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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第4幕 真実だけは譲れない

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33/33

33. 悪役令嬢を記す者

 王立歴史編纂所、その最も深淵に位置する地下特別資料室。


 そこは、窓から差し込むわずかな陽光さえもインクの匂いに染まるような、沈黙と紙の要塞だった。


 七年前、この部屋にはじめて通されたとき、案内役の老書記官は鍵を渡すなり、こう言った。


「ここは書庫の墓場です。配属されるのは、上に楯突いた者か、どこにも行き場のない者だけでして……」


 彼は気の毒そうに笑っていた。かつて『書庫のネズミ』と呼ばれ、誰からも顧みられなかった娘が、王立機関の最底辺に流れ着いたのだと、そう思ったのだろう。


 あの老人は、今はもう退官している。彼が最後に資料室を訪れたとき、扉の前で一度だけ足を止め、中を覗くことなく引き返していった。


 それが正しい判断だった。


 七年という歳月は、この地下室を変えた。


 いや、変えたのは部屋ではない。ここに積み上げられた記録の質と、それを書いた人間の名が持つ意味が、変わったのだ。


 宮廷の醜聞、貴族間の密約、戦場で握り潰された報告書。表の歴史から削り落とされた断片を、私は一つずつ拾い上げ、検証し、正確な文脈の中に縫い直してきた。誰の依頼でもなく。誰の許可も求めず。


 いつしか、編纂所の上層は私の記録を恐れるようになった。私が何を知っているのか、何をまだ書いていないのか。それが分からないことが、彼らの恐怖だった。


 今朝も、若い書記官が資料の受け渡しに来て、扉の前で息を呑んでいるのが気配で分かった。ノックの間隔が不自然に長い。私が応じると、彼は書類の束を机の端にそっと置き、目を合わせないまま一礼して去った。


 かつての私なら、その怯えに何かを感じたかもしれない。


 今は何も感じない。それでいい。


 かつての『最強の淑女』としての仮面は、今や一国の歴史を解体するための冷徹な理性へと昇華されている。私の机の上に置かれているのは、数年の歳月を費やして書き上げられた一冊の禁書――『王妃ヴァレリア・伝記』。


 それは、現王妃であるヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールの輝かしい功績を称えるためのものではない。彼女がいかにして政敵を屠り、いかにして自らの心を凍らせてこの国の頂点へと上り詰めたか。その醜悪なまでの執念と、背負い込んだ絶望的なまでの孤独を、一片の容赦もなく暴き立てた、血の通った真実の記録だった。


 私は原稿の最初の頁を開き、自ら筆を走らせた序文をなぞる。



 ――歴史家とは、光を描く者ではない。光によって生み出された影の濃さを、正しく測る測定者である。



 私は静かに息を吐いた。


 あの日、審問会場に届いた彼女からの推薦状。あの呪いにも似た信頼に応えるため、私は誰とも繋がらず、誰の顔色も窺わず、ただ彼女という怪物を正しく後世に遺すことだけにすべてを捧げてきた。


 伝記の中には、こういう一節がある。


 ――王妃ヴァレリアの最も恐るべき才能は、敵を滅ぼす力ではない。味方になりうる者を、自ら遠ざける意志の強さである。彼女は孤独を選んだのではなく、孤独であり続けることを、自らに科したのだ。


