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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第4幕 真実だけは譲れない

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27. それでも、筆は折れない

 地下公文書館の静寂は、もはや私を優しく包み込む隠れ家ではなかった。それは、私が犯そうとしている大罪を冷徹に見つめ続ける、無数の死者の眼差しに満ちた檻だった。


 カチャリ、と硬い石の床を叩いた鉄筆の音が、鼓膜の奥でいつまでも止まない。落ちた筆から溢れた黒いインクが、床の僅かな窪みに溜まり、まるでこの聖域に穿たれた底なしの虚無のように見えた。


 手が、震えていた。


 拾えない。あの筆に、もう触れられない。


 私は、インクで汚れた自分の両手を見つめた。


 かつて、地下資料室の片隅で古文書に没頭していた頃、私の指先は常にインクの汚れに塗れていた。それは、暗闇の中から真実という名の光を掘り起こした誇らしい証であり、名もなき平民の娘が知性という翼で世界を羽ばたこうとした、泥臭くも美しい努力の代償だった。あの頃の汚れは、石鹸で洗えば容易く落ち、その下には常に清廉な志が息づいていた。


 けれど、今の私の手を汚しているこの黒い染みは、どうだろうか。


 他者の尊厳を塗り潰し、死者の切実な祈りを簒奪し、歴史という名の鏡を叩き割るための汚れだ。どれほど強い洗剤で洗おうとも、魂の芯まで染み付いてしまったこの汚れを、落とす術などこの世には存在しない。


「……拾わないのかい、エリシア。それとも、あまりの重罪に、指先まで麻痺してしまったかな?」


 闇の奥、積層された羊皮紙の影から、ルシアンの声が冷酷な鞭のようにしなった。


 彼はゆっくりと歩み寄り、床に転がった鉄筆を自らの磨き抜かれた靴の先で、弄ぶように軽く転がした。カチ、カチと乾いた音が、静寂の中で不吉なメトロノームのように時を刻む。


「その筆を拾い上げ、あの一行を書き終えれば、君はヴァレリアの望む『完璧な影』になれる。マクガヴァン侯爵家は明日には歴史の表舞台から永遠に抹消され、君の地位は鉄の城壁に守られたものになる。もう泥を啜る必要も、図書室のネズミのように誰かの顔色を伺う必要もない……それとも何だい? 今さら善人ぶるつもりかい? あんな、戦場で死んだ子供の走り書きに、君の全部を賭けるのか?」


「……一文の価値もない、ですって?」


 私は、震える手でマクガヴァン家の少年の手紙を握りしめた。古い羊皮紙は脆く、私の指先の湿気を吸って、今にも崩れ落ちそうだった。


 歴史とは、勝者の日記帳である。ヴァレリアはそう断じ、私自身もその言葉を真実として受け入れ、自らのアイデンティティさえも彼女という巨大な光の中に埋没させてきた。知性とは世界を屈服させるための暴力であり、歴史とは権力を正当化するための道具であると。


 けれど、この手紙に宿る、胸を掻きむしるような痛みや、叶わなかった祈りまでもが、ただの文字情報の羅列だとは、私の魂が拒絶していた。


「ルシアン。貴方は、かつて仰いましたわね。私を泥の中から引き上げたと……でも、今なら分かります。貴方が引き上げたのは、エリシア・ガレットという一人の人間ではなく、貴方の飽くなき渇きと支配欲を満たすための、精巧な『怪物』だったのではないかしら」


「ふっ……気づくのが遅すぎだ、僕も、君も。さあ、選びなよ。怪物のまま、ヴァレリアの隣で甘い夢を見続けるか。それとも、泥沼に逆戻りして、誰にも顧みられない塵として消えるのか――もっとも、君にはもう泥に戻る度胸もないだろう? あの暗くて冷たい場所がどんなものだったか、忘れたとは言わせないよ」


 ルシアンの嘲笑を背に、私は公文書館を逃げるように後にした。


 石造りの螺旋階段を駆け上がるたび、肺が焼けるような熱を帯び、心臓が肋骨を突き破らんばかりに打ち鳴らされる。地上に出ると、窓から差し込む朝の光が、網膜を刺すように眩しかった。


 王宮の回廊を進む私の足取りは、いつの間にか、自分でも驚くほどに優雅さを失っていた。私は、広間の壁を飾る大きな姿見の前で、吸い寄せられるように立ち止まった。


 鏡の中に映っているのは、ヴァレリアから下賜された最高級の漆黒のドレスに身を包み、非の打ち所のない美貌を湛えた女だ。一ヶ月前の私が見れば、眩暈を覚えるほどの権力と洗練を手に入れた、到達点としての姿。


 けれど、その瞳をじっと見つめていると、不意に視界が歪んだ。


 鏡の中の私の顔が、かつての、分厚い眼鏡をかけ、埃にまみれた茶色のワンピースを着て、爪の間を常にインクで汚していた、あの自分自身の顔と重なり、激しく明滅し始める。


 ――あの日のことを、思い出した。


 地下資料室の一番奥、誰も寄りつかない棚の最下段に、崩れかけた帳簿の束があった。王国草創期の徴税記録。ページの大半は虫に食われ、数字の列はかすれ、学術的な価値などないと誰もが見向きもしなかった代物だ。


