第一話
曇天の下、俺は住み慣れた石造りの屋敷を一度だけ振り返った。
かつて「帝国に光刃の騎士あり」と謳われた魔法剣の使い手を輩出してきた、我がヴァランシエル家。その伝説は、先祖が戦場での武勲によって騎士爵位を賜ったあの日から始まったという。だが、その栄光の系譜も、今日この時をもって途絶えることになる。
重厚な扉には、既に差し押さえを示す無機質な封蝋がなされていた。
「……結局、最後まで帳尻は合わなかったか」
吐き出した言葉に、不思議と感傷はなかった。
没落の予兆なら、数年前から嫌というほど目にしていたからだ。父の無謀な金策に、実体のない魔導具への過剰投資。冷徹に家の帳簿を眺めてきた俺にとって、この破綻は導き出されるべくして出た、単なる計算結果に過ぎない。
そもそも、三男である俺は、成人した後に爵位を継がず平民へ下りること事前に決まっていた。身分を失うことへの心の準備は、とうに済ませてある。
家宝や魔剣の所有権を巡って見苦しく争う兄たちを尻目に、俺が手荷物に加えたのは、長年鍛錬場で振り抜いてきた一振りの小剣だけだ。
装飾も魔導回路の彫り込みもない、ただの鉄の塊。だが、俺にとってはこれが最も馴染んでいた。
血筋に眠る魔法剣を宿すなら、余計な意匠がない素直な鉄こそが、最も効率よく「光」を伝えることを俺は知っている。
「初代が賜った騎士爵も、今の父上たちにとってはただの『担保』だったわけだ。……皮肉なものだな」
腰の小剣を軽く叩く。
この血筋の始祖は、かつて剣一本で名を馳せ、その武勲によって貴族の地位を勝ち取った一人の冒険者だったという。家系図の端に記されたその逸話は、平和な時代においてはただの昔話に過ぎなかった。
だが、家を救いたい一心で必死に魔法剣を磨いてきた俺にとって、それは今や現実的な道標となっている。個人の武技という小さな力では、傾ききった巨船を立て直すことなど到底不可能だった。ならば、一度すべてを捨てて、始祖と同じ場所から始めてみるのも悪くない。
カバンの中身を頭の中で反芻する。
数日分の干し肉。数着の着替え。そして、没落の混乱の中でなんとか確保した、手元の少ない金。
これらが、これから始まる「冒険者」という第二の人生における、俺の全財産だ。
(ヴァランシエル家の代名詞たる魔法剣の形成には問題ない。維持も、今の俺の練度なら並の魔物相手に遅れは取らないはずだ)
俺は前を向いた。
俺にとって、貴族の身分も広大な領地も、失えば不便な資産というだけに過ぎない。家格を再興することに特段のこだわりがあるわけでもない。
だが、この血筋がもたらした魔法剣という技術だけは、誰にも差し押さえることはできない。これこそが、俺の唯一にして最強の「自己資産」だ。
かつての始祖がそうであったように、俺もまた、己の力一つでこの世界に名を刻んでやる。どん底からどこまで昇り詰められるか――冷めた頭の片隅で、静かな野心が熱を帯びるのを感じた。
石畳を叩く俺の足音は軽く、迷いはない。
やがて、荒事と喧騒が染み付いた古びた木製の扉が見えてきた。
『冒険者ギルド』
そこが、俺が自立のために選んだ新しい戦場。
元・貴族の三男――アルフレッド・ヴァランシエルとして、俺はその重い扉を、躊躇することなく静かに叩いた。
重厚な木製の扉を押し開けると、安物の酒の匂いと、獣の血、そして磨き抜かれた鉄の匂いが混じり合った独特の熱気が俺を迎え入れた。
広間では、剥き出しの殺気を隠そうともしない荒くれ者たちが、酒杯を傾けながら大声で笑っている。一方で、隅のテーブルには手入れの行き届いた武具を身に纏い、静かに地図を囲むベテランらしき一団や、俺とさほど年齢の変わらなそうな、期待と不安の入り混じった顔で談笑する若手パーティの姿もあった。没落したとはいえ、貴族の華やかな社交場とは正反対の場所だ。
圧倒されそうな熱気の中、視線を奥へと進めようとした俺の目が、ふと壁際に佇む「異物」に釘付けになった。
そこには、漆黒のマントを深く羽織り、顔の上半分を覆うのは、鴉を模したような、漆黒の仮面だ。それはこの世界で不吉と死を司る小神、夜鴉神の使いを思わせる、禍々しくも美しい意匠だった。厚手のマントのせいで体格すら判然とせず、辛うじてその隙間から覗くわずかな立ち姿から(……女か?)と推測できる程度だ。
(……なんだ、あれは)
俺の視線に気づいたのか、仮面の奥にある瞳が、無機質にこちらを一瞥した。
心臓がわずかに波打つ。
敵意や殺気が剥き出しになっているわけではないが、そこだけ空気の温度が下がったような、底知れない違和感がある。本能が「今はまだ、関わるべきではない」と告げていた。
俺は自然な動作で視線を外し、乱れそうになる歩調を整えて、広間の奥にある受付カウンターへと向かった。
カウンターの向こうには、事務仕事に慣れきった様子の若い女性職員がいた。彼女は書類から顔を上げると、俺の使い古された旅装を鋭く一瞥した。
「……見ない顔ですね。冒険者登録をご希望ですか?」
「ああ。お願いしたい」
自分の声が、先ほどの緊張でわずかに硬くなっているのが分かった。
