第十九話
自室に戻ってからの記憶は、恥ずかしさのあまりほとんど朧気だった。
ただ、手渡された大きめの小瓶を満たすために、頭の裏側で嫌でもリフレインし続けたのは、つい先ほど至近距離で見せられたカラスの、あのずるいほどに美しい素顔だった。
「……持ってきたぞ」
カラスの部屋の扉を叩き、中に入るなり、俺は視線を斜め下に落としたまま右手を突き出した。手のひらには、ほんのりと温かみの残る、しかし呪力コーティングのおかげで中身は見えないようになっている小瓶が握られている。
「ほう。早いな、アルフ。やはりお前は期待を裏切らない」
受け取るカラスの声は、隠しきれないほど弾んでいた。すっと手元から小瓶が消えたのを感じて、俺はようやく顔を上げる。カラスは前髪を揺らしながら、小瓶の重みや呪力の気配を確かめるようにして、くつくつと上機嫌に笑っていた。小瓶を軽く揺すって量を確かめながらカラスが言う。
「……ふむ、量も問題無しだな。それでアルフ? 今回もちゃんと、私のことを考えながら出してくれたのだろうな?」
「ッ……! な、何をわざわざ確認してんだよ!」
「そんな気にするな、ただの確認だ。呪術の触媒としては、そこに込められた『情動』の指向性が極めて重要だからな」
そう言ってからかうように首を傾げるカラスに、俺は顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いてぶつぶつと言葉を返した。
「……どうせ、付与の儀式をはじめれば、どんな感情が籠もってるかくらいカラスには全部分かるんだろ」
はっきりと認めない俺の態度。だが、カラスはそれがかえって満足だったようで、前髪の奥の目をこれ以上ないほどに細め、ますます嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ふふ、まあな。私の可愛い相棒がどれほど私に狂わされているか、術式を通して特等席で味合わせてもらうとしよう」
「だから言い方を変えろって……!」
「冗談はここまでだ。夜が明ければすぐに遠征が始まる。さっそく付与を開始するぞ」
カラスは机の上に、昼間の買い出しで仕入れていたらしい、上質な白銀の絹布を広げた。新品の、剣の柄に巻き付けるための専用の巻布だ。
彼女は俺から受け取った小瓶を開けると、そこへ昼間に買った『銀の月砂』と調合済みの薬品を注ぎ込み、一気に呪力を練り上げていく。部屋の中に、精神を揺さぶるような甘く重い呪力の香りが満ちていった。
カラスはその液体を筆に浸し、白銀の巻布へ滑らせるようにして緻密な呪詛の紋様を書き込んでいく。その手つきは、一瞬の迷いもない。
「……よし、これで呪力の定着は完了だ。アルフ、お前の愛剣の柄巻きをこれに巻き直せ」
「これで終わりか? なんだか、以前の短剣の時とは少し術式の組み方が違う気がするけど……。あれ?結構布が余りそうだけど、どうするんだ」
促されるまま、愛用の短剣の古い柄布を解き、新しく呪いを発する布を隙間なく巻き付けながら尋ねた。すると、カラスは余った布の端を愛おしげに撫でながら説明を始めた。
「今回の付与には二つの効果がある。一つは、お前の魔法剣の出力効率の大幅な向上だ。お前の魔力を一滴も無駄にせず、すべて刃の威力へと変換する」
「なるほど、純粋な火力強化だな」
「そして、もう一つが本命だ。その巻布は、柄の末端部分があえて長めに余るように作ってある。戦闘時、柄巻をほどいて布の端を私が掴むことで――私の呪術を媒介にし、お前の魔力制御を後方から直接補助できる」
カラスの言葉に、俺は思わず巻布を握る手を止めて驚愕した。
「それって、つまり……あのロックスクレイルの群れを倒した時みたいに、カラスが代償を支払わなくても、二人で魔力を完全に融合させられるってことか!?」
「その通りだ」
カラスは誇らしげに、ふんと胸を張った。
「あの時は、私があらゆる代償を捧げ、強引に同調して制御のラインを繋いだため、私の肉体に大きな負荷がかかった。だが今回は、この巻布がお前と私の魂の『架け橋』となる。これならば、実質的なノーコストで、あの時の超出力を再現できる」
カラスの解説を聞きながら、俺は新しく生まれ変わった剣の柄を強く握りしめた。
