第十五話
その日の依頼と実験を終え、いつものように宿の部屋に戻った時のことだった。
カラスは机の上に新しく手に入れた魔石や、俺の髪の毛が入った小瓶を並べ、前髪の隙間からそれらをじっと見つめていた。
「……髪、爪、血。どれも私の肉体への負荷を劇的に減らしてくれた。だが、やはりまだ決定打には欠けるな。血は魔力の伝導率が最も高いが、戦闘のたびにお前の血を大量に抜くわけにもいかん。お前自身の体力が落ちては本末転倒だからな」
カラスは顎に手を当て、何かを値踏みするように俺をじろじろと見てきた。
「だがな、アルフ。実はまだ試していないが、理論上、最も効率の良い触媒が他にある」
「へえ、何があるんだ? 髪や血より効果があるものなんて」
俺が何気なく聞き返すと、カラスは腰のポーチから、親指ほどの大きさの、コルク栓がついた小さなガラスの小瓶を取り出した。そしてそれを、俺に向かってひょいと投げ渡してきた。
「それを手にとって、お前の自室で精液を採取してこい」
「……は?」
手の中に収まった小瓶を見つめたまま、俺の思考は完全に停止した。
え、今、この人はなんて言った?
一瞬、自分の耳を疑った。宿の窓の外を走る馬車の音や、一階の酒場から響く笑い声が、急に遠くの出来事のように感じられる。頭の中が真っ白になり、次いで心臓がドクドクと不規則に脈打ち始めた。
(せいえき……? いや、待て。あの精液か? なんで? いや、なんでって触媒の話だけど。いや、だけどそれを自分で、部屋で、今から!?)
俺の内心の混乱など露知らず、カラスは至って真面目な顔のまま、淡々と解説を続けた。
「言っただろう。呪術は等価交換が基本だ。そしてお前の魔力は規律を司る審判神と相性がいい。男の精とは、即ち新たな生命の源であり豊穣神の象徴、極めて高い魔力的エネルギーと、お前自身の純粋な情報が凝縮された『究律の結晶』だ。これ以上の触媒など、早々お目にかかれるものではない」
「……あ、あんた、本気で言ってるのか?」
なんとかそれだけを絞り出したが、自分の声が情けないほどに上擦っているのが分かった。顔に一気に血が上り、耳の奥まで熱くなっていく。
俺は極力態度に出さないように気をつけているが、カラスのことが、明確に一人の女性として好きだ。
あの夜、仮面を外して見せた不器用な笑顔や、年相応のどこか危うい素顔を知ってから、その想いは日を追うごとに強くなっている。
だけど、カラスが本当に俺のことをどう思っているのかは、あの帰り道の告白を聞いた後でも、まださっぱり分からなかった。
――……お前を、このまま死なせたくなかったからだ
――絶望的な差があっても、それでも誰かを助けに行ける。そんなお前の隣にいるのも、悪くはないと思えたのだ。
なんて殊勝なことを言っていたくせに、宿に戻ればただの便利な相棒兼魔力供給源としてしか見られていない気もする。……いや、あいつなりの不器用な『死なせないための手段』が、この実験なのだろうか。
そんな風にあれこれと勘繰ってしまう彼女から、あまりにも直球で、しかも事務的に身体の一部(血や髪)を要求されたのだ。あの「死なせたくなかった」という言葉の余韻が頭から離れないままの俺が、平常心でいられるわけがなかった。
「本気に決まっている。私はいつだって金と効率に関しては真剣だ」
カラスは前髪の奥の瞳をすぼめ、少しだけ呆れたような、あるいはからかうような視線をこちらに向けた。
「何をそんなに赤くなっている。知らない他人にそんなものを要求するのはさすがの私でも気が引けるが……お前は私の正式な相棒だろう? お前なら何の問題もない。いいから、さっさと行って採ってこい。私の新しい戦術の研究がかかっているんだ」
「お前ならいいだろう」という言葉の響きに、胸の奥が妙に跳ねた。だが、彼女の態度はどこまでもリアリストの呪術士そのもので、そこに色恋の気配など微塵も感じられないのが、なおさら俺を惨めな気持ちにさせる。
「……分かったよ」
これ以上ここにいたら、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
俺は投げ渡された小瓶を握りしめ、極力平静を装いながら、逃げるように隣の自室へと向かった。ドアを閉めた瞬間、大きなため息と共に、これから自分が直面するあまりにも奇妙な任務に、激しい頭痛を覚えるのだった。
自室での文字通り命懸けの作業を終え、俺は爆発しそうなほど熱い顔を引きずりながら、再びカラスの部屋のドアを叩いた。
「……戻ったぞ」
「遅かったな。進捗はどうだ?」
机に向かったまま振り返ったカラスに、俺は極力視線を合わせないようにして、ポケットから小さなガラス瓶を取り出した。
「ほら……これ、言われた通りにしてきた」
差し出された小瓶を、カラスは躊躇なく受け取る。その瞬間、俺の脳内は再び有り得ないほどの羞恥心で埋め尽くされた。
自室のベッドの上で、何を考えてあの作業をこなしたか。他でもない、今目の前にいるこのカラスの、仮面の下の素顔や、療養中に見せた不器用な表情を必死に頭に思い浮かべながら出したのだ。
(相手のことを考えながら出したものを、その相手に直に手渡すなんて、一体何のプレイだよ……!)
