第九話
「……ああっ、もう! 本当に救いようのない大馬鹿者だな、お前は!」
吐き捨てるような言葉。だが、その直後にカラスから膨れ上がった魔力の圧は、先ほどまでとは比較にならないほど鋭く、苛烈なものに変わっていた。
「やるからには一人も死なせん! 坊っちゃん、その死に損ない共を死守しろ。指一本触れさせるな!」
「言われなくても!」
俺は若者たちの前に躍り出ると、魔法剣の光度を最大まで引き上げた。
岩地栗鼠の群れが、その頑強な巨体で次々と突進してくる。光刃を横に払い、衝撃を逃がしながら必死に防波堤となるが、重い。一撃ごとに腕の骨が軋むような感覚がある。
だが、隣で跳ねたカラスの動きは、先ほどまでの疲弊を感じさせないほどに加速していた。
「獣神の猛り、その身に宿せ!」
彼女が短く詠唱すると、その四肢が目に見えて膨張したように見えた。大鉈を一閃させるたび、岩のような魔物たちがまるで木端のように弾き飛ばされていく。それは技術を超えた、暴力的なまでの「野生」の発露だった。
「ひっ、……助けて、助けてくれ!」
腰を抜かした若者が叫ぶ。俺は光剣を振り抜き、迫る牙を弾き飛ばしながら、背後の彼らへ向けて声を張り上げた。
「立て! 死にたくなかったら走れ! 俺たちが道を作る、その隙に包囲の薄いあそこから脱出するんだ!」
俺は光刃を最大まで伸ばし、円を描くように一閃させた。一時的に道が開ける。
「行け! 止まるな!」
俺の怒声に弾かれたように、若手冒険者たちは互いを抱えながら、必死の形相で林の隙間へと走り出した。
若手冒険者たちは、俺が開いた道へと転がるように飛び込んでいった。
だが、事態は好転しない。岩地栗鼠の群れは執拗だった。一部の個体が標的を逃がすまいと、低い姿勢で彼らの背後を追いかけ始める。
「くそっ、追撃が……! カラス、あいつらこのままじゃ追いつかれる!」
焦りで俺の剣筋が乱れる。助けに行こうにも、俺の目の前にも依然として数体の魔物が立ち塞がっており、身動きが取れない。
その時、隣に立つカラスの空気が一変した。
「……やれやれ。どこまでもお節介な坊っちゃんだ。いいだろう、貸しにしておくぞ」
彼女がその禍々しい仮面に手をかけた。指先からドス黒い魔力が漏れ出し、林の空気が急速に冷え込んでいく。
「月神の闇よ、獣神の飢えよ。境界を越え、その『狂気』をここに顕現せよ」
カラスが仮面を通じて、溜め込んでいた呪力を一気に解放した。
瞬間
彼女を中心として、肌を刺すような強烈な殺意と敵意が爆発的に放射された。
「……っ!?」
あまりの禍々しさに、俺の心臓が跳ね上がり、膝がガクリと震える。まるで巨大な捕食者の前に放り出されたような、根源的な恐怖。呪いの余波に当てられ、俺の身体は一瞬にして硬直した。
だが、その効果は劇的だった。
若手冒険者を追っていた個体も含め、周囲にいたすべての魔物たちが、弾かれたようにカラスへと首を向けたのだ。
「さあ、こっちを見ろ。お前たちが喰らいたいのは、その痩せたガキ共か? ……それとも、この極上の『呪い』か?」
カラスの声は、もはや人のそれとは思えないほど低く、冷たく響く。
すべての敵意を自分一人に引き受けた彼女の周囲で、魔物たちが理性を失った咆哮を上げ、雪崩のように押し寄せ始めた。
「坊っちゃん、今だ。あいつらの意識は私に向いている。お前もその隙に逃げろ!」
荒れ狂う殺意の渦中で、カラスが短く吐き捨てた。
彼女の放つ呪気は、魔物だけでなく俺の生存本能さえも削り取ろうとするほど鋭い。だが、その仮面の奥にある瞳が、俺を逃がすためにあえて死地を買って出ているのは明白だった。
「ふざけるな! 見捨てるわけねえだろうが!」
俺は恐怖で硬直しかけた脚に、無理やり魔力で活力を叩き込み、一歩踏み出した。カラスの背中に向かって叫ぶ。
「あんた一人で抱えられるほど、俺の魔力は安くないぞ!」
「……っ、本当に、救いようのない……!」
カラスは悪態をつきながらも、背中を合わせて戦う姿勢を取った。
ここからは、地獄のような時間だった。
四方八方から、理性を失った魔物たちが津波のように押し寄せる。俺は光刃を振るって牙を弾き、カラスは大鉈で肉を断つ。だが、全ヘイトを買っているせいで、一撃を防いでも即座に次が来る。
金属音が絶え間なく響き、俺の腕は疲労で感覚を失いかけ、カラスの身体強化も限界を超えてその動きに綻びが見え始めていた。
「カラス、右だ!」
「分かっている!」
俺が光の盾で死角をカバーし、彼女がその隙に三体をなぎ払う。
死線の上で、互いの呼吸だけが唯一の頼りだった。
魔物の爪が俺の肩をかすめ、カラスの法衣が裂ける。血の匂いが林に立ち込める中、俺は魔法剣を地面に突き立て、最後の力を振り絞って目眩ましの一閃を放った。
「ぐっ、……今なら行けるか」
その刹那、魔物たちの動きが光に焼かれて一瞬だけ止まる。
カラスはそのわずかな「隙」に、持っていた触媒を力任せに地面へと叩きつけた。
「土神、審判神……その静止をここに固定せん!」
俺たちの足元から噴き出した飴色の光が、猛る群れを力ずくで押し戻し、強固なドーム状の結界を形成する。
壁の向こうで魔物たちが狂ったように結界を叩く音が、重低音となって響き始めた。
「これは…?」
「……はぁ、……はぁ。守りを作った。だが、長くは保たんぞ」
カラスは膝をつき、肩を激しく揺らしながらも、ポーチから次の触媒を、その震える指先で引き出した。
「……坊っちゃん。お前のその『魔力』、私に全て差し出せ!
