第十二話
カラスを宿のベッドに落ち着かせ、彼女が満足そうに肉を頬張るのを見届けてから、アルフは一人、冒険者ギルドへと足を運んだ。
当面の生活費やカラスの新しい大鉈の費用を考えれば、少しでも稼いでおきたかったからだ。
「……あ、アルフさん。無事だったんですね」
受付に立っていたのは、冒険者登録をした時から変わらない、どこかクールで事務的な雰囲気の女性職員だった。彼女はアルフの姿を認めると、わずかに目を見開いてから、手元の資料を捲った。
「……あの岩地栗鼠の群れを退けたと、ガッツ君たちから報告が入っています。彼らは、あなたがたがいなければ全滅していたと」
「まあ、なんとか。……それで、何か手近な依頼はないかな」
アルフが尋ねると、彼女は少し考え込むように指先を顎に添えた。
「その前に一つ。アルフさん、あなたは今回の功績で、既にDランクへの昇格試験を受ける資格を得ています。本来ならもう少し段階を踏むべきですが、あなたの実力は既に平均的な新人の域を越えているようですから」
「Dランク? 意外と早いんだな」
「当然です。ロックスクイレルは単独でもCランク相当。あの数の群れともなれば、本来はBランクパーティーが対処する案件です。それを二人で、しかも死者を出さずに退けたのですから、ギルド内でも話題になっていますよ」
「……あの、ちなみに聞きたいんだけど。俺たちが遭遇したあの異常な群れ――森の異変って、結局どうなったんだ?」
アルフの問いに、受付の女性は少し表情を曇らせ、声を潜めた。
「それについてですが、現在はギルド唯一のA級パーティーが直接森に入り、奥部の調査を進めています。彼らが睨みを利かせてくれているおかげで、周辺の魔物の動きはかなり落ち着きました。それに加えて、他の冒険者たちも総動員で間引きと警戒にあたっていますから、ひとまずは小康状態と言っていいでしょう。しばらくはあの規模の群れが溢れ出す心配はありませんよ」
「そうか……A級パーティーが。なら、ひとまずは安心だな」
受付の言葉に、アルフは改めて自分たちが生き残った奇跡を実感した。同時に、あの時カラスがどれほどの無理をして力を引き出したのかを思い知り、胸が締め付けられる。
「……昇格試験、受けてみますか?」
「いや。試験の内容は?」
「近隣の森での三日間の定点観測、または指定された魔物の討伐です。移動を含めれば最低でも四、五日は拘束されることになりますね」
四、五日。今、そんなに長くカラスのそばを離れるわけにはいかない。彼女はまだ、食事の用意すら自分ではままならないのだ。
「悪いけど、昇格試験はまた今度にするよ。今は……そうだな、今日中に終わる簡単な依頼がいい」
「そうですか。相棒の方の看病、大変そうですね」
受付の女性が、少しだけ口角を上げて、からかうように言った。アルフは「別にそういうんじゃ……」と口ごもりながら、掲示板から一枚の依頼票を引き抜いた。
「これにするよ。街の裏手にある薬草の採取だ。これなら夕方には戻って、カラスに飯を作ってやれる」
「了解しました。……無理はしないでくださいね、アルフさん」
背後で受付の女性が小さく笑うのを感じながら、アルフは足早にギルドを後にした。カラスがまた「肉が足りない」と騒ぎ出す前に、少しでも稼いで戻らなければならない。
薬草の採取依頼を予定通りに片付け、アルフは夕暮れ前にカラスの待つ宿へと戻った。
「ただいま。ほら、約束の肉だ」
アルフが買ってきた食材を掲げると、ベッドに座って退屈そうにしていたカラスの目が微かに輝く。
「……遅い。空腹で腹と背中がくっつくところだったぞ、アルフ」
「悪かったよ。これでも急いで終わらせてきたんだ」
アルフは手際よく厨房を借り、カラスの分と自分の分の夕飯を用意する。ここ数日、彼は当たり前のように彼女の世話を焼いている。食事の補助、冷え込む夜の毛布の調整、そして他愛のない世間話。
「今日の依頼はどうだった?」
肉を咀嚼しながら、カラスが尋ねる。
「ああ、ただの薬草採取だよ。ギルドの受付にはDランクへの昇格試験を勧められたけど、断っておいた。数日も拘束されたら、あんたの飯を作る奴がいなくなるだろ?」
「……ふん。お前がいない間くらい、私一人でどうとでもした」
「はいはい。さっき『空腹で死ぬ』とか言ってたのはどこのどいつだよ」
アルフが冗談めかして笑うと、カラスは何かを言いかけ、そのまま口を閉ざした。その視線はアルフを追っているようで、どこか別の場所を見ているようでもある。
「……なんだよ、まだ肉が足りないか?」
「……違う。そうではない」
