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悪役令嬢に憧れて〜無能な平民と罵られた私が、氷の公女に見出され最強の淑女になるまで〜  作者: 十返香
第3幕 あなたは私だわ

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25. 幸福な消滅

 朝の光が、公爵邸の回廊を白く、均質に照らし出していた。


 私は目を開いた瞬間から、もう動き出している。呼吸を整え、指先の温度を確かめ、今日の空気の湿度を肌で読む。


 すべてはヴァレリアのためだ。かつての私なら、朝の光に目を細めながら古文書の頁を繰ることだけを考えていただろう。史料の行間に潜む真実を、自分の目で読み解くことだけが、私の朝だった。けれど今、私の朝は彼女の目覚めから始まり、彼女の寝息の中に終わる。そこに私自身の時間は存在しない。そして、それが堪らなく心地よかった。


 鏡の前に立ち、自らの姿を確認する。


 漆黒のドレスに一滴の汚れもなく、結い上げた髪は夜の静寂をそのまま形にしたように滑らかだ。瞬きの速度、唇の端の微かな持ち上げ方、顎の角度。そのすべてが、ヴァレリアの美学を完璧にトレースし、結晶化させたものだった。


 鏡に映る瞳は、もはやエリシア・ガレットという一人の娘のものではない。私はその事実を確認し、満足して鏡の前を離れた。


「おはようございます、閣下」


 主室に入り、私は深く、静かに跪く。


 ヴァレリアはまだベッドの中で、まどろみの淵にいた。乱れた銀髪がシーツに散り、月光の名残を帯びて青白く輝いている。私は音もなく歩み寄り、彼女が言葉を発する前に、彼女が何を欲しているかを理解していた。


 カーテンを開ける速度。差し出す果実水の温度。今日一日で彼女が不快と感じるであろう要素を排除したスケジュール。私と彼女の間には、もはや言葉による確認すら不要だった。


 この静かな朝の手順の一つ一つが、私を満たしていく。かつて古文書の頁をめくるたびに感じた知的興奮よりも、閣下のグラスに注ぐ果実水の水面が揺れないことのほうが、今の私にはずっと大切だった。


「エリシア。今日の夢は、少しばかり騒がしかったわ」


 ヴァレリアが、重たげな瞼をゆっくりと持ち上げる。その青い瞳に映る私は、彼女自身の意志を具現化した鏡像に過ぎない。


「左様でございますか。隣国の残党が、夢の中にまで無礼を働いたのでしょうか……ですが、ご安心くださいませ。現実の世界では、彼らの居場所は既に私が『整理』しております。閣下の視界を汚す塵は、一つとして残っておりません」


 ヴァレリアは、差し出したグラスを手に取り、ふっと満足げに目を細めた。


 その一瞬の表情の変化が、私の全身に昂揚感をもたらす。私たちが視線を交わすとき、そこには主従という概念を超えた、異様なまでの同一化が支配していた。


 私の思考は彼女の思考であり、彼女の欲望は私の存在理由だ。この依存は、どんな禁忌の魔術よりも深く私の精神に根を張り、離れがたい甘さで陶酔させていく。


 その日の午後、公爵邸のサロンで会合が行われた。


 集まった政財界の重鎮たちは、ソファに深く腰掛け、扇を動かすヴァレリアの威圧感に気圧されている。だが、彼らが真に戦慄したのは、閣下の隣に立つ私の一挙手一投足だった。


「――ですから、伯爵。その物流ルートの変更案は、閣下の先週のご不興の理由を、まるで理解されておりません」


 私は閣下が口を開くよりも早く、そして閣下が望むよりも正確な温度で、相手の提案を切り捨てた。


 伯爵は、私の背後にいるヴァレリアの顔色を伺おうとする。けれど閣下はただ退屈そうに窓の外を見つめているだけだ。その沈黙こそが、私の言葉を絶対の裁定へと変えていた。


「しかし、エリシア嬢……その判断は、閣下ご自身のお言葉として受け取ってよろしいのか?」


「閣下がわざわざ口になさるまでもありません。閣下がお嫌いなのは、待つという行為そのものです。三時間の遅延とは、三時間のあいだ閣下のお顔を曇らせるということ。貴方はそれを許容できるのでしょうけれど、私には到底できません。閣下を待たせる不敬の重さを、貴方はまるでご存じないようですね?」


