第六話
迷い子たちの森の外縁に足を踏み入れると、空気が一変した。昼間だというのに梢が重なり合い、足元には湿った腐葉土の匂いが立ち込めている。
「……待て。何かおかしい」
カラスが不意に足を止め、低く構えた。彼女の視線の先、森の奥から吹き抜けてくる風が、妙に生温かく、粘りつくような感覚を伴っている。
「おかしい? 採取場所はすぐそこだろう」
「静かすぎる。……鳥や虫の鳴き声が、本来あるべき位置から消えている」
彼女の指摘通り、周囲には不気味な静寂が広がっていた。俺も魔法剣の柄を握り込み、感覚を研ぎ澄ます。すると、前方の茂みが激しく揺れ、大型の異形が猛然と姿を現した。
「――黒牙猪か…なぜこんな外縁に……」
それは本来なら森の深部に生息しているはずの、鋼のような毛並みを持つ巨大な猪だった。狂乱状態にあるのか、こちらを認めるなり凄まじい勢いで突進してくる。
俺が迎撃しようと一歩踏み出した瞬間、横から漆黒の影が躍り出て静止する。
「無駄に魔力を使うな、坊っちゃん。――これで片付く」
カラスがマントの下から、先ほど回収した三振りの短剣を同時に引き抜いた。彼女が指の間に挟んだ三つの刃を、流れるような動作で一斉に放つ。三条の青白い軌跡が空中で収束し、猪の眉間、喉元、そして前足の付け根へと正確に吸い込まれた。
「……ギッ!?」
巨体はまるで見えない巨人に叩き伏せられたように一瞬で崩れ落ち、泥を跳ね上げて止まった。あまりにも鮮やかな同時投擲。俺が絶句していると、彼女は死骸に歩み寄り、刺さった短剣を引き抜いた。
「……ほう。これほど深々と肉を断ち、三本同時に使って……まだこれほどの力が残っているのか」
カラスは手元の刃を眺め、独り言のように、だが隠しきれない驚きを込めて呟いた。
「この連戦で大分弱まったかと思ったが……お前の魔力、底が見えないな。呪術の定着率が異常だ。並の素材なら今の衝撃で砕けているところだぞ」
彼女は短剣を愛おしそうに拭い、再びマントの裏へ収めた。アルフの魔力が宿ることで、単なる消耗品だった投擲武器が、彼女にとって「手放しがたい武装」へと変質しているようだった。
「坊っちゃん、呆けている暇はない。手伝え、魔石を回収する。急ぐぞ」
「あ、ああ。分かった」
俺は手早くボアの胸元を裂き、鈍く光る魔石を抉り出す。作業を終えて顔を上げると、カラスはすでに森の奥を睨みつけていた。
「やはりこの森は変だ。深部の魔物がこうも外に押し出されているとなると、奥で何かが起きている。……おい、青星草をさっさと回収するぞ」
俺たちは足早に目的の群生地へと向かった。
幸い、青星草は木漏れ日が差し込む岩陰に、ひっそりと、だが鮮やかな青い花を咲かせていた。
依頼を受けるときに教わった通り、根を傷つけないよう慎重に採取鎌を入れ、五束の薬草を手際よく袋に収める。カラスが周囲を警戒し、俺が作業に集中できたおかげで、ものの数分で完了した。
「採取完了だ。……戻るか」
「ああ、早急にギルドへ報告を上げる必要がある。……走るぞ、坊っちゃん。この森に長居は禁物だ」
俺たちは袋を背負い、不穏な静寂に包まれた森を後にした。
背後から、森の深部がざわめくような、低い地鳴りのような音が聞こえた気がして、俺は一度も振り返ることなく、カラスの背中を追って街道へと駆け出した。
北門をくぐり、グランゼリスの活気ある喧騒が聞こえてくるまで、俺たちは街道を早足で駆け抜けた。緊張の糸がわずかに緩んだところで、俺は隣を歩くカラスに、ずっと気になっていたことを問いかけた。
「……カラス。さっき言っていた『呪術の定着率』のことだが、俺の魔力に何か特殊な適性でもあるのか?」
カラスは仮面の奥で視線をこちらに向け、淡々と語り始めた。
「呪術士の間では、人の魔力はその者の生まれ、思想、そして生き様によって色づくとされている。肉体そのものが、ある種の『神からの加護』を宿す器として変質していくんだ」
「生まれと思想、か。……あまり考えたことはなかったな」
「お前の魔力は、ただ量が多いだけじゃない。他者の呪いを受け入れ、それを自身の光で補強するような、奇妙なほど柔軟で強固な性質を持っている。……魔法剣という術式は、確かにお前の本質に合っているんだろうな。真っ直ぐすぎて危ういくらいだが」
彼女の言葉には、どこか専門家としての考察に近い響きがあった。ただの冒険者にしては、呪術の深淵に触れすぎているような気もする。
「……ところで、坊っちゃん。お前は『神』という存在について、どこまで知っている?」
