26. 歴史を汚せと命じられた日
今朝、ヴァレリアは朝の紅茶に一度も口をつけなかった。
いつもなら私が淹れた一杯目を静かに味わい、二杯目で初めて言葉を発する。それが閣下の朝の儀式だった。けれど今朝、閣下はカップを受け取ることすらなく、化粧台の前から振り返り、私の顎を指先で持ち上げた。
昨夜の寝室の熱が、まだ指先に残っているのが分かった。
「エリシア。王宮の秘密公文書館へ行きなさい」
閣下の声は、驚くほど静かだった。
「マクガヴァン侯爵家の起源を、呪われた反逆の徒へと書き換えてくるのよ。彼らの先祖が王室に仇なした証拠を作り、彼らの血筋そのものを、この国の歴史から汚物として排除しなさい」
マクガヴァン侯爵家。ヴァリエール公爵家と数代にわたって政争を繰り広げてきた、王国でも指折りの名門だ。彼らを政治的に抹殺するだけでは足りない。歴史という『根』そのものを腐らせ、存在を不浄として排除する。
それがどれほど途方もない命令か、閣下は分かっていてお命じになっている。私の目を見つめる青い瞳は、昨夜と同じ暗い光を帯びていた。試すような、そして楽しむような光を。
「道具はルシアンに用意させてあるわ。因果を書き換える鉄筆と、魔導インク。あの男、こういう裏の仕事だけは優秀ですもの」
閣下の唇が、かすかに弧を描く。
「できるわね、私のエリシア?」
「御意にございます、閣下」
私の声は滑らかだった。胸の奥で何かが軋んだような気がしたが、閣下の指先がまだ顎に触れていて、その熱がすべてを塗り潰した。
閣下は満足げに微笑み、私の顎から手を離した。指先が離れた瞬間、一瞬だけ身体の芯が冷えた。けれどすぐに、閣下の命令が新しい熱となって私を満たしていく。与えられた使命がある。それだけで、私は呼吸ができた。
王宮へ向かう馬車の中で、私は窓の外を見なかった。
頭の中では既に、マクガヴァン侯爵家に関する知識が自動的に整理され始めていた。家系図の分岐点、主要な文書の保管場所、年代ごとの筆記具の変遷。闇の索引に蓄えた情報が、ひとりでに配列を変えていく。
歴史を壊すためにではなく、歴史を『作り直す』ために。
◆◇◆
王宮の地下深く、幾重にも連なる結界の果てに、秘密公文書館は存在した。
この王国の光と影、そして葬り去られたはずの真実が呼吸を止めている、凍てついた墓所。私の手元を照らすのは、一振りの魔導灯が放つ青白い光だけだ。その光が、壁一面を埋め尽くす膨大な羊皮紙の束を、冷たい質感で浮かび上がらせていた。
地上の喧騒は届かない。ここには私と、死んだ時間だけがある。
机の上に、ルシアンが用意した道具が並んでいた。
因果を書き換える鉄筆は、持つだけで指先が痺れるほどに重い。魔導インクは蓋を開けると鉄錆に似た匂いがした。この筆を一振りすれば、紙に記された輝かしい献身の記録は、裏切りの記録へとすり替わる。
私は侯爵家の家系図が記された重厚な記録簿を開いた。
革の表紙を開いた瞬間、指先が勝手に紙の状態を読み取っていた。羊皮紙の鞣し方、経年による繊維の変化、余白に残された蝋の滴痕。この文書が書かれた時代の空気が、指の腹を通じて流れ込んでくる。かつて地下資料室で何千という古文書に触れながら磨いた感覚が、呼吸のように起動する。
――この記録簿は、本物だ。数百年の時を生き延びた、正真正銘の一次史料。
その認識が、学者として訓練された身体の深い場所を叩いた。
かつての私――地下資料室の『書庫のネズミ』と呼ばれていた頃の私にとって、歴史の改ざんは、神を殺すよりも重い大罪だった。歴史家とは、過去の声に耳を傾け、それを次代へと繋ぐ沈黙の証言者でなければならない。歪曲、捏造、抹消。それらは学問に対する冒涜であり、自らの存在意義を根底から否定する行為だ。
けれど、今の私の顎には、まだ閣下の指先の熱が残っている。
私は今、歴史家ではない。ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールの意志をこの世界に刻み込むための、美しき筆に過ぎない。
鉄筆の先を紙に落とした瞬間、心臓が痛いほどの鼓動を刻んだ。
(――やめて。それは、取り返しのつかないことだわ)
