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第二話

鉄のハッチをこじ開け、梯子を下りた先には、期待を裏切らない悪臭と湿気が充満していた。

天井の低い通路。足元を流れる濁った水。壁に据え付けられた魔石灯が、頼りなく通路を照らしている。俺は小剣(ショートソード)を抜き放ち、暗がりに目を凝らした。




しばらく進むと、曲がり角の先から「キィ、キィ」と硬い爪が石を掻く音が聞こえてきた。

現れたのは、依頼書通りの汚泥鼠(スライム・ラット)だ。普通のネズミの数倍はあろうかという巨体に、泥と粘液が混じった不気味な毛並み。そいつは俺の姿を認めると、威嚇するように背を丸めた。


「さて……まずは、ヴァランシエル流の挨拶からだな」


俺は深く息を吐き、体内の魔力を練り上げる。

意識を集中し、右腕から握りしめた鉄の芯へと魔力を流し込んでいく。


「展開――魔法剣(フォトン・ブレイド)


一瞬。

装飾のない鉄の小剣(ショートソード)が、眩いばかりの白銀の光に包まれた。光の刃は元の刀身を遥かに越えて伸び、使い慣れた長剣(ロングソード)ほどの長さで固定される。

これが俺の、ヴァランシエル家の技術だ。

ネズミが低く飛びかかってきた。

俺は一歩だけ引いて半身になり、最短距離で光り輝く剣を横になぎ払う。


手応えは、驚くほどに軽かった。

光の刃は汚泥にまみれたネズミの肉を、まるで熱したナイフでバターを断つように、音もなく切り裂いた。

転がった死骸は、すぐに動かなくなる。俺は膝をつき、死骸の中から豆粒ほどの小魔石(しょうませき)を小刀で抉り出した。


(……悪くない。いつもの鍛錬通りの感覚だ)


魔法剣の展開速度、魔力の維持効率。実戦という緊張感の中でも、俺の培ってきた技術は鈍っていなかった。それが確認できただけで、胃の奥にたまっていた不安が消えていく。

二体目。今度は背後から気配があった。

俺は振り返りざまに剣を振るい、その動作の途中で魔力を一気に送り込む。


「はっ!」


空を切る鉄の軌道に、遅れて白銀の光が追い着く。振り切る瞬間には完成していた光の刃が、二体目の喉元を正確に撥ね飛ばした。


「……よし。この流動的な展開も問題ないな」


それからの時間は、淡々とした作業に変わった。

三体、四体。現れるネズミを次々と光の刃で沈めていく。

だが、討伐数が増えるにつれて、別の問題が俺を悩ませ始めた。


「……っ、汚いな」


斬撃とともに飛散した泥と返り血が、新調したばかりの旅装に跳ねる。足元の汚水も、激しく動くたびに裾を汚していく。魔法剣の熱が汚れを多少は焼き切りながら切断してくれるが、俺自身の体までは守ってくれない。


(ただでさえ使い古した服が、さらにドブ臭くなるとは。……いや、文句を言う暇があるなら一匹でも多く狩るべきか。洗濯代だって馬鹿にならないんだからな)


自分に言い聞かせ、俺はさらに下水道の奥へと足を進めた。







結局、俺が地上へ戻ったのは、持ち込んだ袋がずっしりと重くなった頃だった。

回収した魔石は、合計で34個。


「最低ノルマの五倍以上か……。初日の稼ぎとしては、十分すぎる計算だな」


全身から漂う下水の匂いにげんなりしながらも、俺は確かな達成感を噛み締めていた。

右手に残る、魔法剣を振るった際のあの熱い感覚。

家を失った俺の新しい人生は、今、この暗い地下道から確かに始まったのだ。


地上へと這い出し、ハッチを閉めると、汚水と血の混じった臭気が改めて鼻を突いた。通行人がわずかに顔を顰めて俺を避けていくが、今はそれを気にする余裕はない。

俺はギルドへの帰り道、懐の依頼書を思い出しながら、頭の中で「本日の収支報告」を始めた。


(今回の依頼報酬は、ノルマの5体達成で銅貨50枚。そして6体目からの追加報酬が、魔石1個につき銅貨5枚だったな)


