第十一話
深夜の静寂に包まれた街の門を、アルフはボロボロの体で潜り抜けた。
腕の中にあるカラスの体温は、今にも消え入りそうなほど冷たくなっている。
「……誰か! 医者か、腕の良い回復術士を呼んでくれ! 急ぎなんだ!」
アルフの叫びに、宿直の衛兵たちが慌てて駆け寄ってくる。
すぐにギルド直営の病院へと運び込まれたカラスは処置室へと消え、アルフはその重い扉の前で、ただ血に汚れた自分の両手を見つめていた。
数時間後、ようやく出てきた老医師が、深くため息をつきながら告げた。
「命に別状はない。だが、五感や筋力を『代償』に捧げる呪術をこれほど連発するとはな……。まあ、時間と共に支払った対価が戻ってくれば、自然と治るだろう」
翌朝。個室のベッドで、カラスがようやく目を覚ました。
顔を覆っていたあの禍々しい『夜鴉神の仮面』は外され、サイドテーブルの上に無造作に置かれている。
アルフが部屋に入ると、カラスは顔を音のする方へ向けた。
「……坊っちゃん、か」
「ああ、俺だ。……気分はどうだ?」
「最悪だ。足は全く動かせんし、左目は光がぼやけて何も見えない」
仮面を外した彼女の素顔は、アルフの想像を遥かに超えていた。
呪術士としての威圧感が消えたその顔は、整った鼻筋に、少しだけ震える薄い唇……自分とそれほど年の離れていない女性としての瑞々しさを湛えていた。
「……思ったより若かったんだな。俺と同じくらいか?」
「……これだから素顔を晒すのは嫌いなんだ。すぐにお前のような若造に甘く見られる。一緒にするな。私は22歳だ。お前よりずっと長く、死の淵を歩いてきたんだぞ」
「22歳……。そうか、仮面をつけてた時は、もっとこう……おばさんだと思ってた」
「……治ったら、真っ先に呪い殺してやる」
カラスが頬を微かに赤くして毒づく。その仕草は、戦場での狂気が嘘のように年相応の女性に見え、アルフは直視できずに視線を逸らした。
「……なあ。あと、その『坊っちゃん』って呼び方も止めてくれ。あんたの命、預かったんだ。……対等でいたい」
アルフが真剣な面持ちで告げると、カラスは一瞬、呆気に取られたように口を半端に開けた。
やがて、彼女は自嘲気味に、だがどこか柔らかく微笑む。
「……ああ、そうだな。悪かった。……これからは、そう呼ぶことにしよう」
カラスは視界がぼやけているはずの右目で、真っ直ぐに彼の方を向いた。
「……アルフ。……水だ。水を飲ませてくれ」
名前を呼ばれたその響きに心臓が跳ねるのを隠しながら、アルフは震える手でコップを掴んだ。
動けない彼女の体を支え、ゆっくりと唇に水を運ぶ。
指先がかすかに触れ、カラスの吐息が首筋にかかる。死線を越えた二人の間に、以前とは違う、熱を帯びた沈黙が流れ始めていた。
深夜の騒動から一夜明け、ギルド病院の病室には、窓から差し込む柔らかな陽光とは対照的な、居心地の悪い沈黙が流れていた。
アルフは甲斐甲斐しくカラスの身の回りの世話を焼いていたが、当の本人は借りてきた猫のように大人しくなっている。かつての傲岸不遜な呪術士の面影はなく、動けない自分を晒している屈辱に耐えているようだった。
そこへ、部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。
「失礼します……。昨日の、お礼に伺いました」
入ってきたのは、昨夜アルフとカラスが命懸けで逃がした、あの若手冒険者の三人組だった。
「俺は、戦士のガッツです。こっちは魔術師のリンと、盗賊のテオ。……昨日は、本当にありがとうございました!」
ガッツと呼ばれた大柄な少年が、深々と頭を下げる。リンとテオも、まだ恐怖が抜けきらない顔ながらも、懸命に感謝の言葉を口にした。
だが、ベッドに横たわるカラスの反応は、お世辞にも優しいものとは言えなかった。
「……ふん、礼だと? 寝言は寝て言え。お前たちが間抜けなせいで、私の大事な獲物は折れ、なけなしの高級触媒も尽きたんだぞ。本当に、救いようのない大馬鹿者共だ」
