第三話
「アルフレッド様、こちらが昇格依頼の書面になります。内容をよくご確認ください」
受付嬢がカウンターに置いたのは、これまでの薄汚れた羊皮紙とは一線を画す、ギルドの公印が押された正式な依頼書だった。
「FランクからEランクへの昇格は、いわば『新人』から、ようやく『冒険者の卵』として認められるための第一歩です。そのため、今回は都市の外壁を一歩出て、魔物が生息する野外での実戦能力を証明していただきます。……準備はよろしいですか?」
「ああ。ようやく外に出られるんだ、断る理由はない」
俺は差し出された依頼書を手に取り、その内容を注視した。
【Eランク昇格依頼:街道沿いの脅威排除】
討伐対象: 角兎
達成条件: 角兎3体の討伐、およびその角の納品。
詳細: 額に鋭い一本角を持つ野ウサギの魔物。非常に俊敏で、その突進は人間の革鎧をも容易に貫通する。平原の草むらに潜み、不意を突く攻撃を得意とするため、反射神経と正確な一撃が求められる。
回収対象: 討伐の証明となる「額の角」および「魔石」。
特記事項: 角兎の肉は食用として価値があるため、状態が良ければ別途ギルド併設の酒場にて買い取りが可能。
指定区域: 都市北門より徒歩30分、北平原・旧街道周辺。
(角兎か。下水道のネズミよりは骨がありそうだな……)
依頼書を読み進めるうちに、自然と口角が上がるのを感じた。
下水道のネズミは、いわば動く標的を斬るだけの作業に近かった。だが、今度の相手は「回避」と「不意打ち」を仕掛けてくる。それこそが、俺が魔法剣で培ってきた「間合いの支配」を試す絶好の機会だ。
それに、何より「外」だ。
淀んだ空気と悪臭に満ちた地下道ではなく、太陽の下で剣を振るえる。それだけで、俺のやる気は昨日までの数倍に跳ね上がっていた。
「……角兎は足が速いです。魔法剣のリーチを過信して懐に入られれば、16歳の体に穴が開くことになりますよ。これまでのネズミ相手と同じだと思わないことです」
受付嬢が、いつものように釘を刺してくる。だが、その言葉も今の俺には心地よい緊張感として響いた。
「忠告、感謝するよ。……まあ、穴が開くのは俺じゃなくて、ウサギの方だと思うがな」
俺は依頼書を力強く折り畳むと、懐に仕舞い込んだ。
腰の小剣が、心なしか俺の意思に呼応して熱を帯びている気がした。
「よし。さっさと昇格を決めてくるとしよう」
俺は受付嬢に短く告げると、一度も後ろを振り返ることなく、都市の北門へと向かって歩き出した。
空を見上げると、太陽はまだ天頂に近い位置にあった。
午前中のうちに汚泥鼠のノルマを片付け、そのまま報告と昇格依頼の受理まで済ませたおかげで、時間に余裕があるのは幸いだった。
(今から向かえば、日が高いうちに平原に着けるな……)
俺は宿に立ち寄って下水の臭いがついた上着を脱ぎ捨て、予備の旅装に着替えると、そのまま都市の北門へと向かった。
重厚な石造りの門を抜けた瞬間、全身を吹き抜けた風が、鼻にこびりついていたドブの臭いを一気に連れ去っていった。
視界に広がるのは、見渡す限りの緑と、遠くに霞む山脈。そして、どこまでも高い青空。
「……あいつの言う通り、空気は最高だな」
ギルドの受付嬢の皮肉を思い出し、俺は苦笑した。
下水道の暗がりに慣れていた目には、太陽の光が少し眩しい。だが、この開放感こそが、俺が「家」という檻を捨ててまで手に入れたかったものの一つだ。
街道を外れ、依頼書にあった指定区域の平原へと足を踏み入れる。腰の高さまである草が風に揺れ、ザワザワと波のような音を立てていた。
(さて……どこに潜んでいる?)
俺は歩みを緩め、周囲の気配に集中した。
一見すると穏やかな風景だが、この草むらのどこかに、人間の革鎧を貫く角を持った角兎がいるはずだ。
不意に、左前方の草が不自然に揺れた。
――キィィィッ!