確かに、以前よりもずっと、俺の魔力がカラスの気配と滑らかに馴染んでいくのが分かる。
気恥ずかしさはまだ残っている。だけど、この布が明日、俺たちを引き裂こうとするどんな絶望からも、お互いを繋ぎ止めてくれる確かな武器になるのだと確信できた。
「ありがとう、カラス。これなら、どんな巨体だろうと負ける気がしないよ」
「当たり前だ、私が仕込んだのだからな。――ああ、一応ここで一度、その感覚を試してみるといい」
カラスがフンと顎をしゃくって促す。俺は頷き、新しく白銀の巻布を隙間なく巻き付けた小剣を右手に握り、軽く腰を落とした。
この小剣は、俺がヴァランシエル家から持ち出した魔法剣の要だ。ほどいて使う分の布も多めに巻いたためか、慣れ親しんだ柄とは少しばかり感触が違うが問題ない。小さく息を吐く。
「いくぞ……『魔法剣』」
柄を握る手に魔力を込めた、その瞬間だった。
「――っ!? う、わあああ!?」
凄まじい勢いで体内の魔力が柄へと吸い上げられ、小剣の先から、部屋の天井を突き破らんばかりの特大の光刃が、激しい熱量と共に膨れ上がった。
「おい、馬鹿、出力を絞れ! 宿が消し飛ぶ!」
「分かってる、分かってるけど……っ!」
慌てて魔力の供給を絞ろうと、脳の血管が切れそうなほどの集中力を注ぎ込む。しかし今度は、まるで冷水を浴びせられたかのように光刃がボッと音を立てて小さくなり、今にも消えそうなほど頼りなく揺らめいた。
「くそっ、今度は小さくなりすぎた……。もう一度……!」
じわりと魔力を足すと、今度は暴走したかのように刃のサイズが急膨張し、バチバチと不規則な火花を散らす。大きくなったり、小さくなったり、まるで生き物のように不安定に揺れ動く光刃を前に、俺の制御は完全に振り回されていた。
「だめだ、蛇口をほんの僅かにひねっただけで、全力の魔力が濁流のように流れ出してしまう。なのに、一度絞ろうとすると今度は完全に堰き止められてしまうんだ……!」
歯を食いしばり、針の穴に糸を通すような繊細さでなんとか魔力の波を抑え込み、光刃を消失させる。俺はその場に膝をつき、肩で荒い息を吐いた。ほんの数十秒展開しただけなのに、全身から滝のような冷汗が垂れ落ちる。
「……なるほどな。出力効率が上がりすぎた弊害か。お前の魔力を一滴も漏らさず威力へと変換する術式ゆえに、通常サイズでの使用には、これまでとは比較にならないほど精密な魔力制御が求められるというわけだ」
カラスが顎に手を当てて分析する。俺はぐったりとしたまま、手元の白銀の柄を見つめた。
「ああ、大型の変異種相手ならこれ以上ない破壊力だけど、普段の道中の小物相手にこれじゃ、魔力が一瞬で枯渇しちゃうよ。それに、実戦の乱戦の中でこんな極限状態の制御なんて、とても維持できない……」
せっかく強化した魔法剣だが、このままでは宝の持ち腐れ、いや、自滅の引き金になりかねない。俺が頭を抱えていると、カラスは前髪の奥の目をパチパチと瞬かせ、何かを思いついたように小さく唇を吊り上げた。
「ふむ……。お前が一人で戦う時の取り回しも考慮せねば、実戦では使えんからな。よし、少しその小剣を貸せ。巻き方を変えてみるか」
「どうするつもりなんだ?」
手渡した小剣を受け取ると、カラスはベッドの端に腰掛け、一度巻布を全てほどく。長すぎて床に垂れていた布の端を器用な手つきで細かく折り畳み始めた。まるで複雑な編み物をしているかのように、指先を素早く動かしていく。
呪術を付与していない布も合わせて、柄へと丁寧に編み込んでいく。
「お前が一人で使う際、布全体に魔力が触れてしまうから暴走するのだ。ならば、触れる面積を段階的に変えられるようにすればいい」
しばらくして、カラスは満足げに頷くと、小剣を俺に突き戻した。
受け取ってみると、柄の根本は、付与のない布も混じった巻かれ方。柄の先端だけはきっちりと全てが呪術で付与された布が巻かれており、そこから先はカラスの手によって綺麗に編み込まれ、小剣の重心を邪魔しない程度のコンパクトな『飾り布』として垂れ下がっていた。
「さあ、もう一度試してみろ。まずは、その垂れ下がっている飾り布には一切触れず、いつも通り柄の上の部分だけを片手で握って魔力を流すのだ」
「分かった……。いくぞ」