この国の貨幣制度は単純だ。下から銅貨(どうか)銀貨(ぎんか)金貨(きんか)の3種類。それぞれ100枚集まれば、一段上の貨幣へと両替される。


(討伐数は34体。ノルマを引いた追加分は29体分か。……29掛ける5で、銅貨145枚。ノルマ報酬の50枚と合わせると、全部で銅貨195枚になる。つまり銀貨1枚と銅貨95枚が今日の報酬だ)


合計して、銀貨約2枚分の稼ぎ。

これを平民の物価に当てはめて考えると、その価値がより鮮明になる。


(街の屋台でそれなりの昼飯を食えば銅貨20枚。俺が今泊まっている、素泊まりの安い宿が一晩で銀貨1枚……つまり銅貨100枚だ。今日のドブさらいだけで、宿代を払っても丸1日は余裕を持って生活できる計算になる)


貴族時代、父上が一度の晩餐会で使い果たしていた金に比べれば、鼻で笑われるような端金かもしれない。だが、これは他ならぬ俺自身が、泥にまみれて稼ぎ出した対価だ。


(宿に戻ったら、まずはこの臭いを落とすための水代が必要だな。……それから、残った金で装備の予備も検討すべきか)


幸い、魔法剣(フォトン・ブレイド)で対象を斬る際、実体としての剣は魔力の刃に守られている。そのため、通常の剣術に比べれば刃こぼれや摩耗の心配はほとんどない。手入れの手間が省けるのは、ソロで活動する俺にとって大きな利点だ。


(まずはこの調子で実績を積み、早期のランクアップを目指す。Fランクのままでは、受けられる依頼の幅が狭すぎるからな)




懐の袋の中でジャラリと鳴る小魔石の音を、俺は軍資金の胎動として聞きながら、ギルドの門を再びくぐった。


ギルド内の喧騒は、俺が街に出た時よりもさらに増していた。

俺はまっすぐ受付へと向かい、依頼を受けたときと同じ女性職員の前で、小魔石が詰まった袋をカウンターに置いた。


汚泥鼠(スライム・ラット)の討伐、完了しました。回収した魔石の納品をお願いします」

「……お戻りですね。ええと、規定数は5体でしたが、ずいぶんと重みがあるようですが……?」


彼女が不審げに袋を開け、中身をトレイにぶちまけた。

転がり出た小魔石の群れを見て、彼女の動きが止まる。


「34個……? いえ、数え間違いでなければ、確かに34個ありますね」

「何か問題でも?」

「いえ。……新人の方が、初日の、しかもソロでの探索でこれだけの数を持ち帰るのは極めて稀です。魔法剣の名門というのは、伊達ではなかったということでしょうか」

彼女は手際よく集計を済ませると、木箱から数枚の硬貨を取り出し、俺の前に並べた。

銀貨1枚と、銅貨95枚。


「こちら、ノルマ分と追加報酬を合わせた本日の報酬です。それから……」


彼女は俺の冒険者証を魔法具にかざし、淡々と続けた。


「討伐実績を記録しました。この納品数、文句なしのペースです。これと同等の討伐をあと一度でもこなしていただければ、すぐにでもEランクへの昇格依頼をお出しできますよ」