…創り上げるぞ、この状況を突破できる呪術を。」
彼女の宣言が、結界の中に重く、力強く響き渡る。
「分かった。任せてくれ」
カラスは手元の大鉈を、結界の中心となる地面に水平に置いた。その刀身のちょうど真ん中あたりに、先ほど取り出した二つの触媒――銀色に輝く羽と、赤黒く拍動する鱗を慎重に重ねる。
「坊っちゃん、その上から両手を添えろ。ただし、直接触れるな。魔力の『通り道』を作るだけでいい」
指示通り、俺は大鉈の横に腰を落とし、重なり合った触媒の上から包み込むように両手をかざした。
カラスは大鉈を挟んで俺のちょうど反対側に陣取る。
彼女は俺の震える右手を、自分の左手で強く、上から覆うようにして押さえつけた。そして、もう片方の右手で触媒の核に直接触れる。
大鉈と触媒を、俺とカラスの手が幾重にも重なって閉じ込めるような形だ。
彼女の掌から伝わってくるのは、冷たい体温。だが、その指先からは、震えるような執念が流れ込んでくる。
「準備はいいな……。私の指先から魔力を流す。お前はそれを『増幅』させて、この鉄の中に叩き込め!」
互いの手が重なり、魔力の回路が接続された瞬間、俺たちの間で青白い光の渦が激しく巻き起こった。
付与が始まった。
銀色の光と赤黒い霧が、俺の青白い魔力と混ざり合い、大鉈へと吸い込まれていく。
だが、その瞬間だった。
「……っ!? 馴染みが悪すぎる。坊っちゃん、魔力を乱すな!」
カラスの叫びが、激しい衝撃波となって耳を打つ。
大鉈の刀身に吸い込まれたはずの魔力が、まるで拒絶反応を起こしたかのように、黒鋼の表面でバチバチと不規則な火花を散らしている。いま込めている力では、外で荒れ狂う群れを打破するには到底及ばない。
カラスの顔に一瞬、絶望に近い逡巡が走った。
だが、彼女はすぐに歯を食いしばり、血が滲むほどに大鉈を、そして俺の手を握り締めた。
「……いや、ここで止めても、意味がない……! 制御しきってみせるぞ、この暴馬を!」
カラスの気合と共に、術式の練度が一段階跳ね上がった。
彼女は自らの精神を削るようにして、暴走する獣神の本能に月神の「静寂」を流し込み、無理やり一つの方向へと捩じ伏せていく。
俺も必死で食らいついた。体内を駆け巡る魔力の激流に意識を奪われそうになりながら、ただひたすらに、重なる手の熱を信じて力を注ぎ続ける。
銀色の羽が、赤黒い鱗が、俺の青白い光と幾重にも重なり、螺旋を描きながら大鉈の深部へと潜り込んでいく。
「いける……あと、もう少しで――!」
手応えはあった。
バラバラだった四座の力が、カラスの執念によって一つに束ねられようとしていた、その時。
ギィィ……と、耳障りな金属の悲鳴が結界の中に響いた。
「な……!?」
俺の目が見たのは、完成へと向かう術式の輝きではなかった。
内側から膨れ上がった過剰なまでのエネルギーに耐えきれず、黒鋼の刀身に、修復不可能なほど深い亀裂が走る光景だった。
パキィィン! と、心臓を撃ち抜くような高い音が鳴り響く。
次の瞬間、新品だったはずの大鉈は、その役目を果たす前に、まるで内側から爆発したかのように、音を立てて崩れ落ちた。




