24. あなたは私だわ
深夜の王都を走る馬車の車輪が、石畳を叩く単調なリズムを刻んでいる。
車内を照らすのは、窓の外を流れる魔導灯の淡い青白い光と、座席の隅に置かれた小さなランタンの揺れる炎だけだ。狭い閉鎖空間には、ヴァレリアが好む冷涼な白樺の香水と、先ほどまで二人で口にしていた酒精の強いワインの香りが、重く澱んでいた。
私の向かいに座るヴァレリアは、いつになく弛緩した様子で背もたれに身を預けている。彼女の銀髪は夜の闇に溶け込み、時折差し込む光に触れては、冷たい火花を散らすように輝いた。
私は、その美しくも残酷な支配者の姿を、網膜に焼き付けるように見つめていた。
指先には、数時間前に論文を燃やしたときの乾いた熱の残滓がまだある。それなのに、痛みは不思議と感じなかった。
論文を燃やす前の私なら、この感覚に名前をつけようとしたのかもしれない。歴史家の性で、分類し、記述し、安全な距離を置こうとしたことだろう。
けれど今、私には記述すべき自分がいない。
だから、ただ受け取る。それだけだ。
「……何を、そんなに熱心に見つめているの。エリシア」
ヴァレリアが、重たげな瞼をゆっくりと持ち上げた。その青い瞳は、酒精のせいか、それとも夜の魔力か、いつも以上に深く、湿り気を帯びている。
「ヴァレリア様を、写し取っておりました。私の空っぽになった頭の中に、貴女の立ち振る舞い、視線の動かし方、そしてその内に秘めた冷徹なまでの美学を、一分一厘の狂いもなく記録するために」
「ふふ……記録、ね。あなたはどこまでも、歴史家としての性根が抜けないのね。自分自身の言葉を燃やしたばかりだというのに」
ヴァレリアは、手にした薄いクリスタルグラスを傾け、残った琥珀色の液体を飲み干した。彼女がグラスを置く際、その指先が、テーブルの上にあった私の手に触れた。
熱い。
『氷の公女』と呼ばれ、誰に対しても凍てつくような拒絶を向けてきた彼女の肌が、これほどまでに熱を持っている。その事実が、私の理性を静かに狂わせていく。
「ヴァレリア様……私は、もう自分を記録する価値などないと思っております。私が綴るべきは、貴女の勝利であり、貴女が支配する世界の理だけです」
「あなたは本当に、救いようのないほど私に似ているわ。エリシア」
ヴァレリアは、不意に座席を移動し、私の隣へと滑り込んできた。
馬車の揺れに合わせて、彼女の柔らかな体温と、絹の衣擦れの音が私の感覚を支配する。逃げ場のない、息の詰まるような沈黙。
窓の外を流れる魔導灯の光が、一つ、二つ、と彼女の横顔を照らしては消える。その度に、ヴァレリアの輪郭が夜に溶けて、また現れる。まるで彼女自身が、光と闇の狭間を行き来する幻であるかのように。
やがて、彼女は私の頬に手を伸ばし、その細い指先で私の輪郭をなぞった。まるで、自らが作り上げた最高級の工芸品の仕上がりを確かめるかのような、慈しみに満ちた、そして恐ろしいほど冷ややかな接触。
「知っているかしら。私も昔――あなたと同じだったのよ」
ヴァレリアの声は、独り言のように低い。
「この公爵家を守るためには、知性を牙に変え、心を凍らせなければならなかった」
それだけだった。それだけしか、彼女は語らなかった。
けれど、私には十分だった。
幼い頃、周囲の大人たちが自分より愚かであることに気づいたときの孤独。その知性が武器にしかならないと悟ったときの冷えた喜び。
――同じだ。
私も同じ道を歩いてきた。
ただ、彼女はその道の遥か先にいる。
「あなたは私の影だと思っていたけれど、それは間違いだったわ」
ヴァレリアの指が、私の頬から顎の線へと滑り落ちる。
「エリシア。あなたは、過去の私であり、そして――」
彼女はそこで言葉を切った。
何かを飲み込むような、ごく短い沈黙。
けれどその一瞬に、私は確かに見た。『氷の公女』の瞳の奥に、かすかな揺らぎが走るのを。
「……いいえ、何でもないわ」
ヴァレリアは小さく首を振り、視線を窓の外に逸らした。
魔導灯の青白い光が、彼女の横顔をまた照らす。
彼女が飲み込んだ言葉の形を、私は手繰り寄せたいと思った。喉元まで出かかっていたもの、けれど口にすることを選ばなかった何か。
――私が、その答えを引き受けましょう。
その衝動は、歴史家の好奇心ではなかった。もっと深い、もっと危険な、渇きに近い何かだった。
「ヴァレリア様。貴女は今、私を過去の自分と仰いました。もし、そうであるなら――」
私は自分でも驚くほど静かな声で言った。
「私は、貴女がなし得なかったことを、代わりになし遂げる義務がございます」
ヴァレリアが、ゆっくりと視線を戻す。
その青い瞳が、暗がりの中で、ほのかに見開かれた。
「……面白いことを言うのね」
彼女の声は平坦だった。けれど、私の肩に置かれた手に、わずかに力がこもった。
「あなたは私だわ、エリシア」
