第16話 密林の調停
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第15話の凄絶な処刑劇が明けた翌朝の物語です。
民から感謝されて困惑を深めるクラーラの絶望と、次なる国家転覆の布石としてルシアンがエルフの森へと足を踏み入れる展開をお楽しみください。
※本作にはダークファンタジー特有の陰惨な描写や価値観が含まれます。
狂乱と血に塗れた凄惨な夜が明け、辺境の砦を冷たい朝靄が包み込んでいた。
朝靄の立ち込める回廊の隅で、聖女クラーラは壁に背を預け、幽鬼のような顔で立ち尽くしていた。寝室の窓から一晩中見せつけられた、終わりのない地獄の残像が彼女の瞳からどうしても消えない。
そこへ、昨夜の血闘の汚れを落としたザックとカイン、そしてエリアスが厳かな足取りで歩み寄ってきた。三人の瞳には、昨日までとは比べ物にならないほどの深い熱と、敬意が宿っている。
「聖女様……ありがとな」
ザックがクラーラの前で深く頭を下げ、拳を握りしめた。
「あんたが恐怖をこらえて体を張り、あの狂犬を寝室に誘い出してくれたおかげで、俺たちは積年の恨みを晴らすことができた。ルシアンから聞いたぜ。あんたは民を救うために、あの化け物の前に立つ覚悟を決めたんだってな」
ザックの言葉に続き、彼の兄貴分であり、これからこの国の不滅の戦士となる男――カインが、無骨な面体に真摯な表情を浮かべて深く頷いた。
「ああ、聖女様。あんたのその覚悟があったからこそ、俺たちも民も、誰一人として傷つかずにあの悪鬼を泥に沈められたんだ。あんたの尊い優しさと犠牲、戦士として生涯忘れねえ」
カインの芯のある力強い言葉に続いて、エリアスが静かに胸に手を当てて一礼した。
「ええ。クラーラ様が危険を冒して完璧な機会を作ってくださらなければ、この砦に真の救いは訪れませんでした。あなたこそ、我ら無力な民を導く真の聖女です。心から感謝いたします」
曇りのない、純粋な感謝と崇拝の眼差し。
だが、その言葉を受け止めるクラーラの全身は、歯の根も合わないほど激しく震え始めていた。
「ち、違う……私は、私はそんな……っ」
「無理もねえ、あんな悍ましい豚の相手をさせちまったんだ。今はゆっくり休んでくれ、聖女様」
ザックのいたわるような優しい声が、今のクラーラにはどんな呪詛よりも鋭く突き刺さる。彼女はそれ以上言葉を返すこともできず、引き攣った呼吸を繰り返しながら、彼らの前から逃げるように自室へと走り去った。
───
砦の最奥にある、固く扉の閉ざされた薄暗い自室。
クラーラは冷え切った床の上に崩れ落ち、両手で顔を覆って咽び泣いていた。
「私の……私のしたことは、正しかったのでしょうか……」
涙で濡れた声が、虚しく壁に跳ね返る。
彼女は民を救いたい一心で、ルシアンから渡された清めの油をその身に塗った。己の貞操を犠牲にしてでも、あの狂犬の暴虐から砦の人々を護るため、覚悟を決めてあの部屋へ入ったはずだった。
だが、現実はどうだったか。
彼女の体に塗られた油は神の加護などではなく、勇者の神経を焼き切る最悪の猛毒の器。彼女が恐怖のあまり上げた絶望の悲鳴は、弱者たちが仇敵を八つ裂きにするための凄惨な処刑の合図として利用されたのだ。
「私は民を救ったの……? それとも、あの凄まじい地獄を、私が呼び寄せてしまったの……? ルシアン、あなたは一体……」
己の施した自己犠牲が、最もおぞましい蹂躙の引き金となった。それなのに、復讐を遂げた者たちは、彼女を「命を懸けて自分たちを救ってくれた恩人」として崇めている。
この歪みきった因果と、身に覚えのない聖女としての賛辞が、彼女の清らかな精神を内側から引き裂き、激しく困惑させていく。