 伯爵の顔から、一気に血の気が引いていく。


 私は、自分が語る一言一言が、ヴァレリアの魂から直接零れ落ちた真実であるという感覚に酔いしれていた。


 かつて歴史家を目指していた頃、私は客観性を盾にしていた。史料を前にすれば、誰の言葉にも与せず、自分自身の目で真偽を秤にかける。それが学問の作法であり、私の矜持だった。けれど今、私は主観の極致にいる。ヴァレリアという唯一の正解に、自らのすべてを捧げる悦び。それはどんな学問よりも明快で、どんな信仰よりも甘かった。


 史料に向き合う資格も、自分の目で世界を読む力も、もう必要ない。閣下の瞳に映る世界だけが、私にとっての真実なのだから。


「ふふ。エリシアの言う通りよ。伯爵、あなたの言葉は、私の『影』すら満足させられないようね」


 ヴァレリアが、短い、だが致命的な一言を添える。その瞬間、背筋を駆け抜ける快感に私は身を震わせた。


 閣下が私の言葉を追認した。私の判断を、閣下の判断として世界に刻んだ。それは主従の信頼などという生易しいものではない。私の思考回路が、彼女の意志と完全に重なっているという証明だった。


 誰一人として、私たちの間に入ることはできない。二つの身体に、一つの意志。私たちは完全な共生体だった。


 会合の席を辞したとき、伯爵たちの背中は一様に強張っていた。彼らが恐れたのは、ヴァレリアの権力だけではない。その権力が、エリシア・ガレットという名の刃を通じて、いつでも自分たちの喉元に届くという事実だった。私はその恐怖を、花束でも受け取るように心地よく受け止めていた。


 会合が終わった後、薄暗い廊下でルシアンとすれ違った。


 彼は婚礼を潰され、自らが仕掛けた駒がもはや自分の手を離れたことを思い知らされて、以前とは別人のように痩せていた。仕立てのよい上着が肩から滑り落ちそうになっている。整えられていたはずの髪は乱れ、頬にはかつての鋭利な美貌の代わりに、削げたような影が落ちていた。


 その瞳が、私を捉える。自らが作り変えた最高傑作が、想像し得なかった領域へと堕ちていくことへの、隠しきれない戦慄を宿して。


「……エリシア。君は今、自分がどのような顔をしているか、分かっているのかい?」


 ルシアンの声は掠れていた。かつての流麗な響きは失われ、喉の奥で潰れたような音が混じっている。私は足を止めず、閣下の後を追う足取りを崩さない。


「顔? ええ、閣下の影として、恥ずかしくない顔を保っておりますわ。ルシアン様、貴方の教えてくださった美学の、これが完成形でございましょう?」


「……それは違う。君の顔からは、君自身の(せい)が消えている。君はヴァレリアという鏡に映った、ただの幻影みたいだ。彼女が微笑めば君も微笑み、彼女が人を殺せば君も手を汚す。それは幸福じゃない。ただの、消滅だと――」


「消滅……ああ、なんて素敵な響きですわね、ルシアン様」


 私はふと立ち止まり、ルシアンの瞳を真っ向から見据えた。


 その言葉が胸の奥のどこかを、爪で引っかくように掠めた。ほんの一瞬、古い図書室の埃の匂いが鼻腔をよぎる。積み上げられた史料の山。頁を繰る指先の乾いた感触。あの頃の私は、誰の言葉も借りずに、自分の目だけで真実を探していた。