並べられた硬貨を一枚ずつ手に取り、自室で用意していた革袋へと収める。

指先に伝わる金属の冷たさと、確かな重み。

ギルドのカウンター越しに手渡されたこの金は、かつて実家で与えられていたどんな宝石よりも、俺の目には輝いて見えた。


「……助かる。明日もまた、依頼を受けに来る」

「お待ちしております、アルフレッド様。……次は、もう少し清潔な状態でお会いできると助かりますが」

「……善処する。下水道に潜った直後なんだから、多少は仕方ないだろう」


俺は内心で、この受付嬢はなかなか毒づいてくるな、と小さく溜息をついた。仕事熱心なのは結構だが、汚れ仕事の結果まで注文をつけられるとは思わなかった。

そんな俺の様子を察したのか、彼女は「ふふっ」と小さく笑うと、思い出したように付け加えた。


「そうでした。ギルドの裏手に解体場があるのですが、その横に井戸があります。本格的な洗濯は無理ですが、泥や返り血を軽く流す程度なら自由に使って構いませんよ」

「……それは助かる。教えてくれて礼を言う」


有益な情報だ。このまま宿に直行して「下水お断り」と門前払いされるリスクは避けたい。

俺は銀貨1枚と銅貨95枚が入った袋をしっかりと握りしめた。

カウンター越しに手渡されたこの金は、かつて実家で与えられていたどんな宝石よりも、俺の目には輝いて見えた。


「明日もまた、依頼を受けに来る」

「お待ちしております。次は……もう少し、爽やかな姿でお会いできることを」


彼女の二度目の皮肉を背中で受け流し、俺はギルドの裏手へと向かった。

鼻をつく下水の臭いは相変わらずだが、心は驚くほど晴れやかだった。

井戸で泥を落とし、街の安宿へと歩き出す。




宿に着いてからの記憶は、疲労と安堵が混じり合ったものだった。

銀貨1枚を支払い、昨夜と同じ硬いベッドに身を沈める。下水の臭いは井戸で流したとはいえ完全には消えず、狭い部屋に微かに漂っていたが、不思議と寝つきは悪くなかった。自分で稼いだ金で得た眠りは、実家の羽毛布団よりも深く俺を包み込んでくれた。


翌朝、俺は再び冒険者ギルドの門をくぐった。


「……おはようございます、アルフレッド様。今日も、ネズミですか?」

「ああ。他の依頼は街の雑用ばかりだからな。俺にはこっちの方が気が楽だ」


受付嬢の問いに頷き、昨日と同じ依頼書を受け取る。Fランクが受けられる武闘系の仕事は、実質的にこれしかない。

下水道に潜るのも二度目となれば、探索の要領も掴めてくる。

暗闇から飛び出す汚泥鼠(スライム・ラット)を、俺は迷いなく魔法剣(フォトン・ブレイド)で両断していった。もはや一対一なら戦闘というよりは、文字通りの「作業」に近い。

昨日よりも奥まで足を伸ばし、魔力が溜まりやすそうな排水の合流地点を狙って、淡々と数を積み重ねる。


「……これで、終わりか」


最後の一匹を仕留め、死骸から魔石を抉り出す。

今日の討伐数は50を超えた。昨日の実績と合わせれば、文句なしの昇格条件を満たしているはずだ。

正直なところ、この下水道の環境にはもう辟易していた。鼻にこびりつく悪臭も、足元を這う不衛生な泥も、一刻も早くおさらばしたい。Eランクに上がれば、少なくとも都市の外――日の光の下で戦える依頼が舞い込むはずだ。


(早くランクを上げて、まともな空気が吸いたいものだな……)


俺は手慣れた手付きで袋いっぱいの魔石をまとめると、期待を胸に地上へと這い出した。

井戸で泥を落とし、身だしなみを整えてからギルドのカウンターへと向かう。昨日の今日だ、受付の彼女も驚くというよりは、半ば呆れたような顔で俺を出迎えた。


「汚泥鼠の魔石、52個だ。納品をお願いしたい」


俺がカウンターに袋を置くと、彼女は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに事務的な笑みを浮かべた。


「52個、確かに。……昨日の分と合わせて合計86個。Fランクの新人としては、規格外のスピードです」

「アルフレッド様。……約束通り、Eランクへの昇格依頼を発行いたします」



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