カラスは短く答え、再び手元の食事に集中した。
そんなやり取りが、夜が更けるまで何度か繰り返された。窓の外で夜鳥が鳴き、街の喧騒が静まり返った頃。アルフが後片付けを終えて「じゃあ、俺は隣の部屋に戻るよ」と腰を上げた。
「……アルフ」
呼び止められ、アルフが振り返る。
カラスは枕元に置かれた『夜鴉神の仮面』を、指先で所在なさげになぞっていた。
「どうした? どこか痛むのか?」
「……いや。そうではない。ただ……」
彼女は珍しく言葉を濁し、視線を泳がせた。月光が差し込む部屋で、素顔のカラスはいつもの傲岸不遜な態度をどこかに置き忘れたような、年相応の危うさを湛えている。
「……体が、完全に治ったらでいい。……その後の話だ」
「ああ、聞いてるよ」
アルフが足を止めて向き合うと、カラスは意を決したように、俯き加減で言葉を紡ぎ出した。
「……お前さえ良ければ、だが。……私と、組まないか?」
「え?」
「臨時じゃない。……正式なパーティーとして、だ」
カラスはそこまで一気に言うと、恥じらいを隠すように、まだ少し赤みの残る頬を背けた。
「……お前の『ディケ(規律)』は、私の『ヨルナ(安らぎ)』と、そう悪くない相性だったからな。……一人で泥を歩くよりは、お前のような坊っちゃんを鍛えながら歩くのも、悪くないと思っただけだ」
アルフは一瞬、呆気に取られた。だが、彼女のその言葉が、不器用な彼女なりの最大級の信頼の証であることを理解すると、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ。相棒」
「……ふん。……さっさと寝ろ、アルフ。明日はもっと早く肉を買ってこい」
ぶっきらぼうに投げかけられた言葉の裏で、カラスが嬉しそうに口角を上げたのを、アルフは見逃さなかった。
隣室から聞こえるかすかな衣擦れの音を壁越しに感じながら、アルフは一人、宿のベッドに身を横たえていた。
カラスに指定されたこの宿の部屋は、お世辞にも豪華とは言えなかった。煤けた漆喰の壁には、前の住人が刻んだのか、魔除けのような不格好な紋様が刻まれている。がたつく木製の机と、座ると小さく悲鳴を上げる椅子。そして今アルフが横たわっている、少し湿り気を帯びた硬いベッド。窓の外からは、夜の街特有の湿った風と遠い喧騒が入り込んでくる。
(……パーティ、か)
天井の染みを見つめながら、アルフは今日カラスに言われた言葉を反芻していた。
彼女と組むことに、心情としての異論など微塵もなかった。あの絶望的な状況下で、自らの魂を削るようにして自分に力を託してくれた彼女。仮面を脱いだ彼女が見せた、あの不器用な微笑み。それらを思い出すだけで、胸の奥が騒がしくなる。
だが、期待と同じくらい、重い自問がアルフの頭を離れなかった。
(俺の目標は……あの初代のように、一人前の冒険者として世間に認められることだ)
アルフは自分の両手を見つめた。
かつて名を馳せた一族の始祖のように、己の腕一つで確固たる評価を勝ち取りたい。それが、家を飛び出してきた自分なりの証明だ。もちろん、今さら貴族の地位に戻るつもりはない。ただ、誰に恥じることもない「本物」になりたかった。
(でも、今の俺に何ができる?)
あの戦い、勝てたのはカラスの呪術があったからだ。自分一人の力では、岩地栗鼠の一匹すら満足に仕留められたか怪しい。彼女が22歳という若さで死の淵を歩いてきたと語る一方で、自分はまだ、泥の匂いも知らない16歳のひよっこに過ぎない。
「……彼女の足を引っ張るだけにならないか?」
カラスは正式なパーティになろうと言ってくれた。それは、彼女が戦えない今の自分を支えてほしいという一時的な依存ではなく、これから先、対等な「相棒」として歩もうという誘いだ。
(カラスは強い。でも、危うい。……俺が彼女の『規律』として、本当に彼女を支え続けられるのか。彼女の隣に立つ資格が、今の俺にあるのか……?)
自問自答を繰り返すほどに、覚悟の重さが肌に伝わってくる。
それでも、拒絶するという選択肢は最初から存在しなかった。不安はある。だが、それ以上に「彼女の隣で、相応しい男になりたい」という切実な願いが、アルフの心を強く叩いていた。
「……迷ってても始まらないな。決めたんだ」
アルフは一度深く息を吐き、目を閉じた。
明日からは、ただの介護役ではない。カラスの背中を守り、いつか彼女を追い越すほどの強さを手に入れるための、本当の戦いが始まるのだ。隣の部屋から聞こえる静かな寝息を支えに、アルフは深い眠りへと落ちていった。