寝込んでいるとは思えないほど、口だけは達者だった。カラスは視界の利かないはずの顔を彼らに向け、毒を吐き続ける。
「おまけに、あれだけの群れを仕留めておきながら、魔石の回収すらできずに帰ってくるはめになるとはな。……どれだけの損失が出たと思っている? 働いて返せ、この穀潰し共が!」
カラスの容赦ない罵倒に、若手三人は縮み上がり、「すみません……!」「申し訳ありません!」と何度も謝りながら、逃げるように病室を後にしようとした。
だが、彼らが扉に手をかけ、部屋を出ようとしたその刹那。
「……おい」
カラスのかすれた、だが静かな声が響いた。
三人が足を止め、恐る恐る振り返る。カラスは窓の方を向き、口元にわずかな笑みを浮かべながら、ぼそりと呟いた。
「……生きてて良かったな、お前ら」
その瞬間、彼女が見せた表情は、毒付いていた時とは別人のように穏やかで、慈愛に満ちたものだった。
「……えっ?」
「さっさと行け! 顔を見るだけで腹が立つ!」
再び怒鳴られた三人は、呆気に取られながらも、どこか晴れやかな顔で今度こそ退室していった。
その「奇跡」のような微笑みを見たのは、彼女のそばで水を差し出そうとしていたアルフだけだった。アルフはコップを持ったまま、彼女の横顔をまじまじと見つめてしまう。
(……なんだよ。あんな顔、できるんじゃないか)
仮面の下に隠されていたのは、鋭いトゲの奥に秘められた、不器用すぎるほどの優しさ。
アルフの胸の鼓動は、またしても制御不能なほど速くなっていた。
翌朝、アルフがカラスの体を拭いてやろうと準備をしていると、病室の扉が昨日よりもずっと威勢よく叩かれた。
「失礼します! アルフさん、カラスさん!」
入ってきたのは、ガッツ、リン、テオの三人組だ。彼らの手には、昨日とは比べものにならないほどずっしりと重そうな革袋がいくつか握られていた。
「なんだ、またお前たちか。……騒々しいぞ」
「すみません! でも、これを見てほしくて!」
ガッツが興奮を抑えきれない様子で、サイドテーブルに革袋を置いた。チャリン、という硬貨同士がぶつかる重厚な音が、静かな病室に響き渡る。
「……ほう?」
カラスの耳が、獲物を見つけた獣のようにピクリと動いた。
「実は昨日、俺たちが街に戻った後、ベテランの先輩たちに事情を話したんです。そしたら『若いのが命懸けで戦った戦利品を放置するな』って協力してくれて……。今朝一番で現場に戻って、魔石を全部回収してきたんですよ!」
テオが自慢げに胸を張る。
「ギルドの受付にも必死で説明しました。あれはアルフさんとカラスさんの戦果だって。おかげで、正式に二人の討伐実績として受理されて、報奨金も全額出ることになりました!」
カラスは手を伸ばして革袋の一つを掴み上げた。その重さを確かめるように数回上下させると、中身をぶちまけんばかりに袋を振り、硬貨の音を「鑑賞」し始める。
「……ふむ。この音、この重み……。悪くない、いや、非常に良い! よくやった、お前たち! 昨日言った『穀潰し』という言葉は撤回してやろう。お前たちは、失敗を次に活かせる実に見所のある有望な若手だ!」
さっきまでの毒舌はどこへやら、カラスは満面の笑みを浮かべて彼らを称賛した。その現金すぎる手のひら返しに、アルフは呆れて溜息をつく。
「……おいカラス、現金すぎるだろ」
「うるさい。軍資金はあればあるほどいいんだ。いいか、アルフ。まず、折れた大鉈の買い替えだ。今度はもっと呪力の伝導率が良い特注品にする。それから、失った高級触媒の補充……。残った金は、私の療養中の食費だ。栄養のある肉を山ほど買え。いいな!」
指を折って今後の金勘定を始めたカラスの姿は、もはや病人には見えなかった。
そんな彼女を眺めながら、アルフは苦笑しつつも、彼女にこれだけの活気が戻ったことに、心の底から安堵していた。