 けれど、それがどうしたというのだろう。


 私はその記憶を、不要な書架を片づけるように意識の隅へ押しやった。あの埃っぽい部屋で一人きり真実を探していた娘は、もういない。いる必要がない。


「自らの矮小な個を捨て、絶対的な美と権力に殉ずる。これ以上の幸福が、この世界にあるとお思いですか? 貴方の言う自分自身の生など、埃のようなものですわ。私は彼女という世界の一部になれたことを、誇りに思っておりますの……ルシアン様、貴方が私を怪物に変えたあの日から、私の帰るべき場所など、どこにもなかったのですから」


 私はルシアンを置き去りにし、ヴァレリアの待つ部屋へと急いだ。


 背後で、ルシアンが壁に手をついた気配がした。けれど私は振り返らない。


 彼の言葉など、今の私には遠いノイズに過ぎない。たとえこれが自らを失っていく過程であったとしても、私はこの陶酔を手放すつもりはなかった。閣下がいない世界は、私が再び名もなき泥に戻ることを意味する。彼女への依存は、唯一の酸素であり、生きるための猛毒だった。


 廊下の窓から差し込む夕陽が、私の影を長く引き伸ばしている。その影はまるで、閣下の部屋へ向かって私を導く道標のようだった。




 夜、ヴァレリアの寝室で、私は彼女の髪を梳かしていた。


 蝋燭の灯りが、壁に二つの影を揺らしている。閣下は化粧台の前に座り、目を閉じて私の手に身を預けていた。


 銀の櫛を通すたび、絹糸のような髪が指の間をするりと抜けていく。微かに薔薇水の香りがした。閣下の体温が、櫛を握る私の手に伝わってくる。その熱が指先から腕を伝い、胸の奥までゆっくりと染み渡るのを、私は目を細めて受け入れていた。


 時折、閣下の吐息が聞こえる。安堵とも倦怠ともつかない、柔らかな呼気。その音を拾うたび、私の心拍は静かに凪いでいく。世界中のあらゆる音が消えても、この吐息さえ聞こえていれば、私は生きていける。


 鏡越しに映る私たちの姿。閣下の銀髪と、私の漆黒の髪が、鏡の中で一枚の絵のように重なっている。呼吸が自然と同じ拍子になっていることに気づいたとき、私は幸福のあまり、指先が震えそうになった。


「エリシア。あなたは、どこまで私についてこられるかしら」


 ヴァレリアが、鏡の中の私をじっと見つめた。その瞳には、かつてないほどに深く、暗い光が宿っている。


 試すような声音だった。けれど私には、その問いの答えなど、考えるまでもない。


「地の果てまで。いえ、閣下が地獄をお作りになるというのなら、私はその門番となりましょう。閣下が私の視界であり、私の世界のすべてですから」


 ヴァレリアは、何も言わずに微笑んだ。


 そして私の手に、自らの手を重ねた。櫛を握ったまま、指と指が絡み合う。閣下の肌は熱い。その熱が、私の中に残っていた最後の冷静さを、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。


「そう……なら、試してあげるわ」


 ヴァレリアの唇が、耳元でそう囁いた。


 その声に含まれた暗い歓びの色を、私は聞き取っていた。閣下が何かを企てている。それが何であれ、私は従うだろう。喜んで従うだろう。今の私に、それ以外の選択肢などない。


 背中に回された閣下の指先が、私の髪を一房、そっと掬い上げた。まるで私を品定めするように。あるいは、壊れるかどうかを確かめるように。


 私はその手に身を委ね、静かに目を閉じた。


 最強の淑女は今、自らの魂を完全に明け渡し、絶対的な権力の一部となることで、かつてないほど危うく、そして美しい幸福の絶頂にいた。


 明日、閣下が何を命じるのか。


 その予感だけが、甘い痺れとなって、暗い寝室の中に満ちていた。


読んでいただき、ありがとうございました。

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次話「歴史を汚せと命じられた日」

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