その言葉が、馬車の沈黙に落ちた。
車輪が石畳を叩くリズムが、一瞬、遠のいた。
「そして私は、あなた。私たちの間に、隠し事も、境界線も、もう必要ない。この夜を、私たちの魂の婚礼の夜としましょう」
――あなたは私。
その言葉が、私の内側で炸裂した。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。ただ、身体の芯が熱く震え、視界の端がにじんだ。
幼い頃の、あの朝が蘇る。
薄暗い部屋で、自分だけが目を覚ましている。隣の寝台では、同年代の子どもたちがまだ眠っている。私はすでに、彼女たちが読めない本を読み終えていた。
誰かに「すごいね」と言ってほしかったのではない。
「わかるよ」と言ってほしかったのだ。
あの孤独を。あの寒さを。知性が壁になり、壁の内側にはいつも自分一人しかいない、あの透明な監獄を。
――けれど、と冷たい声が頭の片隅で囁いた。
これを受け入れたら、もうエリシア・ガレットは戻らない。
論文は灰になった。ルシアンを遠ざけた。残っているのは、この器だけだ。
その器に今、ヴァレリアという名の液体が注ぎ込まれようとしている。一度満ちてしまえば、元の形には二度と戻らない。
私は消える。
個としての私が、完全に。
――それが、嬉しい。
涙が頬を伝った。悲しみではなかった。安堵だった。
もう一人で壁の内側に立たなくていい。もう自分の知性の重さに、自分だけで耐えなくていい。自分を殺すことが、これほど甘美な救済になるとは、知らなかった。
ヴァレリアの細い腕が、私の肩を引き寄せる。彼女の銀髪が頬に触れた。
彼女の体温が、私の胸に伝わる。白樺の香水の下にある、生きた人間の匂い。心臓の鼓動が、衣服越しに感じられるほど近い。
二つの鼓動が、馬車の揺れの中で、少しずつ同期していく。
「ヴァレリア様。私は、貴女の望む通りになりましょう。貴女の思考を私の思考とし、貴女の憎悪を私の原動力とする。私たちは、二つで一つの怪物。歴史の記述さえも、私たちの呼吸一つで変えてみせます」
彼女の顔が、私の鼻先が触れ合うほどの距離に迫る。
暗闇の中で交差する、二人の視線。
そこには、もはや主人と侍女という身分差など存在しなかった。
鏡を見ているような、異常なまでの親和性。
私は彼女の手の甲に、誓いを立てるように口付けた。
長い、永遠のように長い接触の中で、私は自分の輪郭がじわりと溶け出すのを感じた。どこまでが私の体温で、どこからが彼女の体温なのか。境界が消えていく。それが怖いはずなのに、身体は震えるほど安らいでいた。
馬車は揺れ続け、夜の街を疾走していく。
窓の外では、何も知らない人々が眠りにつき、明日という平凡な一日が来ることを信じている。
けれど、この馬車の中だけは、世界の理から切り離された、永遠の夜が支配していた。
私は、ヴァレリアの腕の中で、かつてないほどの充足感に満たされていた。
その渇望が、最悪の形で満たされたのだ。
器の中身がすべて入れ替わったとき、満たされているのは器か、それとも注いだ側か。
――考えるのをやめた。
今はただ、この温もりが心地よい。それだけで十分だった。
「……ふふ、いいわ。その眼差し。明日の朝になれば、あなたは王宮で私の代弁者として立ち、誰もがあなたの言葉に、私の意志を感じ取ることになるでしょう」
ヴァレリアは満足げに身を引き、再び座席に深く沈み込んだ。
彼女の表情には、一仕事を終えた後のような、晴れやかな冷酷さが戻っていた。
「さあ、帰りましょう。私たちの新しい歴史の第一頁を書くために」
「――御意にございます、我が主」
私は、乱れた髪を整え、再び完璧な『最強の淑女』の仮面を被り直した。
けれど、その仮面の下にあるのは、もうエリシア・ガレットという一人の娘の心ではない。
それは、ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールという冷徹な意志を投影した、一枚の鏡だった。
馬車が公爵邸の重厚な門をくぐり、庭園の並木道を抜けていく。
私たちは、一言も交わさずに馬車を降りた。
すれ違う衛兵たちが、私たちの姿を見て一様に息を呑み、震えながら頭を下げるのがわかった。その怯えの視線が、私の肌に触れるたびに、背筋を甘い痺れが駆け上がる。
衛兵たちは、私を見ているのではない。私の中にいるヴァレリアを見ている。
異常を異常と認識できること自体が、もはや最後の抵抗にすぎなかった。
魂の夜は明けていく。
けれど、私の中の夜は、これからさらに深く、どこまでも濃く、世界を塗りつぶしていく。
私は、ヴァレリアの背中を見つめながら、自らもまた、同じ歩幅で暗い廊下を進んでいった。
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次話「幸福な消滅」