俺が答えると、彼女は手慣れた手付きで一枚の羊皮紙を取り出した。
「では、こちらに氏名、年齢、出身を。あらかじめ申し上げておきますが、冒険者ギルドは慈善団体ではありません。我々の役割は開拓地や都市周辺で発生する魔物を管理し、そこから得られる魔石を都市運営者……つまり貴族の方々へ納品することです。この魔石こそが、街を覆う結界を維持する生命線ですから」
彼女が差し出した羽ペンを受け取り、説明に耳を傾ける。
「そのため、成果の判定は基本的に魔石の納品、あるいは依頼の達成報告によって行われます。ランクは登録時のFから始まり、順にE、D、C、B、A、そして伝説的なSまで。ランク以上の依頼は受けられません」
俺は黙って羊皮紙の項目を埋めていった。
氏名、アルフレッド・ヴァランシエル。年齢、16。
「ギルドで報酬を得る方法は三つ。ランクに応じたギルドの依頼を完遂するか、自力で狩った魔石を売却するか、後は討伐した魔物の素材の買取りですね。ただし、今のあなたに許可されるのは都市内の雑用や、下水道に巣食う魔鼠程度の討伐のみです。都市の外に出て、魔物を狩って魔石を納品すること自体は自由ですが、ギルドはランク以上の獲物に挑むことは決して推奨しません」
事務的な説明を終え、彼女は俺が記した名前を読み上げた。
「……アルフレッド・ヴァランシエル様、ですね。……ヴァランシエル?」
ふと、彼女の手が止まった。眼鏡の奥の瞳が、驚きにわずかを見開かれる。
「失礼ですが……あの、帝国に光刃ありと謳われた、魔法剣の名門の?」
「……先祖の話だ。今はただの、食い詰めた男に過ぎないよ」
否定せず、ありのままを肯定する。腰に下げた、魔導回路すら彫られていないただの小剣を軽く叩いた。
受付嬢は一瞬、言葉を失ったように俺を見つめていたが、すぐにプロの表情に戻った。
「失礼いたしました。……確かな腕をお持ちのようですが、冒険者としての実績はゼロです。当面はソロよりも、信頼できる冒険者を紹介しましょうか? その方が安全でしょうし」
「いや、断る。まずは一人でやってみたい」
俺は迷わず答えた。
他人に頼らず、まずは自分の力がどこまで通用するのかを確かめてみたかった。相手がどれほど弱い魔物であろうと、実戦で魔法剣を振るうのは、これが初めてなのだ。怖さがないと言えば嘘になるが、それ以上に高揚感が勝っていた。
「……承知いたしました。では、アルフレッド様。本日から貴方は冒険者ギルド、グランゼリス支部所属のFランク冒険者です。まずは下水道の魔鼠から、その高名な魔法剣の実力を見せていただけますか?」
皮肉とも激励とも取れる言葉と共に、彼女は一枚の鉄板――冒険者証と、古びた羊皮紙を差し出してきた。
「こちらが冒険者証と、初回の依頼書になります。討伐対象の詳細はそちらに。……細かい説明は省かせていただきます。文字は読めますよね?」
「ああ、問題ない」
俺は二つの品を受け取ると、カウンターを離れて壁際に寄り、さっそく依頼書に目を落とした。
【依頼:都市下水道の清掃】
ランク:F
討伐対象: 汚泥魔鼠
達成条件: 小魔石5個の納品(5体以上の討伐)。
報酬: 規定額に加え、6体目以降は魔石1個につき追加報酬を支給する。
詳細: 都市の排泄物や生活魔法の残滓を食らって変異した小型の魔物。毒性は低いが繁殖力が極めて高く、放置すれば下水管を閉塞させる恐れがある。
回収対象: 体内にある小魔石。
特記事項: 肉や皮に利用価値はないため、魔石のみを回収し、死骸は現地の水流へ流してよい。
潜入経路: 北区三番街の排水管理用ハッチより地下へ進入のこと。
(最低5体か。だが、6体目からは追加報酬が出るんだな……)
思わず口元がわずかに緩む。今の俺にとって、一銭でも多く稼げる条件はありがたい。
下水道という不衛生な場所で泥にまみれるなら、ノルマ分だけで切り上げるのはもったいない。自分の魔法剣の燃費と相談しながら、いけるところまで数を稼いでみるべきだろう。
(汚泥魔鼠……。名前からして、魔力の残滓を好んで集まる性質があるはずだ。こちらの魔力に寄ってくるなら、索敵の手間も省けるかもしれないな)
依頼書によれば、このネズミは心臓のやや右側に核となる魔石を有しているらしい。解体の手間がないのは助かるが、下水道という閉所での戦闘は、剣の振りを制限されるリスクがある。
「場所は北区三番街だな。魔石さえ回収すればいいなら、カバンは身軽なままでいいか」
俺は依頼書を丁寧に折り畳み、胸元に仕舞った。
周りの荒くれ者たちは相変わらず騒いでいるが、俺の意識はすでに実戦のシミュレーションへと向かっている。
まずはこの魔鼠を確実に、そして効率よく利益に変えること。それが冒険者として俺が踏み出す第一歩だ。
俺は腰の小剣の鯉口を親指で軽く切り、刃の状態を確かめた。
ただの鉄。だが、俺の魔力を流し込めば、それはどんな名剣よりも鋭い光刃を成すはずだ。
「よし、行こう。稼げるだけ稼がせてもらう」
俺はギルドの重い扉を再び押し開けた。
湿った空気の中、北区三番街を目指して歩き始める。初めての仕事への期待で、胸の鼓動が少しだけ速くなるのを感じていた。




