31. 帰れない私と、帰れる君
雨上がりの王都、その外縁に位置する木材加工場が並ぶ一角。切り出されたばかりの材木が放つ生々しい樹液の香りと、宙に舞うおがくずの乾いた匂い――
それは、私がかつて『世界のすべて』だと思い込んでいた、懐かしくも胸を締め付ける匂いだった。
試験会場を出て、冷え切った身体を引きずるようにして、気がつけば私の足はここへ向かっていた。どこかへ行こうと思ったわけではない。ただ、あの試験室の冷たい空気から逃れるように歩き続けた結果、身体が勝手にこの場所を覚えていたのだ。
水溜まりに映る加工場の明かりが、揺れている。積み上げられた丸太の隙間から、職人たちの掛け声が漏れ聞こえてくる。何もかもが、以前と変わらない。変わってしまったのは、この風景を見つめている私だけだった。
かつて私がトーマスと共に過ごし、未来を語り合ったはずの場所。
石畳を叩く私の足音は、もはやかつての卑屈な響きを持っていない。どれほどボロボロの服を纏っていても、私の背筋はヴァレリアの隣で鍛えられた矜持によって、不自然なほど真っ直ぐに伸びている。けれど、その強固な鎧の下にある心は、冷たい雨に打たれた硝子細工のように、今にも粉々に砕け散りそうだった。
「……エリー?」
不意に、聞き慣れた声が私の名を呼んだ。
振り返ると、そこには作業着を泥で汚し、大きな材木を担ごうとしていたトーマスが立ち尽くしていた。彼は私を見た瞬間、担いでいた荷物を地面に落とした。重い衝撃音が響く。彼は信じられないものを見るような、それでいて、ずっと探し続けていた宝物を見つけたような瞳で私を見つめた。
「エリー……本当にエリーなのか!? 生きていたんだな……公爵邸へ行ったきり、一度も連絡がなくて、俺は……」
トーマスが、私の方へ一歩、また一歩と駆け寄ってくる。
彼の瞳には、一欠片の計算も、裏切りの気配もなかった。そこにあるのは、ただひたすらに私を案じ、無事を喜ぶ、剥き出しの善意だけだ。
近づくと、おがくずの匂いがした。あの日と同じ、太陽に干した布のような、乾いた温もりの匂い。ヴァレリアの屋敷にあった冷涼な香気とは対極にある、人の手で生きている者の匂い。
「良かった……本当に良かった……! ひどい格好じゃないか。顔色も悪い……なあ、もういいだろ。もう、あんな冷たい場所にはいなくていい。帰ってこいよ。親父も、エリーのことをずっと心配してたんだ。俺たちの村の、あの図書室に戻ろう……前みたいに、本を読んで笑ってくれれば、それでいいから」
トーマスが、震える私の手を握ろうと、無防備に手を伸ばした。
労働で荒れた、温かくて大きな手。硬く、節くれだった、毎日を誠実に生きている者の手。その掌からは、私がこの一ヶ月間、一度も触れることのなかった人間の体温が伝わってくるようだった。
――その手を見た瞬間、不意に、一枚の景色が脳裏をよぎる。
夕暮れ。窓から差す橙色の光の中で、樫の机に向かう自分。傍らには図書館から借りてきた古文書の束と、分類番号を書き込んだ紙片が几帳面に並んでいる。隣の部屋からは、鉋が木肌を撫でる規則的な音。やがてトーマスが「飯にしよう」と声をかけて、二人で小さな食卓を囲む――
あの日、噴水の縁で彼が語ってくれた未来図。がたつかない樫材の机。日当たりのいい部屋が二間ある貸家。私が好きなだけ本を読んでいれば、彼は隣で鉋の刃を研いでいるから、と。
あの穏やかな橙色の光の中で、私は世界のすべてが優しいものだと、本気で信じていた。
あの頃の私は、知らなかったのだ。世界にはヴァレリアのような存在がいることも、ルシアンのような深淵があることも。
言葉が、出なかった。
彼の優しい言葉、私を思いやる純粋な心。それらが今の私の耳には、どんな冷酷な罵倒よりも鋭く、鼓膜を突き刺した。
(……ああ。そんな風に、私を見ないで)
私は、彼の伸ばした手から、逃げるように半歩下がった。
トーマスの手が、困惑したように空を切る。
私は、彼に何を言えばいいのか分からなかった。
私はもう、貴方の知っているエリーではないの、と?
私はあの人と共に世界を支配し、そして裏切られ、魂を半分殺してきたのよ、と?