言われた通り、飾り布を避けて柄を片手で握り込み、魔力を通す。すると、先ほどのような魔力の異常吸引は起こらず、いつもの見慣れたサイズの光刃が、ピタリと安定して刀身を包み込んだ。
「あ……! いつも通りに近い感覚だ。暴走しないし、魔力も吸われると言うより、逆に少ない魔力で使えている気がする」
「よし、予想通りだな。普段の道中や小物相手の時は、その第一の形態で戦えばいい。巻布の大部分を通常の布で編み込んで遮断しているからな。では次だ、アルフ。その飾り布を、お前の右手にぐるぐると巻き付けて、今度は両手で柄を深く握り込め」
「こうか……?」
カラスの指示に従い、垂れていた編み込み布を手のひらに巻き付け、左手を添えて両手持ちにする。その瞬間、手のひらを通じて、眠っていた巻布の呪力がジワリと俺の体内に干渉してくるのが分かった。
「……っ、魔力が引き上げられる……! でも、さっきよりずっと扱いやすい!」
小剣から放たれた光刃が、一回りも二回りも巨大化し、バチバチと鋭い熱風を巻き起こす。出力は上がっているが、両手でしっかりと手綱を握れているような、確かな手応えがあった。
「それが第二の形態。中堅や大型の単体相手に、お前自身の制御だけで高出力を維持し、強敵の外殻を強引に叩き割るための構えだ。巻きつける長さで効果が変わるから気をつけろ……そして、最後だ」
カラスが歩み寄り、俺の手の甲に己の冷たい手を重ねた。そのまま、俺の手から飾り布をほどくと、本来の長さに戻った布の端を、カラスが自分の左手で強く掴み取る。
「カラス……?」
「お前が最大出力を出したい時は、その布の端を私に渡せ。――いくぞ、アルフ。私の呪術のラインを繋ぐ」
カラスが握った布に魔力を通した瞬間、俺の魂へと彼女の冷涼な魔力が滑り込んできた。その刹那、小剣から天井へ届かんばかりの圧倒的な光の刃が爆発的に吹き上がる。
先ほどなら一瞬で制御を失っていたはずの凶暴な質量。それが、後ろにいるカラスの存在を通じて、まるで自分の手足のように驚くほど滑らかに、完璧にコントロールできていた。
「すごい……! あの時と同じだ。カラスが後ろから魔力の制御を完璧に補助してくれてる。これなら、変異種だろうが一撃で消し飛ばせる!」
「ふん、これぞ第三の形態、私たちの決戦仕様だ。お前が私を想って差し出した豊穣神の結晶が、私たちの間に強固な架け橋を固定したのだからな。実質的なノーコストで、あの時の超出力を再現できる」
光刃を収め、俺はしっくりと馴染んだ愛剣を鞘に収めた。気恥ずかしさはまだ残っている。だけど、この三つの形態があれば、明日どんな状況になっても戦える確信があった。
「ありがとな、カラス。最高の呪具だ」
「当然だ、私の作戦に抜かりはない。……おい、待て。そのままで戻るなよ。最大出力の形態を試したせいで、布の編み込みが完全に解けたままだろう」
カラスは呆れたようにため息をつくと、俺の腰の鞘から小剣を断りもなく引き抜いた。そのままベッドに腰掛け、床に長く垂れ下がった白銀の布を、再び手際よく折り畳み始める。
「あ、すまない。一度ほどくと長すぎて、道中で引きずったり足に引っかかったりして、ちょっと使いづらいなと思ってたんだ」
「実戦で編み直す暇などないからな。一度解いた後は、この形態のまま戦い抜く覚悟を持て。」
カラスの細い指先が、器用に布を編み込んでいく。少し不器用そうに口元を尖らせながら作業する彼女の横顔を眺めていると、彼女はふと前髪の奥から視線をこちらに寄越した。
「邪魔になるからと言って絶対に切るんじゃないぞ。どうしても長くて邪魔だという局面や、布をほどく余裕すらなく奇襲された時は、聖液の短剣の方を使え。そちらにも実戦で試してみたいしな」
「なるほど、そっちの使い分けもあるか。……本当に助かるよ、カラス」
「よし、これで元通りだ」
カラスは綺麗に飾り布の形へと戻した小剣を、パチンと音を立てて俺の鞘へと収め直した。これで普段の道中はいつも通りの立ち回りができるし、いざという時の切り札も完璧に機能する。
「さあ、今度こそ自分の部屋に戻って眠れ、明日は早いぞリーダー」
前髪の奥で不敵に、どこか優しく微笑む彼女に今度こそ送り出され、俺は高鳴る胸を抑えながら、明日に向けて確かな手応えと共に自室へと戻るのだった。