脳裏で、分厚い眼鏡をかけていた頃の私が、必死に悲鳴を上げている。本を愛し、真実に救いを求めていた、あの無力な平民の娘。
けれどその声は、閣下の声に焼かれ、霧散していく。
「閣下の望みは、私の望み。閣下の真実は、私の真実」
私は、文字を綴り始めた。
まず、マクガヴァン家の初代当主の英雄譚に手をつけた。建国期の戦役における武勲の記録。その日付を二日ずらし、王室からの出陣命令よりも前に独断で軍を動かした形跡を作る。たったそれだけで、英雄は僭越者に変わる。
鉄筆がインクを吸い、羊皮紙の上を滑る。新しい文字が古い文字の上に重なっていく。けれど、筆を運ぶたびに指先が拾ってしまうのだ。元の文字を書いた人間の筆圧を。書記官の癖――一画目をわずかに右に傾ける几帳面な運筆、句読点の前に必ず入る微かな溜め。二百年以上前に死んだ名もなき書記官の息遣いが、改ざんの最中にも私の指を通じて聞こえてくる。
その声を振り切るように、次の記録に手を伸ばした。
二代目の国境警備での功績。交易路の整備に費やした資金の出処を書き換え、王室の軍事予算から私的に流用した記録に仕立てた。辻褄を合わせるために、同年代の国庫出納帳にも手を加える必要がある。私は記憶の中から該当する文書の棚番号を引き出し、迷いなく手を伸ばした。
三代目。四代目。筆が進むたびに、数世紀にわたる誇り高き血筋が、見るも無惨な泥水へと変質していく。年代の整合、筆跡の模倣、文書間の相互参照。かつて闇の索引を構築するために磨いた技術が、今は完璧な偽史を編むために機能している。
五代目の記録に差し掛かったとき、私は一度筆を止め、棚から別の文書を引き出した。王室の叙勲記録だ。侯爵家への勲章授与の記述を残したまま改ざんすれば、矛盾が生じる。私は叙勲の理由を監視と牽制のためと読み替えられるよう、文脈だけを巧みに汚した。文字は一字も変えていない。解釈だけが変わる。これが最も発覚しにくい改ざんだった。
自分の技術に、自分で戦慄した。
史料を正確に読む力と、史料を完璧に壊す力は、同じ根から伸びている。私が改ざんの綻びを見つけられるのは、本物を見抜く目を持っているからだ。壊す精度が高いほど、読む力の深さが証明されていく。その矛盾が、鉄筆を握る指の奥で、鈍く、確かに疼いていた。
けれどその疼きすら、快感の一部になっていく。
快感だった。
自分の手の中で、歴史という強固な構造物が、飴細工のように容易く捻じ曲げられていく。私が『悪』だと定義すれば、それは未来において『事実』となる。私が消えろと願えば、その人間は最初からこの世にいなかったことになる。
この全能感。私は、自分が描き出す嘘の完成度に陶酔していた。これこそが、知略の果てに辿り着いた真の支配だ。閣下が私にこの仕事をお任せになったのは、この快感を分かち合うためだったのではないか。二人でこの世界の理を弄ぶ悦びを。
――けれど、その陶酔の最中。
一通の、黄ばんで脆くなった手紙が記録簿の間から滑り落ちた。
折り畳まれた羊皮紙は端が焦げており、茶色い染みがいくつも散っていた。血か、泥か、あるいは涙か。開くと、紙は乾いた音を立てて軋んだ。何度も折り直された痕がある。誰かがこの手紙を、繰り返し読んだのだろう。
それは、マクガヴァン侯爵家の若き嫡男が、自らの死を悟った戦場で、母へと宛てた最期の書簡だった。
手に取った瞬間、指先が読み取ってしまった。改ざんしようとする意志よりも先に、学者の指が勝手に動いた。紙の薄さ、焦げの位置、折り痕の深さ。戦地から送られた書簡特有の劣化。そして、文字を追うまでもなく伝わってくる筆圧の弱さ。この書き手は、利き手を負傷していた。書いては消し、消しては書き直している。紙の繊維が毛羽立っているのは、何度も言葉を選び直した痕だ。
この少年は、最期の言葉を選ぶのに、どれほどの時間を費やしたのだろうか。
『母上。俺はたぶん、明日の朝日を見ることはできません』
そこには、知略も、政治も、虚飾もなかった。ただ、愛する家族を守れなかった悔しさと、妹の婚礼に出られないことへの詫びと、祖国への変わらぬ忠誠が、震える文字で綴られていた。
最後の一行は、ほとんど読み取れないほどに滲んでいた。
『どうか、俺のことを誇りに思ってください』