 けれど十四の私は、そのかすれた数字の列を一行ずつ指で辿りながら、息を呑んだ。余白に、誰かが爪で刻むように書き残した走り書きがあったのだ。


 ――麦三束。これだけあれば冬を越せる。


 帳簿を記した無名の文官が、公の数字の傍らにこっそり残した、ただそれだけの言葉。けれどその七文字に、寒村で飢えに怯える民の震えが、彼らを何とか生き延びさせたいと願った一人の役人の切実さが、凝縮されていた。


 それが、私がはじめて歴史に触れた瞬間だった。数字や年号の羅列ではなく、遠い過去を生きた人間の体温が、紙越しに指先へ伝わってきた、あの震え。


 私は今でも覚えている。涙が止まらなくなって、薄暗い資料室の床にうずくまったこと。自分もいつかこうした声を拾い上げられる人間になりたいと、心の底から思ったこと。


 ――そして今、私はその声を消す側にいる。


 鏡の中の昔の私が、今の私をじっと見つめている。責めるようにではなく、ただ悲しそうに。


 その視線に射抜かれて、私はようやく理解した。ヴァレリアの『あなたは私だ』という呪縛の正体を。彼女と精神的に同一化しているとき、確かに万能感に満たされていた。自分という矮小で孤独な個を捨て、巨大な意志の一部になることは、これ以上ない救いであり、陶酔だった。けれどその代償として差し出していたのは、あの帳簿の余白に触れて泣いた十四歳の私――エリシア・ガレットという人間の、根幹そのものだ。


 私は自室に戻り、重厚な扉に背を預けて、糸が切れた人形のようにずるずると座り込んだ。


 手の中に残った、少年の手紙の感触が、焼けるような重みを持って私を苛む。


 これをヴァレリアに差し出し、「マクガヴァン家は歴史の不浄でした」と報告すれば、すべては元通りになる。私は再び、彼女の隣という至高の席で、甘美な陶酔に浸ることができる。


 けれど、もし私が真実を選べば――?


 想像するだけで、全身の血が凍りつく。


 ヴァレリアの、あの氷よりも冷徹な瞳。一度でも不要と判断された瞬間に向けられる、絶対的な拒絶と切り捨ての宣告。再びあの泥の中に、誰からも顧みられず、価値など欠片もない塵として放り出されること。


「……嫌。それだけは、絶対に耐えられない……」


 私は頭を抱え、激しい葛藤に身をよじらせた。


 そのとき、部屋の扉が静かに、だが拒絶を許さない重みを持ってノックされた。


「エリシア。入るわよ」


 心臓が、喉から飛び出すかと思った。ヴァレリアだ。


 私は慌てて少年の手紙を寝台の枕の下に隠し、乱れた髪と息を整えて立ち上がった。一瞬で、表情筋を鋼のように固定し、完璧な侍女の仮面を被り直す。震える指先を隠し、扉を開いた。


 そこには、朝の光を背負い、神々しいまでの威厳と美しさを湛えたヴァレリアが立っていた。彼女が放つ冷気と香水の香りが、一瞬で部屋の空気を支配する。


「公文書館での仕事は、首尾よく終わったのかしら? マクガヴァン家の真実は、私の望む形で、無事に葬り去られた?」


 彼女の鋭い青い瞳が、私の内側にある綻びを透かし見るように注がれる。


 その視線に触れた瞬間、私の心の中にあったはずの葛藤の火が、圧倒的な恐怖という冷水によって、一時的にかき消された。


 この人に認められたい。この人の一部であり続け、その温もりの中にいたい。


 その根源的な依存心が、私の喉を締め付け、嘘の言葉を紡がせる。


「――はい、ヴァレリア。調査は、概ね順調に完了いたしました。ただ、資料の整合性を取るために、細部の記述においてもう少しだけお時間をいただきたく存じます。貴女様の覇道を飾る、より完璧な記録にするために」


 私の声は、自分でも驚くほど平坦で、機械のように正確だった。嘘の気配など、微塵も感じさせない完璧な演技。


 ヴァレリアは、私の瞳を数秒間、逃さぬようにじっと見つめ続けた。その数秒が、永遠の刑罰のように感じられた。やがて、彼女はふっと、薄い氷が春の光に溶けるような、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。


「そう。細部にまで完璧を期すのは、あなたの最大の美徳ね。いいわ。明日の朝まで待ちましょう。あなたが書き換える、私だけの新しい歴史。それがどれほど私を悦ばせてくれるか、期待しているわよ」


 ヴァレリアは、私の頬を、まるで愛おしい愛玩動物を慈しむように優しく撫で、そのまま悠然と去っていった。


 その指先の残した熱が、今の私には、絞首刑の縄のように重く感じられた。


 一人残された部屋で、私は崩れるように膝をついた。


 猶予は、あと一晩。


 明日になれば、私は決断しなければならない。


 ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールの忠実な影として、このまま彼女の中に溶けてしまうか。


 それとも、エリシア・ガレットという一人の歴史家として、あの手紙に宿る祈りのために――。


 反旗を翻す、などと。


 そんな言葉を、私は本当に選べるのだろうか。


 窓の外、王都の空は異様なほど静かだった。嵐の前の、息を殺したような沈黙。


 私は、インクで汚れた自分の両手を、ただじっと見つめ続けていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「歴史はあなたの所有物ではない」

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