 この一節を書いたとき、ペンが震えたのを覚えている。


 それがヴァレリアだけのことではなく、今の自分自身のことでもあると気づいていたからだ。


 不意に、厚い石壁を抜けて、遠くから重厚な馬車の車輪の音が響いてきた。


 私はペンを置く。


 地下の小さな高窓は、通りの地面すれすれの高さにある。立ち上がれば辛うじて外が見えるが、私はいつも座ったまま、音だけを聞く。


 黄金の紋章が刻まれ、近衛の騎士たちに守られた王妃の馬車。その蹄鉄の響きは、七年のあいだに何度も、この石壁を震わせてきた。


 はじめの頃は、そのたびに手が止まった。椅子から立ち上がりかけて、自分を叱りつけて座り直した。


 二年目には、音を聞いても筆を止めなくなった。


 四年目には、音が聞こえること自体を忘れる日が出てきた。


 そして今日、伝記の最後の一行を書き終えたこの日に限って――私はペンを置いた。


 立ち上がりはしない。ただ、耳を澄ませた。


 馬車が編纂所の前を通り過ぎる一瞬、風に揺れたカーテンの隙間から、光が揺れた。高窓の端に、彼女の銀髪が月の雫のように煌めくのが一瞬だけ映り、そして消えた。


 私たちは、決して目を合わせない。


 彼女は玉座の傍らで、誰からも理解されない『悪の女王』を演じ続け、私はこの地の底で、その孤独を記述し続ける。


 それが、あの日私たちが選んだ繋がり方だった。


 言葉を交わさず、視線を交わさず、互いの人生に干渉しない。会わないからこそ歪まず、触れないからこそ壊れない。


 王都の民は彼女を恐れている。『氷の王妃』と囁き、その裁きの苛烈さに震え、彼女が通ると道の両側が静まり返るのだという。


 私はそれを、記録としてではなく、七年のあいだこの高窓から聞き続けた、馬車が通り過ぎたあとの沈黙として知っている。


 民衆が恐れ、貴族が警戒し、誰もが遠巻きにする。その構図の中で、あの人がどれだけの判断を一人で下し、どれだけの夜を一人で過ごしてきたか。記録に残らない部分は想像するしかないが、想像する必要もなかった。


 同じ孤独の中に立っている人間には、説明は要らない。


 馬車の音が遠ざかり、再び沈黙が地下室を満たした。


 私は机に向き直った。


 ふと、公爵邸を去るあの日のことが蘇る。ルシアンが最後に寄越した一通の手紙。封を開けたとき、中には彼自身の行方について、一文字も記されていなかった。


 便箋には、ただ一行。



 ――君の選んだ道を、邪魔する権利は僕にはない。



 それだけだった。


 あの男は最後まで、私を引き留めなかった。問い詰めもしなかった。何も書かないことで別れを告げるような人間だった。それが彼なりの誠実さだったのだと、今なら分かる。


 少しだけ、時間がかかったけれど。


 私は、自らの胸元にそっと触れた。


 仕立ての良い学者の法衣。その胸元には、あの日から一度も外したことのない、一つのサファイアのブローチが、冷たく、だが確かな重みを持って光っている。


 ヴァリエール公爵家の裏の紋章。


 それは、ヴァレリアがかつて身につけていたものと同じ。ルシアンの手紙に同封されていたそれを手にした日、私はその意味を一目で理解した。ヴァレリアが直接手渡すことはできない。だからルシアンを経由して届けた。それ自体が、私たちの関係そのものだった。直接は何も渡さない。何も語らない。けれど、伝わるべきものだけが、確実に届く。


 ブローチの冷たさが、指先から胸に伝わる。


 ふと、公爵邸の書斎で口にした言葉が、何の前触れもなく蘇った。あの日と同じ温度で、同じ抑揚で。まるで、このブローチそのものに刻み込まれていたかのように。


 ――歴史とは、過去の出来事ではなく、現在を支配する者のための武器。


 その言葉が、唇の端にかすかな笑みを浮かべさせた。


 かつて私はその言葉に酔った。支配という響きに焦がれ、自分もそうなりたいと願った。けれど七年のあいだにペンを握り続けた手は、剣を握る手とは違う場所に私を連れてきた。


 私が手にしたのは、支配ではなく、記録だった。


 編纂所の上層が私を恐れるのは、私が剣を持っているからではない。私が書くからだ。剣は折れる。権力は移る。けれど、正しく記された言葉は、書いた人間が死んだあとも残り続ける。


「……終わりました、ヴァレリア様。貴女の望んだ通りに」


 私は最後の一行にピリオドを打ち、まだインクの乾ききらない原稿を閉じた。


 両手で表紙を押さえたまま、しばらく動けなかった。


 数年の歳月が、この一冊の重さに凝縮されている。ヴァレリアを知らない未来の誰かが、いつかこの頁を開くとき、そこに記されているのは賛美でも弾劾でもない。一人の女が、孤独を武器に変えてこの国の頂点へ上り詰めた、ただそれだけの事実だ。


 窓の外、王妃の馬車は既に角を曲がり、その音も聞こえなくなった。


 けれど、私の中には、彼女が遺していったあの冷徹な熱が、今も脈打っている。


 私は再び新しい羊皮紙を広げ、ペンを構えた。


 伝記は終わった。けれど、この国の歴史は今日も動いている。記録すべきことは、明日もまた積み上がる。


 地下の書斎に、再び羽根ペンの走る乾いた音が、響き始めた。


 (完)



ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。


エリシアの物語を最後まで見届けていただけたことを、とても嬉しく思っています。


この作品では、憧れから始まった少女が、やがて誰かの強さだけでなく、その孤独まで引き受けていく姿を書きたいと思っていました。


華やかで幸福な結末ではないかもしれませんが、彼女たちらしい形で着地できたのではないかと思っています。


少しでも皆さまの心に残る物語になれていたなら幸いです。


もし少しでも面白かった、好きだと思っていただけましたら、感想や評価などでお声をいただけるととても励みになります。


最後まで、本当にありがとうございました。

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