内心の叫びが顔に出ないよう必死に奥歯を噛み締めていると、カラスは小瓶を目の高さに掲げ、事もあろうにコルクの蓋をぽんと外した。そして、躊躇なくその縁に鼻を近づけ、クンクンと臭いを嗅ぎ始めたのだ。
「お、おい! 何してるんだあんた!?」
俺はたまらず声を荒らげて一歩詰め寄った。しかしカラスは、焦る俺を前髪の隙間から冷ややかに一瞥しただけだった。
「何を驚いている。未知の触媒を五感で検証するのは術士として当然の生業だ。ふむ……生臭さはあるが、不快な濁りはないな。それどころか、お前の純度の高い魔力が、粘性の高い液体の奥でいまだに規則正しく脈動しているのが分かる。やはり『規律』の器だな。実に見事な保存状態だ」
「保存状態って……頼むから生々しい言い方はやめてくれ」
俺は頭を抱えた。だが、カラスは至って真面目な顔で、小瓶を光に透かしながら考察を続ける。
彼女は机からガラス製の細いスポイトを取り出すと、小瓶からその白濁した液体をほんの一滴だけ吸い上げた。そして、幾何学的な術式が刻印された銀製の小さな測定皿へと、慎重に落とす。
カラスが皿の縁に指先を触れ、微弱な魔力を流し込んだ瞬間――皿に刻まれた術式が、これまで見たこともないほど鮮烈な、澄んだ青色の光を放って激しく明滅した。反応の強さに、カラスの片眉が跳ね上がる。
「……予想はしていたが、これほどとはな…。血液や毛髪の比ではないぞ。試験皿の術式が過負荷で焼き切れそうだ。やはり生命の根源たる豊穣神を含んでいるからか、お前の持つ審判神の神性が、このわずかな一滴の中に恐ろしい密度で凝縮されている」
驚きを隠せない様子で皿を見つめるカラスの横顔に、俺はいよいよ顔が火を吹きそうなほどの羞恥心に襲われていた。測定皿の上で青く輝いているそれが何であるかを、どうか深く考えないでくれと祈るばかりだ。
「お前の髪や血の時とは、魔力の密度の桁が違う。これは私の呪術の身代わりにするには勿体ないな。むしろ……直接お前の武器に組み込み、魔法剣の出力を底上げするブースターとして使ってみるべきか」
「俺の魔法剣の強化に? これを?」
「そうだ。案ずるより産むが易し、だな。丁度いい、私の短剣を使うか。今ここで呪術付与を試みる」
カラスは自身のポーチから、小ぶりだが手入れの行き届いた短剣を引き抜いた。そして手際よく呪印が刻まれた筆を手に取ると、小瓶の液に筆の先を浸し、銀色の刃へと滑らせていく。
彼女が呪言を紡ぎながら筆を走らせると、刃の表面に塗られた液体が、じわじわと吸い込まれるように消えていった。
だが、そこからカラスの動きがピタリと止まった。
「……?」
カラスは短剣をじっと見つめたまま、しばらく黙り込んでしまった。前髪の隙間から覗く瞳が、驚きと困惑で微かに揺れている。いつもなら呪術が付与された武器は禍々しい気配を放つのだが、この短剣からは、恐ろしいほどに穏やかで、それでいて強固な魔力の波動が感じられた。カラス自身の呪術の魔力が、俺の出した触媒と、まるで最初から一つの存在だったかのように完璧に馴染み、融け合っているのだ。
沈黙ののち、カラスは小さく息を吐き出すと、短剣の柄を俺の方へと向けて差し出してきた。
「……お前、これを握って魔法剣を発動してみろ」
「え? ああ……」
促されるままに俺が柄を握りしめ、体内に魔力を巡らせる。
その瞬間、驚くほど滑らかに魔力が短剣へと吸い込まれていった。いつもなら魔法剣を維持するためにそれなりの魔力を消費するのだが、今回は普段の数分の一の魔力しか使っていない感覚だった。
それなのに、短剣の刃から溢れ出したのは、これまでにないほど濃密で鋭い光の刃だった。投擲用短剣という本来のサイズを完全に無視し、それはまるで一振りの見事なロングソードほどの長さを湛えて、眩く固定されている。
「なんだこれ……。魔力の消費がめちゃくちゃ少ないのに、長さがロングソードくらいで完全に固定されてるぞ。それに、刃の密度も段違いだ」
「……お前の純度高い魔力を、お前の精そのものが呼び水となって引き出しているのだ」
カラスは腕を組み、まだ少し戸惑いを残した声で解説を始めた。
「これならば、お前の魔力消費を最小限に抑えつつ、一撃の威力を跳ね上げられる。それに、サイズがロングソードほどに固定されているということは、変幻自在な間合いが使えないデメリットがあるが……それを十分に補えるほど効率よく、お前の魔法剣の特性を、私の呪術が完璧にブーストした形だ」
