第十話
「……嘘だろ。そんな、馬鹿な」
カラスが呟くように声を出す。
カラスの手から力が抜け、崩れ落ちた大鉈の破片が乾いた音を立てて地面に散らばった。
銀の羽も、赤黒い鱗も、ただの燃えカスとなって風に舞う。なけなしの高級触媒を使い切り、彼女が持てる技術のすべてを注ぎ込んだ結果が、この無残な鉄の塊だった。
「私の……私の術式が、耐えられなかった……? 完璧だったはずだ。計算は合っていた。なのに、なぜ……!」
仮面の奥で、カラスの瞳が絶望に揺れている。結界の向こうでは、魔物たちの爪が飴色の壁を削り、不気味な亀裂が刻一刻と広がっていた。
「まだだ! まだ諦めるな、カラス!」
「諦めるなだと!? 笑わせるな! 器を失い、触媒を失ったんだぞ! もう打つ手なんて――」
「俺の魔力はまだある!」
俺は彼女の肩を掴み、無理やり視線を合わせさせた。
「ありったけを、全部使い切っていい。俺の魔力を、あんたが好きなように加工して、何とかできないか!? 呪術の理屈なんて分からないけど、俺の中に流れるこの熱は、まだ死んじゃいないんだ!」
「……馬鹿を言うな。お前の魔力を流し込む先が、もうどこにもないと言っているんだ……もう一つの大鉈は、すでに呪術が定着させてある。今からは使えない」
カラスは力なく首を振った。だが、俺の必死な訴えを聞いているうちに、彼女の思考が、ある一点で止まった。
(……待て。私は何を考えていた? 自分の武器を強化し、自分が戦うことを前提に術式を組んでいたから、器が耐えられなかったのか……?)
カラスの脳裏に、昨日の光景が蘇る。
あの時、彼女はアルフの投擲短剣に、彼の魔力だけを流用して付与を行った。彼女自身が戦うことを放棄し、純粋な「導き手」として、アルフの魔力を最適化したあの瞬間の手応え。
(私自身の呪力で戦うのではなく、私が『呪い』そのものとなって、この坊っちゃんの『光』を限界まで研ぎ澄ませたら……?)
それは、呪術士としてのプライドを捨て、自分をただの触媒に貶める行為に等しい。だが、アルフの「豊穣神の増殖」と「審判神の規律」を、彼女の「月神の静寂」で包み込み、一つの針へと収束させることができたなら。
カラスの震えが止まった。
足元に転がる無残な鉄屑を捨て置き、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「……坊っちゃん。お前、本当に命を預ける覚悟はできているんだろうな?全ての敵意は私に向いている。お前だけなら逃げ切れる可能性があるんだぞ」
カラスの問いに、俺は一瞬だけ沈黙した。
結界を叩く魔物の地響き、目の前で崩れ落ちた大鉈、そしてカラスの瞳に映る覚悟の光。すべてを飲み込んだ上で、俺は不敵に笑って返した。
「はっ……もちろん全てカラスに乗るさ。今更だろう」
「いい返事だ。お前にすべてを賭ける策がある。……その腰にある小剣に、お前の全魔力を、限界を超えて上乗せする。それも、ただ流し込むんじゃない。私が『私自身』を触媒にして、その力を一点の曇りもない刃へと研ぎ澄ます」
カラスは立ち上がり、ふらつく足取りで俺の懐に踏み込んだ。
「これを行えば、私はしばらく動けなくなる。……いや、それだけじゃ済まないな。だが、どうせ失敗したら一緒に死ぬだけ。背に腹は代えられん」
彼女は自らの身体に指を突き立て、呪文を紡ぎ始めた。それは他者を呪う言葉ではなく、自らの機能を「代償」として捧げ、一時的な神の如き業を得るための、呪術士の禁忌。
「我が左目の光を月神に捧ぐ。代償に、右目に真理を射抜く魔力視を――」
カラスの左目から光が消え、右目が血のように赤く輝き出した。
「我が両脚の筋力を土神に還す。代償に、この指先に精密なる器用さを――」
ガクガクと膝が折れ、彼女は俺の身体に寄りかかる。だが、その指先の動きは、まるで糸を操る芸術家のように滑らかに、空中に呪文を刻み始めた。
「我が命の灯火、その半分を獣神の牙へ。代償に、呪術の精度を極限まで向上させん――」
血を吐きながら、彼女はさらに畳み掛ける。
「我が痛みを忘却へ。代償に、神経の伝達速度を加速させ――」
「我が恐怖を糧に。代償に、お前の魔力との完全な同調を果たす――!」
その姿は、痛々しくも神々しかった。
五感を削り、肉体を切り売りし、彼女はただ一振りの「勝機」を作り上げるための、究極の「部品」へと成り果てていく。
「……ぁ……アルフ」
かすれた、今にも消え入りそうな声で、彼女は初めて俺の名を呼んだ。
もはや自力で立つことすらままならない彼女は、俺の胸ぐらを掴み、その紅く燃える右目で俺を射抜く。
「剣を持ったまま、私に……抱きつけ。お前の中心から……一滴残らず……引き抜いてやる……!」
俺は言われるがまま、腰の小剣を抜き放ち、崩れ落ちる彼女の身体を強く抱きしめた。
