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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第4幕 真実だけは譲れない

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32. 推薦状

 聖エリュシオン大講堂の空気は、数千年の沈黙が降り積もったかのように重く、冷たかった。


 筆記試験を終え、最終選考である口述審問へと呼び出された私は、今、その巨大な扉の前に立っていた。かつての私が、人生のすべてを賭けて憧れた聖域。けれど、今の私の胸にあるのは、高揚感ではなく、剥き出しの神経が冷気にさらされるような、ひりついた孤独感だけだった。


 私は、扉の横にある姿見をあえて正視する。


 そこに映っているのは、一週間前までの最強の淑女の面影など微塵もない、薄汚れた一人の娘だ。泥を吸って重くなった旅歩き用の衣服。雨に濡れて乱れた髪。頬はこけ、瞳の周りには深い(くま)が刻まれている。トーマスとの決別によって、私の心にはもう帰る場所という名の温もりは存在しない。


 私は、ヴァレリアから与えられたすべてを捨てた。名も、庇護も、あの書斎の温もりも。


 そして、かつての安寧な平民としての自分も、自らの意志で焼き捨てた。

 今の私は、誰の所有物でもなく、誰の理解者でもない。ただ一冊の真実を懐に抱いた、漂流者に過ぎなかった。


「……次。七十三番、エリシア・ガレット。入室せよ」


 重厚な扉が開き、私は一歩、壇上の審問官たちが控える広間へと踏み出した。




   ◆◇◆




 高い天井から差し込む光が、私の影を床に長く引き伸ばす。中央には、王立歴史編纂所の長であり、この国の歴史学の絶対権威であるオズワルド卿と、数人の審問官が並んでいた。


 私が壇上に立った瞬間、広間には耐え難いほどの侮蔑と、嘲笑を含んだ沈黙が流れた。


「……ほう。これが、ヴァリエール公爵邸の『筆頭侍女』とまで噂された者の姿かね?」


 審問官の一人が、鼻を鳴らしながら口を開いた。彼の瞳には、私が解答用紙に記した内容への不快感が、隠しきれずに滲み出ている。


「解答用紙を拝見したが、実に不愉快極まりない。建国神話を『血塗られた粛清の副産物』と断じ、帝国の滅亡を『一人の狂える魔術師の私欲』と結論づける。これは歴史学ではない。国家への反逆、あるいはただの妄想だ。君は、自分がどれほど不敬な記述をしたか理解しているのか?」


「もちろんです」


 私の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。


「ですが、歴史家とは国家の走狗(いぬ)ではなく、真実の証言者であるべきでしょう。貴方たちが守っている正統な記録は、ただの権力者のための化粧に過ぎません。私は、その下に隠された醜悪な素顔を記述した。それだけのことにございます」


「なんだとっ……!?」


 審問官が机を叩いて立ち上がろうとしたが、中央のオズワルド卿がそれを手で制した。彼は老獪な瞳を細め、私を獲物のように見定めている。


「まあ待て……エリシア嬢。建国神話を粛清の副産物と言い切ったな。なるほど、刺激的な物言いではある。だが、それは君の個人的な解釈であって、史料的な根拠があるわけではあるまい?」


 彼の口調には、露骨な嘲りの下に、かすかな好奇が混じっていた。


 学者として、その解答を一蹴するには少しだけ引っかかるものがあったのだろう。だが、それを認めるわけにもいかない。だからこそ、こうして根拠の不在を突いて潰そうとしている。


「いいえ。根拠はございます」


 私は一呼吸置いて、静かに答えた。


「王立図書館の第三書庫に、聖暦二一四年の検閲記録簿が残されていますわ。建国王ファルディアスの治世において、四十七の地方氏族の記録が一斉に焚書処分を受けた記録です。正統な建国が正統であるならば、なぜ四十七もの異論を焼かねばならなかったのか。答えは明白です。建国王は合意によって王座を得たのではなく、異論を灰にすることで王座を作ったのですわ」


