23. 処女論文、焼却
深夜の書斎に、パチ、と小さな音が爆ぜた。
暖炉の炎が赤黒く揺らめいている。温かみなどどこにもない。飢えた獣が喉の奥で唸るような、そんな色の火だった。
私はその炎の前に座り、膝の上に置いた分厚い紙の束を、両手で抱くように持っていた。
『エリュシオン帝国衰退における経済因果律の再構築』。
かつての私にとって聖典も同然だった論文の草稿。地下資料室の埃まみれの書架に潜り込み、誰にも顧みられなかった記録を自分の手で掘り起こし、論理という糸で一本一本繋ぎ合わせた、私という存在の証明そのものだった。
これを世に出し、歴史編纂所の門を叩くことこそが、私の人生のすべてだったはずだ。
紙の手触りが、指先に痛いほど馴染んでいる。
安物のインクの匂い。深夜の図書室で、蝋燭の灯りだけを頼りに書き続けた夜の残り香。何度も書き直し、何度も破り捨て、それでも諦めきれずに綴り直した、あの執念の重さが、今、この両手にのしかかっている。
「……皮肉なものね」
震える指先で、最初の一頁をめくった。
序文だ。まだ歴史編纂所に入ることすら叶わなかった頃の私が、真実を追究することの尊さを、青臭いほどの熱量で綴っている。
――歴史とは、勝者の記録ではない。名もなき民の営みの集積であり、その声なき声を掬い上げることこそが、歴史家の使命である。
一字一句に、嘘のない誠実さが宿っていた。
けれど今の私にとって、その誠実さは、泥濘の中を歩むための足枷でしかない。
「まだ、そんなゴミに未練があるのかい? エリシア」
背後の闇から、声がした。
ルシアンだ。壁に寄りかかり、腕を組んでいる。婚礼を潰され、私という怪物に従属することを誓わされた男。以前よりもさらに痩せた頬に、暖炉の影が深く刻まれていた。
「ゴミ、ではありませんわ」
私は論文を膝の上に置いたまま、振り返らずに答えた。
「これは、私がかつて愛した『正解』です……ルシアン様、貴方はご自分が魔術の深淵に触れた際、その入り口に置いてきた未練を覚えていらっしゃいますか?」
沈黙が落ちる。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
「……忘れたよ」
ルシアンの声には、嘲りとも自嘲ともつかない色が滲んでいた。
「深淵を覗くとき、背後の光など邪魔なだけだ」
彼は壁から身体を離し、私の隣まで歩いてきた。暖炉の明かりが、彼の顔の半分だけを照らしている。
「ヴァレリアは、明日、王宮での演説で歴史の『再定義』を行う……知っているだろう?」
「ええ」
「君が調べ上げた真実とは真逆の、プロパガンダとしての歴史をね」
ルシアンは私の膝の上の論文に目を落とした。
「君のこの論文が世に出れば、ヴァレリアの言葉は『嘘』になる」
知っている。
私が三年をかけて掘り起こした史料が証明しているのは、帝国衰退の原因が通説とはまったく異なるという事実だ。ヴァレリアが明日の演説で語ろうとしている歴史は、私の論文によって根底から覆されてしまう。
「さあ、どうする? 自分の魂を守るか、それともヴァレリアの影として生きるか」
ルシアンの問いは、残酷なほど明快だった。
けれど、その声の底に、微かな震えが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
「……ルシアン様」
「何だい」
「貴方は今、私に止めてほしいのですか? それとも、見届けたいのですか?」
ルシアンの目が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。けれど確かに、その瞳の奥に、何かが明滅するのが見えた。
彼はすぐに口元を歪め、いつもの冷笑を貼り付けた。
