確かにまだ温かな『人間』としての感情が残っている。その事実に、クラーラは微かな安堵を覚えていた。

 だが、クラーラが視線を部屋の最奥へと移した瞬間、その安堵は氷のような冷気へと塗り替えられた。

 子供たちの喧騒から遠く離れた長机。そこにはただ一人、静寂の中に沈むルシアンの姿があった。

 彼は白亜の美しい指先で羽ペンを握り、黒いインクを浸しながら、羊皮紙に向かって黙々と文字を書き連ねている。その横顔はひどく青白く、まるで生きている人間ではなく、精巧に作られた死者の彫像のように冷徹だった。

 クラーラはいたたまれない衝動に駆られ、静かに、しかし決然とした足取りで彼へ歩み寄った。

「……何を書いているのですか。今度はどこの国を嵌め、誰を殺すための計略なのですか」

「この先の盤面に必要な、一つの『ことわり』ですよ」

 ルシアンは羽ペンを止めることなく、感情の起伏を持たない淡々とした声音で答えた。クラーラがその羊皮紙を覗き込むと、そこには神への祈りの言葉でも、死者を動かす不気味な術式でもない、緻密な統治の法や、民を導くための冷徹な教えが並んでいた。

「これは……法典? いえ、まるで国を治めるための……」

「『聖典』と呼んでください。聖王国が掲げるような、偽善と自己愛にまみれた虚飾の神の教えではありません。いずれ私がいなくなった後、エリアス殿下たちがこの国を真に統べ、民を迷わせずに生きていかせるための、絶対的な道標です」

 その言葉に、クラーラは目を見開いた。

 ルシアンはただ世界を呪い、破壊するためだけに動いているのではなかった。かつて大聖堂から奪い取った五つの特級魔石という莫大な『資本』を基盤にし、孤児であるザックやエリアスたちにこのノルドの国を任せ、新たなOrder(秩序)を築かせるという、途方もない裏の目的を抱いていたのだ。

 しかし、クラーラにはどうしても彼のやり方が許せなかった。募る不信感が、彼女の口から鋭い言葉となって弾け飛ぶ。

「あの子たちの未来のためだというのなら……なぜ、あんなに残酷な真似をさせるのですか!?」

 クラーラの悲痛な叫びが、少年たちの笑い声を一瞬だけ遮った。だが、ルシアンが視線すら上げないのを見て、少年たちは察したように再びじゃれ合いを始める。クラーラは涙を浮かべ、ルシアンの机を強く叩いた。

「あなたがあの子たちに命じていることは、ただの殺戮の片棒担ぎです! 祖国を守ろうとしたガルムの兵士たちを薬で化け物に変え、聖王国の兵士たちを生きたまま貪り食わせた……。彼らにだって、守るべき家族や生きてきた人生があったはずよ! そんな血塗られた地獄の土台の上に、あの子たちの本当の幸福が築けるわけがないわ!」

 感情のままに、聖女としての道徳をもってルシアンを激しく責め立てるクラーラ。

 しかし、ルシアンは静かに羽ペンをインク壺へと戻すと、ゆっくりと顔を上げ、冷めきった漆黒の双眸でクラーラを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、一欠片の動揺も、罪悪感も存在しない。

「血塗られた土台の上にしか、彼らが生きる場所などないのですよ、聖女様。……お忘れですか?」

 ルシアンの声音は、夜の雨よりも冷たく、重かった。

「彼らがスラムの泥の中で、餓死しかけていたあの日。あなたのその『清らかな祈り』は、彼らの腹を一時でも満たしましたか? 聖王国が彼らをゴミのように迫害し、故郷を焼き払った時、あなたの信じる『神の道徳』は彼らを護りましたか?」

「それは……っ……」

「誰も守らなかった。誰も救わなかった。この狂った世界においては、強者が弱者を搾取し、都合のいい肉の盾として使い潰すのが唯一の法だ。だから私が、彼らの代わりに血を流して世界から奪い返しているのです。彼らを迫害した者たちを殺し、彼らを見捨てた国を壊し、その骸を礎にして彼らの玉座を創る。これ以上の慈悲と愛が、一体どこにあるというのですか?」

 ルシアンの容赦のない論理は、クラーラが縋ってきた綺麗事を完璧に粉砕した。

 正論では腹は膨らまない。誰も助けてくれない世界で、奪われ続けた底辺の者たちが生き残るためには、強者の喉笛を食いちぎるしかないのだ。その生々しく絶対的な成果主義の真理を突きつけられ、クラーラは唇を血がにじむほど噛み締め、反論の言葉を失って立ち尽くすしかなかった。