 広間が、一瞬だけ静まった。


 審問官たちの表情が微妙に揺れたのは、彼らが第三書庫の存在を知っていたからだ。知っていて、見ないふりをしてきた。


「……それは、まだ公式に鑑定が済んでいない史料だ」


 オズワルド卿が、やや声を低くして言った。


「ええ。三百年間も『鑑定が済んでいない』のですから、不思議なことですね」


 私は、その老獪な視線を正面から受け止めた。


「オズワルド卿。不敬と虚偽は違います。不敬であっても真実であれば、それは歴史です。そして虚偽であっても敬意があれば……それは貴方たちが正統な記録と呼んでいるものです」


 卿の目が、わずかに見開かれた。


 それは怒りではなかった。一瞬だけ、そこに学者としての何か――畏怖に近いもの――が走ったのを、私は見逃さなかった。


 だが、オズワルド卿はすぐにその隙を閉じた。皮肉な笑みを浮かべ、ゆっくりと身を乗り出す。


「……面白い。確かに面白い。その不遜な態度、かつてのヴァレリア公女を彷彿とさせるよ。だが、エリシア嬢。学問の世界にはルールがあるのだよ」


 彼は、手元の書類に視線を落とした。


「君の志願票を見たが、推薦状の欄が空欄だ。君が公爵邸を追放されたという噂は、既に私の耳に届いている。推薦状とは、歴史という重責を担うに相応しい人間であることを、既存の権威が保証する唯一の証拠だ。ヴァレリア公女を裏切り、泥に(まみ)れた君を、誰が推薦するというのかね? 推薦状のない者に、この門を潜る資格はない」


 周囲の審問官たちからも、追い打ちをかけるような冷笑が漏れる。


 ああ、結局はそこに帰結するのか。どれほど正しい記述をしても、推薦状という名の鎖がなければ、この場所では立つことすら許されない。


 しかし私は、この問いに対する答えをまだ持っていなかった。


 私が奥歯を噛みしめた、その時――


 広間の扉が、勢いよく開け放たれた。


「失礼いたします! 審問官長!!」


 現れたのは、王宮の紋章を纏った近衛兵の一団だった。彼らの先頭に立つ士官が、銀の封蝋が施された、この国で最も重い権威を持つ一通の書簡を差し出した。


 審問官たちが、その物々しい空気に息を呑む。


「何事だ。今は最終審問の最中だぞ?」


「急ぎの用件でございます。次期王妃候補、ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエール公女殿下より、直々の『親書』をお届けに参りました!」


 次期王妃候補。


 その言葉が、私の思考を白く灼いた。


 ――いつ?


 私が公爵邸を追われてから、まだ二週間も経っていない。


 その間に、あの方は王宮の政治を動かし、次期王妃という座を手中に収めていたというのか。


 凄まじい、と思った。


 私がかつて仕えたあの人は、私を手放したその手で、この国の最高権力に指をかけていた。それは恐ろしいまでの冷徹さであると同時に、彼女がどれほどの速度で――どれほどの孤独の中で駆け上がったのかを物語っている。


 オズワルド卿は、微かに震える手で書簡を受け取った。封を切り、その内容に目を落とした瞬間、彼の顔面から血の気が引き、土気色へと変わっていく。


「……これは――」


「何と書いてあるのです、卿?」


 審問官たちが覗き込む中、オズワルド卿は、信じられないものを見るような目で私を見つめ、掠れた声でその公式な記述を読み上げ始めた。


『――受験番号七十三番、エリシア・ガレット。彼女の解答に含まれる歴史記述は、王家の正統な記録として今後採用されるべきものである。本書簡に異を唱える者は、王家への叛意(はんい)と見なされることを承知されたい――次期王妃候補 ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエール』


 審問官たちの間に、戦慄が走った。


 それは推薦状などという生ぬるいものではなかった。氷のように端正な文体の裏に、一切の逃げ道を許さない、権力による強制的な承認が貫かれている。感情を排した、あまりにもヴァレリアらしい一撃だった。


 ヴァレリアは、その絶対的な力をもって、私の異端な記述を王家の正統へと書き換えさせたのだ。


 私は、あまりの衝撃に目眩を覚えた。


 ヴァレリア閣下。なぜ、私を捨てたはずの貴女が、これほどの力を振るって私を――?


 だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。


 オズワルド卿が、書簡の裏面に添えられていた一文の私的な添え書きに目を留め、その唇が――まるで呪いに当てられたかのように――小さく震えた。掠れた声が、意図せず零れ落ちる。






『――歴史を歪めるな。私のような怪物を、後世に正しく書き残せるのは、貴女だけなのだから』






 ――音が、消えた。


 審問官たちの囁きも、天井から降る光の気配も、自分の呼吸すらも、遠い水底に沈んでいくように遠退いた。


 代わりに、蘇ったのは記憶だった。


 あの嵐の夜。私を書斎から追い出す直前、ヴァレリアが一瞬だけ見せた、あの横顔。あれは怒りではなかった。軽蔑でもなかった。


 今ならわかる。


 あれは、「これから自分がすることへの覚悟」だったのだ、と。


 ――歴史を歪めるな。


 あの日、ヴァレリアは私の学者としての矜持を、容赦なく踏みにじった。お前の知識は借り物だと。お前の言葉には重さがないと。あの青い瞳に射抜かれた夜、私は学者として一度、完全に死んだ。


 その同じ人が、今、この一文でその学者性を認めている。


 正しく書き残せるのは、貴女だけ――。


 それは赦しなどではなかった。あの夜に打ち砕いた私を、泥の中から這い上がらせ、もう一度学者として立たせるための、周到すぎる布石だったのだ。打ち砕くことも、拾い上げることも、すべてヴァレリアの設計図の中にあった。


 認められた、という喜びが、胸の奥を熱く灼いた。同時に、背筋を冷たいものが這い上がる。


 この感動すら、あの人の計算の内側にあったのかもしれない。私が泥の中で何を考え、何を書き、どんな顔でこの審問室に立つか――そのすべてを見透かした上で、この一通はここに届いたのだ。


 救われた。けれど同時に、私はまた思い知らされている。


 ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールという怪物の掌から、私はどこまで歩いても降りられない。


 私は、溢れそうになる涙を、最強の淑女の気位(プライド)で押し戻した。


 ああ。そうですわね、ヴァレリア閣下。


 貴女という『怪物』を正しく見下し、正しくその孤独を記述できるのは、この世界にただ一人……私しかおりません。


 ――たとえそれが、貴女の望んだ通りの結末だとしても。


「……審問官長」


 私は、愕然と立ち尽くすオズワルド卿を見据え、一歩前に踏み出した。


 泥に汚れた衣服も、濡れた髪も、今は何ら恥じるべきものではない。それらはすべて、私が『怪物』の生涯を書き記すために歩いた道の(あかし)なのだ。


「これが、私の推薦状です……私は、公女殿下の……いえ、次期王妃殿下の仰る通り、歴史を一片たりとも歪めません。貴方たちが隠そうとする汚れも、殿下が犯すであろう罪も、そのすべてを歴史という名の鏡に、鮮明に焼き付けて差し上げましょう」


 審問官たちは、もはや声を出すことさえできなかった。


 彼らが恐れているのは、ヴァレリア王妃の権力だけではない。目の前に立つ、すべてを捨てて真実という名の狂気を纏った、この私という存在そのものだった。


 もう、誰の署名もいらなかった。


 この沈黙が、どんな推薦状よりも雄弁だった。


 私は踵を返し、一度も振り返ることなく大講堂を後にした。


 背後で、重厚な扉が閉まる音がした。


 それは、私の孤独な勝利を告げるファンファーレのように、心の中で清々しく、そしてどこまでも残酷に響き渡った。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次回、最終話――「悪役令嬢を記す者」

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