「どちらでもないよ。ただの好奇心さ。君がどこまで堕ちるのか、見届ける権利くらいはあるだろう? この地獄に引きずり込まれた者として」
「そう……では、ご覧になっていてくださいませ」
私は、論文の第一頁――序文を、ゆっくりと破り取った。
指先に、紙の繊維が千切れる感触が伝わる。びり、という音が、やけに耳に残った。
私は、その一枚を暖炉の炎に差し出した。
紙の端が赤く染まり、焦げた匂いが鼻腔を刺す。
一瞬だけ、手が止まった。
――歴史とは、勝者の記録ではない。
あの頃の私の声が、燃える文字の中から聞こえた気がした。地下資料室の薄暗い灯りの下で、食事を忘れて資料を読み耽った夜。誰にも理解されなくても、真実を掘り当てたときの、胸が震えるような歓び。
その歓びが、今、私の指の先で灰になろうとしている。
手を離した。
紙は一瞬で丸まり、黒く変色しながら、炎に呑み込まれていった。
胸の奥で、何かが軋む音がした。
次に手を伸ばしたのは、第三章だった。
帝国の穀物流通記録と徴税台帳――どちらも、私が地下資料室の奥で埃を払い、自分の手で頁を繰って読み解いた帳簿だ。あの二つの数字がぴたりと噛み合った瞬間を、指先がまだ覚えている。インクの滲んだ行間に、誰も気づかなかった真実が眠っていた。それを見つけたのは、この手だった。
ちょうど雪の降る朝だった。地下資料室の窓から差し込む白い光の中で、世界の見え方が一変した。誰にも顧みられなかった記録の声を、私だけが聴いている――あの恍惚を、今でも身体の芯が覚えている。
その章を、私は炎にくべた。
紙が燃える音が、今度は耳に痛かった。インクが焦げる独特の臭気が、書斎に薄く漂う。
「……泣かないんだね」
ルシアンが、低い声で言った。
「泣くのは、まだ未練がある者のすることですわ」
嘘だった。
泣けないのだ。涙が出るほどの感情が、もう私の中に残っているのかすらわからない。ただ、胸の奥で何かが一枚ずつ剥がされていく感覚だけが、確かにあった。
次は、結論部。
帝国の衰退を経済因果律から再構築し、歴史は権力者の物語ではなく、民衆の生活の集積として読み解くべきだと宣言した最終章。若い私が、震える筆で書き上げた、あの夜の熱がまだ紙に残っている気がした。
この結論を書き終えたとき、私は涙した。
嬉し涙だった。自分がこの世に生まれてきた意味を、ようやく見つけたと思った。
私は、その最終章を両手で持ち上げ、一瞬だけ額に当てた。
紙の冷たさが、肌に染みる。
そして、炎の中へ。
「……歴史とは、過去の出来事ではなく、現在を支配する者のための武器」
私は、空になった自分の手を見つめながら呟いた。
「そう教えてくださったのは、閣下です」
残りの頁を、もう数えなかった。
序論の補遺も、注釈も、参考文献の一覧も、すべてまとめて炎にくべた。私の努力、私の理想、私の過去が、赤黒い光の中に次々と消えていく。
暖炉の中で、紙が崩れる音がした。パサリ、と灰になった頁が重力に負けて崩れ落ちる、乾いた小さな音。
「真実など、誰の腹も満たしません」
声が震えていないことが、自分でも不思議だった。
「それよりも、閣下の手によって世界が塗り替えられる瞬間の、あの暴力的なまでの美しさ……私は、それだけを信じて生きていくことに決めましたの」
「狂っているね、エリシア」
ルシアンの声は、嘲笑のはずだった。
けれど、その一言が口から出る直前、彼の喉仏がわずかに動いたのを、私は暖炉の明かりの中に見た。何かを呑み込むような、小さな動き。
「だが、その狂気こそが、君を僕の隣へ連れてきたんだ」
彼は私の肩に手を置いた。
指先が微かに冷たい。それは愛情ではない。共に地獄へ堕ちる者同士が、互いの体温で己の存在を確かめ合う、歪んだ連帯だった。