密着した胸から、彼女の命を削る激しい鼓動が伝わってくる。
「……あ、ああああああああっ!」
俺の体内の魔力回路が、強引に、だが、かつてないほど精密な手捌きでこじ開けられた。
カラスの指先が小剣の柄に触れた瞬間、俺の全存在が光となって、その小さな刃へと吸い込まれていく――。
俺の胸に預けられたカラスの体は、驚くほど熱く、そして羽毛のように軽かった。
彼女の指先が小剣の柄に触れた瞬間、俺の血管を流れるすべての魔力が、巨大な渦に飲み込まれるようにして一点へと集束し始める。
「……っ、が……あ、あぁぁぁっ!」
心臓が早鐘を打ち、視界が白む。体内の魔力回路が焼き切れるような激痛が走るが、カラスの精密な制御が、その膨大なエネルギーを強引に小剣という「器」の中へ押し込んでいく。
代償を払い、右目に魔力視を宿した彼女には、俺の魔力の奔流が完璧な設計図として見えているのだろう。
彼女の指先が動くたび、小剣の刀身には幾重もの呪文が物理的な刻印となって刻まれ、鈍い光を放ちながら明滅を繰り返した。
もはや、これは単なる武器ではない。
俺の生命力そのものを圧縮し、カラスの執念で研ぎ澄ませた、概念的な破壊の塊だ。手の中に伝わってくる振動は、今にも世界を切り裂こうとする獣の鼓動のように、尋常ではない密度で震えていた。
「……はぁ、……はぁ……。アルフ、聞け……」
耳元で、カラスの掠れた声が響く。彼女の体温は急速に奪われ、俺の腕の中で氷のように冷たくなっていく。
「使えるのは……私が制御できるのは、たった一振りだけだ……。それを放てば、この剣に込めた力も、私の魔力も……すべてが尽きる……。一撃で、すべてを……決めろ……」
「……分かってる。あんたの覚悟、無駄にはしない」
結界の限界を告げる、高く鋭い破砕音が響いた。
飴色の壁に走った亀裂から、魔物たちのどす黒い殺意が溢れ出し、次の瞬間、俺たちを囲んでいたドームが光の塵となって弾け飛ぶ。
「いけぇっ、アルフ――!」
カラスの魂を削った叫びが背中を押した。
俺は彼女を左腕で抱き寄せたまま、右手の小剣を水平に構え、極限まで圧縮された魔力を一気に解放する。
「おおおおおおおっ!」
俺を中心に、銀色の月光と赤黒い飢餓の炎が混ざり合った、巨大な円環の閃光が爆発した。
それは剣を振るうというより、世界そのものを一閃の「法」で裁くような、圧倒的な暴力。
周囲を埋め尽くしていた岩地栗鼠の群れは、悲鳴を上げる暇さえなかった。
閃光が触れた刹那、彼らの頑強な岩の皮膚は紙細工のように切り裂かれ、その巨体は例外なく塵へと変えられていく。
一閃。
ただそれだけで、林を埋め尽くしていた絶望的なまでの包囲網が、完璧な円形に消滅した。
閃光が止み、巻き上がった土煙が静かに沈下していく。
あれほど周囲を埋め尽くしていた魔物の気配は、いまや一欠片も残っていない。ただ、円状に切り払われた無残な倒木と、静寂だけがそこにあった。
「……はぁ、……はぁ……っ」
アルフは膝をつき、激しく肩で息を吐いた。全身の血管が沸騰したかのような熱を持ち、魔力を根こそぎ奪われた喪失感で意識が遠のきそうになる。だが、腕の中に伝わる重みが、彼をこの世界に繋ぎ止めていた。
「カラス……おい、しっかりしろ……!」
見やるカラスの姿は、あまりにも痛々しかった。
代償を捧げた左目は濁り、紅く輝いていた右目もいまや力なく閉じられている。呼吸は浅く、吐き出す息は白く凍りついているかのようだ。アルフの目には、彼女の魂が指先からこぼれ落ちていく死の予兆が、はっきりと感じ取れた。
「……ふっ、……上出来だ……。坊っちゃん……」
カラスの唇が、微かに、震えるように動く。
「喋るな。今、連れて帰ってやるからな……!」
アルフは軋む身体に鞭を打ち、彼女を横抱きに抱え上げた。一歩踏み出すごとに、身体中の神経が悲鳴を上げる。それでも彼は前を向き、血の匂いが漂う林の奥へと歩き出した。
「……待て……坊っちゃん……」
「なんだ、大人しくしてろ!」
「……魔石……。奴らの……魔石を、回収して……おけ……。あれだけの数だ、……いい、金に、なる……」
消え入りそうな声で、彼女は呪術士らしい、あまりにも現実的な「利益」を口にした。
「……そんな場合かよ! 金なんてどうでもいい、今はあんたの命が最優先だ!」
アルフの怒声に近い叫びが静寂を震わせる。
カラスはもう、それに応える力も残っていないのか、力なくアルフの胸に顔を埋めた。彼女の指先が、彼の法衣を弱々しく掴む。
「絶対に死ぬんじゃないぞ、カラス。あんたには、まだ聞きたいことが山ほどあるんだ。……置いていくなんて、絶対に許さないからな」
一歩、また一歩。
アルフは自らの生命力を振り絞り、街の灯りを目指して歩き続ける。
その背後には、かつて絶望が支配していたはずの、しかし今は静まり返った森が、ただ広がっていた。




