28. 歴史はあなたの所有物ではない
王都を飲み込むような雷鳴が、公爵邸の重厚な石壁を震わせていた。
窓を叩く激しい雨音は、まるですべての偽りを洗い流そうとする天の糾弾のように聞こえる。私は自室の鏡の前で、最後の手入れを終えた。纏っているのは、閣下が私に与えた最高級の絹のドレスだ。肌に貼りつく絹の冷たさに、閣下の指先の温度が重なる。この布地には、あの方の残り香が染みついているような気がした。
指先には、閣下から下賜された、ヴァリエール家の裏の紋章が刻まれたサファイアの指輪がはめられている。これ一つで、王国のあらゆる公文書館の門が開き、私兵の一部すら動かせる。
指輪を見つめる手が、微かに震えていた。恐怖なのか、名残惜しさなのか、自分でも分からない。ただ、この青い石に閉じ込められた光が、かつてよりずっと冷たく見えることだけは確かだった。
「……準備はいいのかい、エリシア」
影の中から、音もなくルシアンが現れた。彼はいつものように皮肉な笑みを浮かべようとしていたが、その瞳の奥には、これから起こる破滅を予感した隠しきれない戦慄が宿っていた。
「君がその懐に隠しているのは、閣下が望む『偽りの果実』か。それとも、すべてを灰にする『真実の毒』か……君の知性は、どちらが生き残るための正解か、百も承知のはずだ」
「ルシアン様……正解など、この世には最初からありませんでした。あるのは、ただ、自分が自分でいられるための『選択』だけです」
自分の声が、恐ろしいほど平坦に響いた。まるで他人の声を聞いているようだった。
私はルシアンを突き放すように、一歩前へ踏み出した。
ルシアンは私の横顔を、まるで見知らぬ怪物を見るような目で見つめた。私が『怪物』から『人間』に戻ろうとしている――その、彼にとっては最も理解不能で、最も恐ろしい変節に、彼は言葉を失っていた。
「……さようなら、ルシアン様。貴方が作り上げた『最高傑作』は、今日、ここで壊れます」
私は彼を置き去りにし、ヴァレリアの待つ執務室へと向かった。
◆◇◆
回廊を歩く一歩一歩が、心臓を直接地面に叩きつけているように重い。すれ違う衛兵たちが、私のただならぬ気配に息を呑み、道を開ける。私は自らの魂を鋼の檻に閉じ込め、執務室へと足を運んだ。
執務室の前で、足を止める。
分厚い扉の向こうから、暖炉の火が爆ぜる微かな音と、書類をめくる乾いた紙の音が漏れてきた。それだけで、閣下がどんな姿勢で座っているか、どんな表情で書面に目を落としているか、手に取るように分かってしまう。二年かけて刻み込まれた記憶が、私の意思とは無関係に、あの方の輪郭を完璧に描き出す。
この二年、私はこの音を聴くだけで胸の奥が甘く疼いていた。この扉の向こうにいるのは、私を泥から引き上げ、知性という翼を与え、世界の裏側を見せてくれた人だ。
泥を啜っていた私に、初めて名前を呼んでくれた人だ。
――まだ、引き返せる。
その声が一瞬だけ、脳の奥で軋んだ。偽造された記録を差し出し、いつものように跪き、いつものように「お役に立てて光栄です」と微笑めば、すべてはこのまま続く。あの方の隣という、地獄で最も美しい場所に。
懐の中で、二つの書類が心臓を挟むように重い。
私は唇を噛み、扉に手をかけた。
重厚な扉が開かれる。
ヴァレリアは窓を背にし、夜の闇と雷光を背景にして、玉座のような椅子に深く腰掛けていた。
「来たわね、エリシア」
ヴァレリアの声は、地上の喧騒をすべて拒絶するような透明な静寂に満ちていた。彼女はゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような青い瞳で迎えた。
その瞳を見た瞬間、胸の底が鈍く疼いた。
まだ、この人が美しいと思ってしまう。この期に及んで、なお。
自分の身体が、まだ閣下に向かって傾こうとしていることが、何よりも恐ろしかった。
「期待しているわ。あなたが私のために書き換えた、マクガヴァン家の汚れた歴史……それを記述することで、あなたは私の『影』であることを永遠に証明したのね」
私は、閣下の数歩手前で、いつものように完璧な角度で跪いた。
膝が床の冷たさを伝えてくる。この石の硬さを、私はもう身体で覚えてしまっている。何十回、何百回と、この場所で頭を垂れた。そのたびに、閣下の靴先が視界に入り、その靴先がわずかに私のほうを向くだけで、胸の奥が熱くなった。
懐には、偽造された記録簿と、そして、あの少年の本物の手紙が入っている。
今、ここで偽造された記録を差し出せば、明日からもこの贅沢な地獄の女王として君臨できる。閣下の隣で、彼女の熱を感じ、彼女の意志を執行し、世界を支配する陶酔に浸り続けることができる。
それは、甘い毒だった。喉の奥まで染み渡るほどに。