不意に投げかけられた問いに、俺は少し面食らった。
「……神、か。まあ、御伽話の類なら人並みには知っているつもりだ。八座の大神のことだろ?」
俺は記憶の隅にある神話をたぐり寄せながら、適当に並べ立てた。
「ええと、確か炎神ヴォルカと水神セドナは、互いに惹かれ合いすぎて近づきすぎた結果、世界が蒸気にまみれた……なんて話があったな。あとは……土神、風神、月神、それに獣の神が……パトラ、だったか? 正直、その辺りは曖昧だ。他にも、それぞれの土地に小神がたくさんいるんだろ。何万もいるなんて説もあるくらいだしな」
俺のあやふやな知識に、カラスは仮面の奥で小さく、だが確かな苦笑を漏らした。
「……あぁ。世界が蒸気にまみれた、か。かなりいい加減だが、まあ合ってるよ。お前のような坊っちゃんにはそれくらいが丁度いいのかもしれん」
彼女は呆れたように首を振ったが、その声には先ほどまでの険しさはなかった。
「小神、か。確かに八座の他にも、名もなき神格や呪いの対象となる概念は無数にある。だが、お前が今口にしたヴォルカやセドナといった神々の名は、この世界の『元』を形作る強固な柱だ。たとえ物語として語られていようと、その力の残滓はお前の魔力の中にも、そしてあの大ボアの肉体にも、等しく流れている」
「……あんたが言うと、ただの昔話も妙に現実味を帯びて聞こえるな。あまり深入りすると、俺の頭まで呪術士並みに偏屈になりそうだ」
「そうなる前に、まずはギルドに報告だ。理屈をこねるのは、安全な壁の中で酒でも飲んでからにしろ」
カラスはそう言いながらも、歩みを緩めて俺の横に並んだ。
「……だが、坊っちゃん。お前の使うその『魔法剣』には、はっきりと二つの神格の影が見える。豊穣神と審判神だ。単なる術式以上の深い結びつきを感じる」
「デメテルとディケ……。さっきの詠唱に出てきた八座の神か」
「そうだ。魔法剣の、あの溢れ出すような膨大な光の出力はデメテルの『豊穣』――つまり際限なき増殖と生命力の顕現だ。そして、その奔放な光を鋭利な刃の形に留め、万物を断つ秩序を与えているのがディケの『審判』の力だよ。この二座の性質が絶妙な均衡で混ざり合っている。恐らく血筋によるところが大きいんだろう」
カラスは俺の横顔を、値踏みするようにじっと見つめた。
「……面白いことに、お前自身にも同じ二座の性質が深く宿っているようだ。魔力は嘘をつかないからな。デメテルは慈愛に満ちているが、その恵みを踏みにじる者には一切の容赦をしない激しさを秘める。ディケは極めて潔癖で、一寸の歪みも許さず断罪する冷徹なまでの正義を司る。お前の魔力の混ざり方を見ているとな、そのどちらの性質も、お前の中に危ういバランスで同居して――」
「……そうか。なんだか、すごいな」
俺は引きつった笑みを浮かべながら、一歩引くように答えた。
自身の性質に関わる内容なので興味が無いわけではないのだが、あまりに専門的で熱のこもった分析に、正直なところついていけなかったのだ。没落したとはいえ貴族の端くれだった俺だが、神々の性格なんてものは、聖歌隊が歌う歌詞のバリエーションくらいにしか思っていなかった。
「……おっと」
俺の顔を見て、カラスが言葉を止めた。
漆黒の仮面がわずかに揺れ、彼女の熱がふっと引くのが分かった。
「……すまない。つい語りすぎたな。お前には退屈させるだけだった」
彼女はそれ以上の忠告も皮肉も口にせず、独り言のように呟いて会話を打ち切ってしまった。
その様子は、自分の大好きな趣味を熱心に話しすぎてしまい、相手の反応を見て急に我に返った時のような……どこか決まりの悪そうな気配があった。
そんな彼女を見て、俺は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
仮面越しに漏れていたあの嬉しさは、きっと彼女にとって本物だったのだろう。
「あー……いや、その。もし、またそういう話が聞きたくなったら、俺の方から言うよ。あんたの話は……その、興味深かったから」
精一杯のフォローを口にすると、カラスは小さく「ふん」と鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。……行くぞ、さっさと報告を済ませて、お前の報酬を受け取らせてやる」
彼女は背筋を伸ばし、いつもの冷徹な足取りでギルドの重い扉を押し開けた。
活気と酒の匂いが俺たちを包み込む。
俺はその後ろ姿を追いながら、先ほど彼女が見せた、呪術に対する一途な情熱の残滓を、なんとなく眩しく感じていた。