「なるほどな……。じゃあ、これを使えば格上の相手とも渡り合えるかもしれないってことか」
「ああ。だが、な」
俺が感心していると、カラスはふっと言葉を遮った。
彼女は俺から視線を逸らし、前髪をいじるようにして指先を動かしている。その横顔が、心なしか療養中のときのように、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
「この付与、単に触媒としての質が良いというだけでは、ここまで私の魔力と完璧に融け合うはずがないのだ。呪術とは『想い』や『感情』もまた、強力な対価として世界に支払われるからな」
「え……?」
カラスは小さく咳払いをすると、前髪の隙間から、少し戸惑うように上目遣いに俺をじっと見つめてきた。
「……お前、自室でこれを採取しているとき、一体何を考えていた? ……まさか、私のことを考えて、……その…出したのか?」
直球すぎるその問いかけに、俺の心臓が跳ね上がった。顔が一気に沸騰したように熱くなり、言葉が喉に詰まる。
図星だった。カラスの素顔を思い浮かべながら必死に出したなんて、口が裂けても言えるわけがない。
「な、何言ってるんだよ! そんなわけないだろ!」
俺は慌てて短剣を机に置き、ぶんぶんと首を振った。
そんな俺の慌てぶりを見て、逆にカラスの方は冷静さを取り戻したようだった。顔を少し赤らめたままではあるものの、その唇が意地の悪い笑みの形に歪んでいく。
「くく、何をそこまで狼狽えている。図星か? ……ずっと仮面をつけていたから私も忘れていたが、私には母様ゆずりの美貌があるからな。年頃の男が私の顔を思い浮かべて悶々とするのも、仕方のないことだ」
「だから、違うって――」
反論しようとした瞬間、カラスは不意に、目元を覆っていた長い前髪を片手で乱暴に掻き上げた。
世界が、一瞬で色を変えたような錯覚に陥る。
現れたのは、あの夜に見た、そして自室で必死に思い描いていた、あの息を呑むほどに整った彼女の素顔だった。
「本当に、違ったか?」
カラスはそのまま、俺の顔のすぐ近くまで、音もなくスッと距離を詰めてきた。前髪から解放された彼女の双眸が、至近距離からまっすぐに俺の目を射抜く。あまりの綺麗さに、俺は息をすることすら忘れて硬直してしまった。
完全に固まった俺の反応を見て、カラスは満足そうに「くく……」と低く笑った。俺をからかい、その動揺を楽しむような、いたずらっぽい笑み。
「この触媒の質が良い理由にも説明がついたよ。……これからも大切に使わせてもらうぞ、アルフ」
そう言いながら、彼女は再び前髪をハラリと下ろし、いつもの隠された顔へと戻っていった。
一瞬だけ見せられたあまりの破壊力に、俺の心臓はまだ警鐘のような音を激しく刻み続けていた。
「……まあいい。理由はどうあれ、この短剣は有効に使ってくれよ」
カラスはそう言うと、俺の無骨な手をそっと取り、その手のひらに先ほどの付与短剣を優しく乗せてやった。彼女の指先から伝わる予想以上の温かさに、俺の心臓はさらに跳ね上がる。
不意のスキンシップに俺が言葉を失っていると、カラスは俺の手の上にある短剣をじっと見つめ、特に深く考える様子もなく、思いついたままに口を開いた。
「これほど見事な術式だ、名がなくては不便だな。お前の聖なる液を注ぎ込んだ短剣……。そうだな、この短剣は――『聖液の短剣』と名付けよう」
「……ぶっ!?」
あまりにもそのまんまというか、直球すぎて人前で言いたくないそのネーミングに、俺は思わず盛大に吹き出した。
「な、なんだその名前! 直球すぎて色んな意味でアウトだろ! 頼むからギルドとか人前で絶対にその名前を呼ぶなよ!?」
「なっ、なぜそんなに嫌がる。お前の差し出した高純度な触媒の性質を、最も分かりやすく、かつ正確に表現した名だぞ? 術士としては実に合理的で素晴らしい銘だと思うのだが」
一瞬前までの甘酸っぱくて心臓に悪い空気は、彼女のあまりにもデリカシーのないネーミングセンスによって一瞬でパリンと砕け散った。前髪の下で、何が悪かったのか本気で理解できずに首を傾げているカラスを前に、俺は赤くなった顔のまま、別の意味で頭を抱えるしかなかった。