「神よ……どうか、答えを……。私は、どうすればよかったのですか……っ」
クラーラは狂ったように何度も首を振り、縋るように胸の前で手を組み合わせた。己の正義を見失い、果てしない困惑と罪悪感の泥沼に沈みながらも、彼女にはもう、こうして祈り続けることしか残されていなかった。
だが、彼女はまだ知らない。
その必死に救いを求める敬虔な祈りこそが、ルシアンの構築した二重術式を維持し、砦の不滅の駒たちを動かすための、最も上質な燃料として搾取され続けているという残酷な事実を。
───
一方、砦の広場。
主を失った勇者バルドスの『赤の大剣』と重厚な鎧を見つめながら、私はエリアスと向かい合っていた。
「――ルシアン様。聖王国の国宝級の武具、これを闇に流して金に換えれば莫大な富になりますが……これはあまりにも危険な劇薬です」
エリアスは羊皮紙を手に、知的な双眸を細めて指摘する。
「聖王国は独自の蘇生と治癒の術理を持っています。七人の勇者の一人を失ったとなれば、彼らは必ず血眼になって異端審問官を差し向け、遺体の回収を最優先するはずです。遺体が消え、我々がこれらの武具を持っていると嗅ぎつけられれば、聖王国全土を敵に回すことになるでしょう」
「素晴らしい慧眼です、エリアス様。……ですが、我々が矢面に立つ必要はありません。彼らには『彼らが勝手に納得する真実』を与え、他国と潰し合わせてあげればよいのです。……そのためにも、まずは西の住人たちを私の盤面に引き入れる必要があります」
私はそう言い残すと、広場へ戻ってきたザックとカインを伴い、人間を激しく拒絶する西の結界――エルフの森へと足を踏み入れた。
───
鬱蒼と茂る巨木が陽光を遮り、年中不気味な魔力が立ち込める西の深緑。
人間の侵入を阻む古代の結界を、私の圧倒的な術理によって音もなく霧散させ、私たちは森の最奥へと突き進んでいく。
「――そこまでだ、穢らわしい人の子よ」
静寂を破り、頭上から無数の銀の矢が向けられた。
巨木の枝から音もなく舞い降り、私たちの行く手を阻んだのは、透き通るような肌と尖った耳を持つ森の住人たち。そしてその中心から、周囲の空気を凍らせるほどの威圧感を放つ者が歩み出てきた。
エルフの森長、ゼルヴァン。
長い年月を生きるその姿は、男とも女ともつかぬ中性的で神秘的な美しさを宿しており、その肉体の一部はすでに古い大樹の根と融け合うように同化しつつあった。氷のように冷徹な瞳が、私たちを鋭く射抜く。
「我が森の結界を容易く破るか。……何の用だ、簒奪の徒。これ以上この聖域を汚すというなら、その命、この木々の糧としてくれる」
張り詰めた殺気の中、私は一歩前へ出ると、優雅に口角を上げて一礼した。
「初めまして、森長ゼルヴァン。人間との関わりを断ちたいあなた方に、本日は極上の輝かしい吉報を持ってきたのですよ」
「吉報だと? 人間の吐く言葉など、欺瞞の毒にしかならん」
「おや、手厳しい。ですが、これを聞いても同じことが言えますか?」
私は懐から、ある『金属の破片』を取り出し、ゼルヴァンの足元へ無造作に放り投げた。泥に落ちたそれは、聖王国の紋章が無惨に削り取られた、勇者の鎧の一部であった。
「我々は昨夜、あなた方の同胞を執拗に拐い、その尊厳を玩具にしていた聖王国の狂犬――赤剣の勇者バルドスを、残らず泥の底へと沈めて殺して差し上げました」
――その瞬間、ゼルヴァンの氷のような表情が、驚愕によって激しくひび割れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
エルフの森長ゼルヴァンに勇者の死を突きつけ、大国を欺くための盤面が大きく動き出した。
引き続き、お付き合いよろしくお願いいたします。




