29. 決別の夜
扉が音を立てて閉まる。
乾いた金属音が廊下の奥まで反響し、やがて、何にも届かずに消えていった。
ヴァレリアの執務室から続く廊下は、先ほどまでの激しい言い争いが嘘のように、墓所のような静寂に包まれている。背後にある扉の向こうでは、私が人生のすべてを賭けて仕え、同一化を夢見た絶対的な支配者が、沈黙の海に沈んでいた。
彼女は追ってこない。怒号を浴びせることも、情けをかけることもない。ただ不要と判断された駒を、盤上から指先で弾き飛ばした――それだけの、冷徹で合理的な沈黙。
いや、違う。
あの最後の一瞬、ヴァレリアの瞳に浮かんでいたのは、怒りでも軽蔑でもなかった。私が差し出した真実を、彼女もまた正確に理解していた。理解した上で、退けたのだ。真理の在処について、彼女と私の答えは――もう、重ならない。
その沈黙こそが、私にとって何よりも重い、死刑宣告だった。
私は、震える足を一歩ずつ前へ進めた。
漆黒の最高級ドレスは、先ほどまでの誇りから、今や私を締め付ける亡霊の抜け殻へと変わっていた。廊下に飾られた歴代当主の肖像画たちが、その冷ややかな瞳で、路頭に迷う敗北者となった私を見下している。
「……ああ。そうね。これが、私が選び取った答えの味」
唇から漏れた声は、自分でも驚くほど乾ききっていた。
涙も出ない。怒りも湧かない。ただ喉の奥が焼けるように乾いて、それすらも、もう誰かに訴える先がないのだと思い知らされる。
自室に戻ると、そこにはヴァレリアの寵愛を象徴する品々が、皮肉なほど美しく整列していた。職人が数ヶ月を費やした絹の寝着、最高級の香水瓶、私の知略を支えた数々の魔導具。
これらはすべて、ヴァレリアという光の中でだけ輝くものだった。そしてその光を失った今、それらは私の部屋ではなく、私という人間の空洞を照らしていた。
私は迷うことなく、そのドレスを脱ぎ捨てる。
宝石のついた首飾りも、髪を飾る銀のピンも、すべてドレッサーの上に無造作に置いた。今の私には、それらは重すぎる呪いでしかない。
首飾りの留め金を外す指先が、一瞬だけ止まった。ヴァレリアが初めて私の首にこれをかけたとき、あの冷たい指先が項に触れた感触が、不意に蘇る。
振り払うように、私は首飾りをドレッサーに落とした。金属が硬い木に当たる音が、静かな部屋に響く。
代わりに私が身につけたのは、この屋敷に来た初日に持っていた、質素で頑丈な旅歩き用の衣服だった。
一ヶ月間の『最強の淑女』としての生活が、この衣服を驚くほど安っぽく、そして懐かしく感じさせる。袖を通したとき、生地の粗さが腕の内側を擦った。かつてはこれが当たり前だった。
鏡の中に、エリシア・ガレットが戻っていた。
その瞳には、権力に酔いしれていた陶酔の光はない。代わりに宿っているのは――覚悟と呼ぶには頼りなく、けれど諦めとは違う、真実を手放すまいとする意志のようなものだった。
私は、懐にあの少年の手紙を忍ばせ、唯一、自分の金で買ったペンと、何冊かの古いノートだけを小さな鞄に詰めた。それ以外の、公爵家から与えられたものは、たとえ銅貨一枚であっても、すべて部屋に残した。
部屋を出る前に、一度だけ振り返る。
寵愛の残骸が並ぶ部屋は、まるで主人を失った祭壇のようだった。ここでの一ヶ月は、夢だったのかもしれない。いや――夢であってくれたなら、どれほど楽だったか。
長い回廊を再び歩き出す。自分の足音だけが、磨き上げられた床に反響していた。
階段を降りる際、数人の侍女たちとすれ違った。つい数時間前まで、彼女たちは私の靴音が聞こえるだけで震え、道を開けていた。けれど今は、私の姿を見て、戸惑いと、隠しきれない嘲笑の混じった視線を投げかけてくる。
噂が広まるのは速い。筆頭侍女エリシアが、ヴァレリアの怒りを買い、すべてを剥奪されて追放される。その事実は、彼女たちにとって何よりの娯楽なのだ。
「あら……あれほど増長されていたのに、随分と寂しいお姿ですこと」
誰かが背後で囁いた。
かつての私なら、その一言で相手の人生を終わらせるほどの冷笑を返しただろう。だが、今の私には、そんなことに使う言葉は一欠片も残っていなかった。彼女たちの嘲笑が正当であることを、私自身がいちばんよく知っている。