「……それでも、あなたは冷酷すぎるわ。命をただの数字としか思っていない。まるで、あなた自身には心も、人間としての痛みすら存在しないみたいに……」

 絶望の混じった掠れた声でそう呟いたクラーラに対し、ルシアンはふっと、自嘲するような、ひどく虚無的な笑みをその薄い唇に浮かべた。

「ええ、人間としての痛みなど、とうの昔に麻痺していますよ。私自身の心臓(変換炉)が、これほどまでに魂を削る禁呪の連使に耐えられているのが、その証拠です」

 ルシアンは静かに、右手の黒い手袋を外した。

 それを見た瞬間、クラーラは短い悲鳴を上げて、自らの口を両手で塞いだ。

 手袋の下にあったのは、人間の瑞々しい肌ではなかった。

 血の気が完全に失われ、どす黒く変色し、まるで干からびた死人のようにひび割れた肉。手首から腕の奥へと向かって、悍ましい呪いの文様が、黒い血脈のようにドロドロと浮かび上がっていたのだ。

「強制蘇生や、死者の使役……これらは世界の理に背く、最大級の禁忌の魔術。一度その術理を振るうたびに、術者の生命力を内側から激しく喰い荒らしていく。先日の戦いで、百の死体を同時に操り、秘薬を嚥下させた代償は……私の数年分の寿命となって、その場で消し飛んだのですよ」

 ルシアンは己の変色した醜い腕を、まるで他人の道具でも眺めるかのように、ひどく無関心に見つめた。

「私の命は、とうに長くない。持ってあと数年、早ければこの聖王国を完全に潰し終えると同時に、私の肉体は灰となって崩れ去るでしょう」

「な……っ……そんな、嘘でしょう……?」

 クラーラは激しい衝撃に襲われ、足元をふらつかせながら後ずさった。

 彼が常に焦燥しているかのように、最短で、最も非情な手段を用いて敵を殲滅していく理由。それは彼がただ残虐な化け物だからではない。

 **『己の肉体が灰に帰す前に、遺される子供たちが誰にも脅かされずに生きていくための完璧な国と、揺るぎない富(資本)を遺さなければならない』**という、絶対的な時間制限が存在していたからなのだ。

「……私が生きている間は、私がすべての泥を被り、すべての罪を背負って地獄へ落ちればいい。あの子たちの手は極力汚さず、彼らの心に人間としての無邪気さを残したまま、私が敵をこの世から削り尽くす。……エリアス殿下に手渡したあの宣言文も、この『聖典』も、私が死んだ後、彼らが二度と誰かの肉の盾にされないための、最後の贈り物なのです」

 ルシアンは再び淡々と手袋をはめると、何事もなかったかのように羽ペンを手に取り、静かに聖典の文字を紡ぎ始め、静寂の中へと戻っていった。

 その細い背中は、以前はただ恐ろしい悪鬼の依代にしか見えなかったが、今は違って見えた。己の命を薪にくべて激しく燃やしながら、見捨てられた子供たちのために狂った世界を焼き払おうとする、あまりにも孤独で、あまりにも悲壮な炎のようだった。

「ルシアン……あなたという人は……」

 クラーラは胸の奥を、形のない鋭い刃で強く締め付けられるような痛みを覚えた。

 彼の凄惨なやり方を肯定することは、聖女としての彼女には決してできない。それでも、ただの冷徹な悪魔だと思っていた男の、誰よりも深く、そして狂気的なまでの『献身』の意図を知ってしまったからだ。

 部屋の向こうでは、ザックたちがまだ無邪気に干し肉を奪い合って笑い声を上げている。

 彼らは、自分たちの未来の玉座のために、今、目の前の男が命をどれほど擦り減らしているかなど、露ほども知らない。

 クラーラはただ黙って、ルシアンが自らの命の灯火と引き換えに書き連ねていく、新たなる国のための『聖典』の文字を、涙で滲む視界の中で見つめ続けることしかできなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

少年たちの無邪気な休憩と、それを見つめるクラーラの安堵。そして、ルシアンの冷徹な論理による論破と、禁呪の代償による「残り少ない寿命」の告白を描いた第22話でした。

すべての泥を自分が被り、子供たちに完璧な国を遺すというルシアンの真意の片鱗を、クラーラが知る重要なエピソードとなりました。

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