閣下の靴先が、今もわずかに私を向いている。それに気づいた瞬間、涙腺の奥が熱くなった。
「……閣下。ご報告申し上げます」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
声が掠れた。膝が震えていた。それでも、瞳だけは閣下の青い深淵から目を逸らさなかった。
「マクガヴァン侯爵家の調査、すべて完了いたしました……閣下が望まれた反逆の証拠。それは、どこにも存在いたしませんでした」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついたような気がした。
暖炉の火さえも、その熱を失ったかのように静まり返る。
ヴァレリアの青い瞳の焦点が、ほんの一瞬だけ外れた。すぐに戻ったが、その一瞬を、私は見逃さなかった。閣下の白い指先が肘掛けを掴み、古い木が軋む音がした。
「エリシア。今の言葉、聞き捨てならないわね……私の耳が狂ったのかしら。それとも、あなたのその優秀な脳が、あまりの重圧に壊れてしまったのかしら?」
「いいえ……壊れていたのは、これまでの私です。閣下の視界を自分のものだと錯覚して、疑うことすら忘れていたのですから」
私は立ち上がり、懐からあの少年の古びた手紙を取り出した。
「閣下、これをご覧ください……マクガヴァン家の嫡男が、戦場で死に際に書いた手紙です。捏造された反逆の暗号などではありません。母への愛と、祖国への変わらぬ忠誠……真実だけの記述が、ここには記されています」
「真実ですって?」
ヴァレリアが、椅子からゆっくりと立ち上がった。
彼女が一歩歩むごとに、床から凍てつくような波動が広がる。暖炉の炎が一瞬、吸い込まれるように小さくなった。
「真実など、誰が決めるというの……それを決めるのは、力を持つ者。つまり私なのよ、エリシア」
ヴァレリアの声は短く、低く、そして刃のように正確だった。
「そんなゴミのような紙切れ一枚のために、私を裏切るというの?」
「裏切ってなどおりません……私は、私自身を取り戻しただけです」
私は、手紙を机の上に静かに置いた。指先が震えていた。それが見えていることは分かっていた。それでも構わなかった。
この手紙は、誰の手も加わっていない、あの少年の肉声そのものだ。かつて私が学んだすべて――史料を読み、真偽を秤にかけ、権力の都合ではなく事実の側に立つという、学問の最も原初の誓い。閣下の隣で私はそれを捨てた。今、取り戻す。
「閣下――歴史は、あなたの所有物ではありません」
私がその言葉を放った瞬間、閣下の唇が微かに開き――そして、音もなく閉じた。
沈黙が落ちる。雷鳴だけが、二人の間を埋めていた。
「……そう。それが、あなたの出した答えなのね……エリシア・ガレット」
ヴァレリアの声から、一切の感情が抜け落ちた。
それは、彼女が私を『人間』として認識することを完全にやめた音だった。
「あなたは、泥の中から引き上げても、結局は泥を愛する卑しい平民でしかなかった……あなたが手に入れたその知性も、美貌も、すべては私が与えた幻。それらを剥ぎ取られたとき、あなたに何が残ると思っているの?」
「……何も残りませんわ……誇り以外は」
私は、自らの指先から、サファイアの指輪をゆっくりと引き抜いた。
――指が、動かなかった。ほんの一瞬、身体が拒否した。今までずっと嵌めていた指輪の跡が、皮膚に食い込んで消えなくなっている。
それでも、私は引き抜いた。
ヴァリエール家の紋章が刻まれた、権力の象徴。
私はそれを、閣下の足元へ放り捨てた。
カラン、という虚しい金属音が、大理石の床に響く。
それは、私たちが共有していた『共犯関係』が、音を立てて砕け散った音だった。
「返上いたします……私は、閣下の『影』であることを、ここで辞めさせていただきます」
「……消えなさい、エリシア。二度と、私の視界に入らないで」
ヴァレリアは、背を向けて窓の外の嵐を眺めた。
雷光が彼女の横顔を白く照らし、すぐに闇が呑む。その一瞬の輪郭が、あまりにも美しくて、私の胸を抉った。
この人を、私は憧れていたのだと思う。支配と呼ぶにはあまりに甘く、愛情と呼ぶにはあまりに曖昧な、名前のつけようのない感情で。
その背中は、以前よりもずっと孤独で、そして手が届かないほど遠くに見えた。
私は、深く一礼を捧げた。
頭を下げた瞬間、白樺の香りがした。この部屋に満ちている、冬の湖のような冷たい芳香。閣下に仕えた日々、私がいちばん近くで吸い続けた匂い――
それが、私の知性を磨き、私を地獄から救い上げた、愛すべき怪物への、最後の手向けだった。
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