私は足を止めず、正面玄関へと続く大広間を横切った。
その大広間の奥に、ルシアンが立っていた。
彼は柱に背を預け、手にした懐中時計の蓋を、開いては閉じ、開いては閉じている。その指先だけが、彼の中のどこかが落ち着きを失っていることを語っていた。
「本当に行くんだね、エリシア」
ルシアンの声には、以前のような嘲弄の気配がなかった。ただ、取り返しのつかない喪失に対する、純粋な問いだった。
「ええ。ここはもう、私の居場所ではありませんわ」
「外は嵐だ。君が手放したものの大きさを、君はこれから嫌というほど知ることになる」
ルシアンは一度言葉を切り、懐中時計の蓋を親指で撫でた。
「閣下の隣にいない君は、ただの平民の娘だ。君の知性も、この門を出た瞬間に、ただの呪いに変わる」
「……構いません。誰かの影として生きる万能感よりも、私は自分の足で立ち、自分の目で見つめる絶望の方を選びます。それが、貴方が教えてくださった美学の、私なりの答えですわ」
ルシアンは、わずかに目を見開いた。
やがて、彼はふっと、どこか寂しげな笑みを浮かべ、懐中時計を閉じた。
「いいよ。行くといい。君という物語が、泥の中でどのように終わるのか、あるいは始まるのか。僕はここで……閣下の側で、最後まで祈っていよう」
ルシアンが道を譲る。
私は彼に最後の一礼を捧げた。頭を上げたとき、彼の視線はもう私ではなく、廊下の奥――ヴァレリアの執務室がある方角へ向けられている。その横顔には、送り出す者だけが知る、静かな痛みが滲んでいるように見えた。
玄関の扉は、私が思っていたよりもずっと重かった。両手で押し開くと、嵐の匂いが一息に廊下を吞み込んだ。
◆◇◆
吹き込んできた激しい雨風が、私の頬を叩く。
公爵邸の灯りが背後で遠ざかり、目の前には、王都の暗い闇が広がっていた。
一歩、石畳を踏み出す。
雨が瞬く間に私の服を濡らし、体温を奪っていく。質素な旅歩き用の衣服は、あの漆黒のドレスとは違い、雨を弾く魔導の加護など持っていない。冷たい水が布を通り抜け、肌に張りつき、歩くたびに重くなっていった。
風が髪を巻き上げ、雨粒が目に入る。まともに前も見えない。これが、ヴァレリアの庇護の外に出るということだ。
私は一度だけ、振り返った。
最上階の執務室の窓に、微かな灯りが見える。
あそこに、ヴァレリアがいる。
それだけで、胸の奥が引き攣った。
灯りは揺れていなかった。あの部屋で彼女は、私が去った後も姿勢ひとつ崩していないのだろう。私の選択の意味を、あの聡明な頭脳はとうに読み切っている。読み切った上で、灯りを消さない。――それが彼女なりの、最後の言葉なのだと思った。
怒りに震えているのか、それとも、私のことなど既に忘れて、新しい駒を選んでいるのか。
どちらであっても、もう私には関わりのないことだ。――そう思おうとして、思い切れなかった。あの窓の灯りに向かって歩いていけば、まだ間に合うのではないかという甘い幻想が、雨に打たれる身体の奥で、しぶとく燻っている。
――ヴァレリア閣下。
貴女が私に与えた屈辱も、陶酔も、そして最後の切り捨ても。
そのすべてが、私という人間を作り上げました。
貴女に憧れ、貴女を憎み、貴女になろうとした私は、今夜、死んだのだと思います。
そう思わなければ、私はきっと、この足を反転させてしまうから。
私は、前を向いた。
公爵邸の巨大な門をくぐり抜ける。
門番たちは、私の姿を一瞥し、何の感情もなく門を閉ざした。
ズシン、という重い音が、背後の世界との完全な決別を告げる。
雨の中を歩く。
視界は暗く、足元の石畳は滑り、髪から雨粒が顎を伝って落ちた。濡れた鞄が肩に食い込む。その中には、ペンとノートと、一通の手紙しか入っていない。
すべてを失った。
地位も、名誉も、視界さえも。
けれど、胸の奥にある『真実』という名の小さな熱だけは、濡れた服の下でまだ消えていなかった。
足元の泥が跳ねた。
それでも私は――後ろを振り返らなかった。
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