最後の一束を火に投じたとき、私の両手から重みが消えた。
紙の重みだけではない。あの地下資料室で、埃まみれの帳簿を自分の手で開き、誰も読まなかった数字の行間に真実を見出そうとした少女の重みが。記録の声を聴くことだけが、自分の生きる意味だと信じていた、あのエリシア・ガレットの重みが。
空っぽだ。
立ち上がると、膝が少しだけ笑った。
書斎を出て、ヴァレリアの私室へと続く廊下を歩き出す。
夜の静寂が、靴音を鮮明に響かせた。廊下の窓から月光が差し込み、石畳に白い四角を落としている。その光を踏むたびに、過去の自分がまた一歩、遠ざかっていく。
胃の底が、鉛のように重い。
吐き気に似た何かが喉元まで上がってきて、けれど吐くものなど何もなかった。あるのは空洞だけ。論文があった場所に、今はただ風が吹き抜けている。
その空洞を埋められるものが、この廊下の先にある。
ヴァレリア・ド・ラ・ヴァリエールという巨大な光。
ヴァレリアの私室の前に立ち、扉を静かにノックした。
「入りなさい」
中に入ると、ヴァレリアは寝支度を終え、薄絹のガウンを纏って窓辺に立っていた。銀髪が月光を浴びて白く輝いている。
「……論文の『整理』は終わったの? エリシア」
ヴァレリアは振り返らずに尋ねた。
整理、とヴァレリアは言った。焼却ではなく。その言葉の選び方に、私はこのひとの聡明さと残酷さの両方を見た。彼女は最初から、私が自分の手で過去を焼き捨てることを知っていたのだ。そしてその行為を『整理』と呼ぶことで、私に逃げ道を与えなかった。
「はい……あのような未熟な記述、閣下の覇道には不要なものでした。すべて、灰に還してまいりましたわ」
私は、ヴァレリアの背後に跪いた。
ガウンの裾にそっと指先を触れる。薄絹の冷たさが、焼却の熱をまだ帯びた指に沁みた。
「私は、閣下を選びます」
声が、思ったよりも静かに出た。
「歴史の真実など、もう私には必要ありません。閣下が望む言葉を、閣下が望む未来を、私が『正解』として記述いたします……たとえそれが、どれほど醜い嘘であっても」
ヴァレリアは、ゆっくりと振り返った。
窓からの月光を背に、その顔は半分が光に、半分が影に沈んでいる。
ヴァレリアの細い指が、私の顎を掬い上げた。
青い瞳が、私の瞳を覗き込む。その視線は、私の中に残っているものを検分するかのように、冷たく、深く、容赦がなかった。
「嘘、ですって?」
ヴァレリアの唇が、かすかに弧を描いた。
「いいえ、エリシア……強者が語る言葉こそが、唯一の真実なのよ」
ヴァレリアの指が、私の頬に触れた。
冷たい。けれどその冷たさが、今の空っぽの私には、何よりも甘く感じられた。
「あなたは今日、ようやく私の『真の影』になったわ」
その一言が、空洞の胸に落ちた。
石が深い井戸に落ちるように、音もなく沈んでいく。
嬉しいのか、悲しいのか、もうわからない。
ただ、選ばれたという事実だけが、ひどく甘美に身体の芯を痺れさせていた。
ヴァレリアは、私の額に口付けを落とした。
冷たい唇の感触。祝福とも、烙印とも呼べるその一瞬が、私の皮膚に焼き付く。
私は目を閉じた。
暖炉で焼かれた論文の灰が、窓から吹き込む夜風に乗って、王都の空へと散っていく。
さらば、エリシア・ガレット。
真実を愛した、あの愚かで、まっすぐで、幸福だった私。
私は淑女の仮面の下で、静かに笑った。
泣いているのか笑っているのか、自分でもわからない笑みだった。
窓の外、王都の闇はどこまでも深く、私を祝福するように沈黙していた。
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次話「あなたは私だわ」