そんな言葉を、この清らかな光の中に投げ込むことなど、私にはできなかった。
「……エリー? どうしたんだよ……何か、ひどいことをされたのか? まさか、あの屋敷で、誰かに……」
「……違う。違うの、トーマス」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、ひび割れて震えていた。
トーマスが、もう一歩踏み込んできた。彼の大きな手が、今度は肩に触れようとする。その手には木屑がこびりついていて、爪の隙間にまで木の繊維が入り込んでいた。朝から晩まで、重い材木を運び続けた手。ずっと変わらない、あの頃のままの手。
私は、その手が肩に届く前に、また身を引いた。
「違うって……何がだよ。エリー、お前、震えてるじゃないか。なあ、何があったか知らないけど、帰ろう。難しいことなんて、もういいだろ。お前はお前だ。何が変わったって、俺にはお前が……」
「私を見て、トーマス」
私は、無理やり顔を上げた。
かつての私にはなかった目。人が隠したつもりの嘘を見抜き、人の言葉の奥に隠れた構造を解体してしまう目。他者を跪かせるための圧倒的な気位を、至近距離で浴び続けた者だけが宿す光。
それを隠す術を、今の私は持っていなかった。
私の瞳がトーマスを射抜いた瞬間、今度は彼の足が半歩、後ろに下がった。
大きな身体が、わずかに強張る。そして彼は、まるで見知らぬ猛獣と目が合ってしまったかのように、瞳の奥に本能的な怯えを浮かべた。
「……お前……そんな目をする奴だったか……?」
その呟きは、トーマスの口から零れた、偽りのない本音だった。
彼は気づいてしまったのだ。目の前にいる女が、かつて彼が守ろうとした、静かな場所が似合うはずだったエリーとは、もはや別の生き物であることに。
「俺の知ってるエリーは……そんな風に人を見る子じゃ――」
トーマスの声が、かすかに震えている。
その震えこそが、私の胸を最も深く抉った。
ああ、ほら。貴方でさえ、私を直視できない。
貴方の目には、私はどう映っているのだろう。血の通わない人形のように見えているのか。それとも、人の形をした何か得体の知れないものに見えているのか。
どちらであっても、それはおそらく正しい。
私の方を見つめる彼の瞳に、先ほどまでの歓喜はもうなかった。代わりに滲んでいたのは、底知れぬ恐怖と、愛した者が別人になっていたことへの、行き場のない悲しみだった。
一方、私の俯いた視界の端で、泥に汚れた自分の靴が見える。この一ヶ月、私はこの靴で、誰かを踏み台にし、誰かの人生を書き換え、支配の快楽に浸ってきた。
トーマスの手は、木を削り、誰かの家を建てるために汚れている。
私と彼の間に流れている時間は、もはや同じ河のものではなくなっていた。
「……だったら、教えてくれよ」
トーマスが、絞り出すように言った。
「何がお前をそんな風に変えたんだ? 俺には分からないかもしれない。でも、聞くことくらいはできるだろ? だから……お前一人で行こうとするな」
その言葉は、真っ直ぐだった。
飾りもなく、計算もなく、ただ私を引き留めたいという一心だけで紡がれた、不器用な懇願。
それが、余計に痛かった。
もし今、この手を取ったら。トーマスと村に帰り、あの窓際の書斎に座ったら。彼が約束してくれた樫の机の前で、古文書を開いたら。
――きっと、頁をめくるたびに思い知らされる。この記録の裏側で何が動いていたのか、私は見せてもらえる場所にいたのに、自分から目を閉じたのだと。
あの橙色の光の中で本を読む自分は、幸せな顔をしながら、何も知らないまま老いていく。自分が何を知らないかすら知らないまま、与えられた小さな幸福を本物だと信じ込んで。
私が自らその逃げ道を断ち切ったのに。
あの時は、まだ戻れるかもしれないと思っていた。いつか勝ち取ったものを手にして、胸を張って帰れる日が来るかもしれないと。
けれど今は、分かってしまった。私はもう、静かに読む人生では息ができない身体になってしまったのだ。歴史を動かす側の景色を一度でも見てしまった者は、窓際の書斎で頁をめくるだけの暮らしには、二度と戻れない。
それは汚れたからではない。渇きの形が変わってしまったのだ。
「……教えられないの、トーマス」
私は、首を横に振った。
「貴方をそこへ連れていくことはできない。私が見てきたものは……貴方が立っているその場所からは、決して見えてはいけないものなの。貴方の隣は……貴方が用意してくれたその場所は……今の私には、眩しすぎるから。あの樫の机、日当たりのいい部屋、鉋の音――あの夕暮れが、温かくて、優しくて……息をすることさえ、苦しいのよ」
「は? なんで……そんな……」
トーマスの声が途切れた。彼は言葉を探すように口を開き、閉じ、また開いた。そして、ようやく一言だけ、小さく呟いた。
「……お前がそう思うなら、俺はどうすればいいんだよ」
その声には、怒りも非難もなかった。ただ、自分の無力さに打ちのめされた人間だけが発する、静かな諦めが滲んでいた。
私は、その声を聞いてはいけなかった。聞いてしまえば、振り返ってしまう。振り返れば、もう行けなくなる。
「……ごめんなさい、トーマス。貴方のそのあたたかな心に、私はもう、相応しくない」
私は、懐に隠した一通の手紙を強く握りしめた。この汚れた手で、この呪われた知性で、私はこれから真実という地獄を歩き続けなければならない。
そこに、トーマスを連れて行くわけにはいかなかった。それは、彼という光を、私の影で塗り潰してしまうことに他ならないから。
「さようなら、トーマス……貴方は、その眩しい世界で、どうか幸せに生きて。私のことなんて、最初からいなかったものだと思って……忘れてちょうだい」
「エリー? おい、待てよ、エリー!!」
私は背を向け、駆け出した。
「待ってくれ! エリー!!」
背後で叫ぶ彼の声が、雨上がりの冷たい風に掻き消されていく。
走りながら、私は思った。トーマスはきっと、しばらくあの場所に立ち尽くしているだろう。落とした材木を拾い上げることも忘れて、私が消えた路地の先を見つめているだろう。そしていつか、何事もなかったかのように仕事に戻り、夕方には父親と食卓を囲む。その日常の中で、少しずつ私のことを忘れていってくれればいい。
涙が溢れそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて堪えた。
泣く資格など、私にはない。
すべてを捨てて、自らの意志でこの孤独を選んだのだ。あの橙色の光に背を向け、歴史の真実という重荷を背負ったその瞬間から、私の居場所は、この世界のどこにもなくなっていたのだ。
雨上がりの夜空に浮かぶ月が、冷たく私を見下ろしていた。
その光さえ、今の私にはあまりにも眩しすぎた。
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