その文字を見た瞬間、私の指先が凍りついたように動かなくなった。
鉄筆を握っていた手が、史料を読む手に戻っていた。いつ切り替わったのかも分からない。改ざんの道具を持つ指と、史料の声を聴く指は、同じ指だった。同じ訓練が、同じ感覚が、この手紙の中に人間の体温を見つけてしまった。壊すために磨いた技術が、壊すべきでないものの重さを、誰よりも正確に測ってしまった。
地下資料室で、埃まみれの古文書の中に人の体温を見つけるたび、私は生きていてよいのだと思えた。歴史とは、死者が生者に手を伸ばす行為だった。
この少年は、数百年の時を超えて、今、私に手を伸ばしている。
そしてその手を、私は鉄筆で切り落とそうとしていた。
「っ……ああ」
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
私が筆を動かし続ければ、この少年の最期の願いさえも、反逆の暗号へと書き換えられていく。母への手紙が、内通の証拠になる。死を悟った若者の祈りが、国家への裏切りの告白に変わる。
これは支配ではない。これは虐殺だ。死者の声を奪い、その生を最初からなかったことにする、最も卑劣な暴力だ。
私は、自分が作り上げた『最強の淑女』という仮面が、内側から剥がれ落ちていくのを感じた。
けれど、陶酔が完全に消えたわけではなかった。閣下の指先の熱が、まだ顎に残っている。閣下の声が、まだ耳の奥で囁いている。その甘さが、吐き気と同時に私を引き留めていた。
筆を握る手が震える。
書きかけの文字が、歪な線を描いて紙を汚した。
(私は、何を、しているの?)
目の前にあるのは、私が捏造した、完璧で、血の通っていない偽史。その隣にあるのは、汚れて、不器用で、けれど眩いばかりの本物の人生。
どちらを選ぶのかと、自分自身に問いかけることすらできない。問いかけた瞬間に、閣下を疑うことになるから。
その時、公文書館の影から、静かな靴音が響いた。
振り返ると、ルシアンが立っていた。神経質そうに懐中時計の蓋を閉じるその仕草は、以前と変わらない。けれど、彼がここにいる理由は明白だった。自分が用意した道具の結末を、見届けに来たのだ。
彼の瞳には、私の崩壊を冷徹に見透かしたような、深く、残酷な哀れみが宿っている。
「限界かな、エリシア。君はヴァレリアになれると思っていたようだが、君の魂は、まだそこまで空にはなれていなかったようだ」
「ルシアン……私は、閣下の影に……」
「君がその筆を動かし続ければ、君はヴァレリアの永遠の半身になれる。けれど、君という歴史家は、今この瞬間に完全に死に絶える。さあ、どうする? 彼女のために、自分自身を焼き尽くすのかい?」
私は、血の気が引いた顔で、手元の記録簿とルシアンを交互に見た。
閣下の言葉は絶対だ。拒絶すれば、私は再び泥に戻る。今手に入れたすべての地位も、閣下とのあの密やかな幸福も、すべてを失う。
けれど。
この少年の手紙を、嘘に変えることは――。
私の指先から、インクを吸った鉄筆が滑り落ちる。
静寂に包まれた地下公文書館に、カチャリという硬い音が響いた。
ルシアンは何も言わなかった。ただ、その音を聞き届けるように、一瞬だけ目を伏せた。そして踵を返し、闇の中へ静かに消えていった。残されたのは、魔導灯の青い光と、インクの鉄錆めいた匂いと、私だけだった。
私は自分の手を見つめる。
指先が黒いインクで汚れていた。爪の間にまで染み込んだ黒が、魔導灯の青い光の下で、まるで壊疽のように見えた。吐き気がこみ上げる。
けれど同時に、閣下のことを思うと、胸の奥が焼けるように痛んだ。裏切ったのではない。まだ裏切ってはいない。ただ、筆を落としただけだ。
――ヴァレリア様。
私はまだ、貴女の影でいたいのです。
けれど、この手は――この手だけは、どうしても動かなかった。
公文書館の深い闇の中で、私はうずくまるように椅子に沈んだ。
魂が裂けていくような痛みと、閣下を失うことへの恐怖が、同じ強さで私を引き裂いている。どちらにも倒れることができない。
ただ、インクに汚れた指先だけが、暗闇の中で小さく震え続けていた。
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