甲高い鳴き声と共に、灰色の影が弾丸のような速度で飛び出してきた。
その額には、白く鋭利な一本の角が、太陽の光を反射してぎらりと輝いている。
(ネズミに比べればずいぶん速いが……)
俺は冷静に一歩下がり、迎撃の態勢を取る。
右手に握った小剣に、最短経路で魔力を流し込んだ。
「展開――魔法剣」
振り抜く軌道に合わせ、白銀の閃光が走る。
弾丸のごとく突っ込んできた角兎の角が、先ほどまで自分がいた位置に突っ込んでいくが、最短の予備動作から放たれた白銀の光刃が、空中で回避不能な一閃となってウサギの胴体を捉える。
――パシュッ、という軽い音。
抵抗らしい抵抗もなく、光の刃はウサギを文字通り真っ二つに両断した。
地面に落ちた死骸から、魔力が霧散するように光が消えていく。
「……まずは1体か。やはりネズミとは速度が違うな」
俺は剣を納め、息を整える。
下水道のネズミは、いわば止まったマトを斬るようなものだったが、このウサギは明確な殺意を持ってこちらを「狙って」くる。一瞬でも判断が遅れれば、あの角に腹を貫かれていたかもしれない。
(捉えられない速度じゃない。ヴァランシエル家の剣術が、ただの獣に遅れを取るはずがないんだ)
俺は小刀を抜き、手際よく討伐の証明である角を根元から切り出した。ついでに魔石を回収し、依頼書にあった「食用肉」としての処理も試みる。内臓を傷つけないように解体するのは手間だが、これが追加の報酬になると思えば苦ではない。
(あと2体……いや、どうせならもう少し稼いでいくか)
日はまだ高い。
俺は再び草むらの中へと意識を向けた。
今度は向こうから来るのを待つのではなく、こちらから気配を探る。
すると、右後方、わずかな土の匂いと共に、2匹の気配が同時に動いた。
「同時か。……いい訓練になる」
俺は今の位置から横に滑るように振り返り、魔法剣を薙ぎ払った。
綺麗に捉えた一閃が、2匹を同時に空中で断つ。
無駄のない動き。過不足のない魔力供給。
実戦を重ねるごとに、俺の中で魔法剣という技術が、体の一部として馴染んでいくのが分かった。
結局、その日の夕暮れ時までに、俺は合計で10体の角兎を仕留めた。
カバンの中には、戦利品の角と魔石、そして鮮度の良い肉が詰まっている。
「……よし、これで十分だろう」
茜色に染まり始めた平原を後にし、俺は都市の北門へと向かった。
体は適度に疲れ、衣服には草の匂いが染みついている。下水道の泥にまみれていた昨日とは、比べものにならないほど清々しい気分だった。
「これで俺も、ようやく冒険者の卵か」
門衛に冒険者証を提示し、街の中へ。
夕食の匂いが漂い始めた通りを抜け、俺は意気揚々とギルドの扉を押し開けた。
「……おかえりなさい、アルフレッド様。お怪我はないようですね」
カウンターの向こうで、いつもの受付嬢が俺を待っていた。
「ああ。これ、依頼の品だ。角と魔石、それから状態の良い肉も持ってきた」
俺がカウンターに戦利品を並べると、彼女は一つ一つを丁寧に確認し、満足そうに頷いた。
「角が10本に、魔石も同数。肉の解体も見事です。……文句なしの達成ですね」
彼女は俺の冒険者証を預かると、奥の事務室へ。
数分後、戻ってきた彼女の手には、新しいタグが握られていた。
「おめでとうございます。本日付で、アルフレッド様をEランク冒険者として登録しました。これが新しいギルドタグです」
手渡されたのは、Fランクのくすんだ鉄板とは違う、鈍い銀色に光るタグだった。表面にはアルフレッドの名と共に、『冒険者ギルド、グランゼリス支部』の文字が刻印されている。
「アルフレッド様。これでようやく、あなたも『冒険者の卵』ですね。明日からは、さらに広い世界での依頼があなたを待っています」
「ああ、世話になった。明日からもよろしく頼む」
銀色のタグを指先でなぞる。
没落し、家を出たあの日から数日。俺は今、自分の足で、確かに新しい階梯へと昇ったのだ。
「……早速だが、明日から受けられる依頼についても聞いておきたい。Eランクになると、どんなものが増えるんだ?」
俺の問いに、受付嬢はわずかに口角を上げ、慈しむような、あるいは年少者の成長を喜ぶような微笑を浮かべた。
「そうですね。これまでのような都市内の雑用だけでなく、討伐対象は大幅に増えますよ。あちらの掲示板を見ていただけますか? Eランク用の依頼書がいくつか貼り出されています。条件に合うものを自由に選んでいただいて構いません」
彼女が示した壁には、使い古された羊皮紙が何枚も並んでいた。俺はカウンターを離れ、掲示板の前へと足を運ぶ。そこに並ぶ文字は、どれも「冒険者」としての実感を強く抱かせるものばかりだった。
「……どれどれ」
俺はいくつか、目に留まった依頼を小声で読み上げていく。
「【森狼の群れの間引き】。場所は西の森か……素早いが、角兎に慣れた今なら対応できそうだな。次は……【廃村に住み着いた大脚蜘蛛の討伐】。これは毒の対策が必要か」
さらに読み進めると、より報酬の高いものも目に入った。
【依頼:北街道を荒らす小角鬼の斥候隊の排除】
討伐対象: 小角鬼
詳細: 街道沿いの岩場に潜伏し、通行する馬車や旅人を監視している小規模な群れ。個体としての能力は低いが、粗末な武器を扱い、連携して獲物を囲い込む習性がある。
回収対象: 胸の中央ほどにある魔石
特記事項: 道具を扱う知能があるため、罠や不意打ちに注意。本格的な略奪集団が形成される前の芽を摘むことが目的である。
潜入経路: グランゼリス北門より街道を北上。徒歩約2時間地点にある「蛇行岩」周辺を探索のこと。
「【街道を荒らす小角鬼の斥候隊の排除】。……ふむ、ただの獣ではなく、群れで動き、道具を扱う魔物か」
掲示板に並ぶ依頼の数々は、どれもグランゼリスの街の外、広い世界と繋がっている。下水道のネズミを追っていた昨日までとは、見える景色がまるで違う。
俺は拳を軽く握り、銀色のタグをポケットに仕舞い込んだ。
明日からの戦いに思いを馳せると、魔法剣の核となる胸の奥の魔力が、静かに、だが熱く脈動するのを感じた。
「……今日はいい肉も手に入ったしな。しっかり食って、明日に備えるか」
俺は受付嬢に軽く手を挙げて合図すると、活気に満ちたギルドを後にした。




