第6話「暗闇の迷宮と反撃の牙」
洞窟の中に転がり込むと、外の荒れ狂う吹雪の音が嘘のように遠ざかった。
静寂と、土の匂いが混じったひんやりとした空気が、レオの乱れた呼吸をわずかになだめる。
外套についた雪を払い落とし、レオは振り返って入り口の闇を見つめた。
すぐに外から多数の足音が近づき、松明の赤い炎が洞窟の入り口を不気味に照らし出す。
黒い布で顔を覆った男たちが、剣を構えながら次々と内部へ足を踏み入れてきた。
「ネズミめ、袋小路に逃げ込むとは愚かな」
先頭に立つ男が、松明を掲げながら冷ややかな声で吐き捨てた。
だが、レオの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
彼らは知らないのだ。
この洞窟が単なる行き止まりの穴ではなく、独自の生態系を持つ広大で危険な迷宮であることを。
そして、レオがこの暗闇の中で数え切れないほどの時間を過ごし、どの岩の裏に何が潜んでいるかを隅々まで熟知していることを。
レオは足音を殺し、発光キノコの淡い緑色の光だけを頼りに、奥へと続く通路を駆け下りた。
松明の強い光を掲げている追手たちは、その炎のせいで瞳孔が収縮し、炎の届かない暗がりがまったく見えていないはずだ。
最初の広場に到達すると、レオはパンの木が群生する岩陰の裏側に身を潜めた。
広場の中央には、あの小豚に似た丸い生き物たちが、何十匹も身を寄せて眠っている。
普段は大人しい彼らだが、強い光や火を極端に嫌う性質があることをレオは知っていた。
追手たちが広場に足を踏み入れ、松明の炎が空間を赤く照らし出す。
「どこへ消えた。探し出せ」
男たちが散開し、無造作に岩の陰を探り始めた。
一人の男の足が、眠っていた小豚の群れの一匹を強く蹴り飛ばす。
短い悲鳴のような鳴き声が上がり、群れ全体が一斉に目を覚ました。
松明の炎と見知らぬ侵入者の存在にパニックを起こした生き物たちは、短い牙をむき出しにして怒り狂う。
数十匹の丸い生き物が、四方八方から男たちの足元へ猛烈な勢いで突進を始めた。
「なんだこの獣は」
男たちが慌てて剣を振り下ろす。
刃が生き物に触れた瞬間、彼らの生態である淡い光の粒への還元現象が起きた。
だが、一匹が弾ける光量は大したことがなくても、数十匹が連続して弾け飛ぶ光は、松明の火に慣れていた男たちの視界を真っ白に塗りつぶす強烈な閃光となった。
「目が、見えん」
男たちが目を押さえてうずくまり、混乱の中で互いの体をぶつけ合う。
レオはその隙を見逃さず、広場の端を音もなくすり抜けて、さらに下層へと続く細い通路に体を滑り込ませた。
ここからは急な下り坂になり、岩肌は常に湧き水で濡れて苔むしている。
レオは壁面のくぼみに正確に足を引っかけながら、滑るようにして暗闇を下っていく。
背後からは、視力を取り戻した男たちの怒号と、金属が岩にぶつかるけたたましい音が追ってきていた。
通路の先が青く発光し始め、地底湖の階層へと到着する。
波一つない鏡のような水面が、青い光を反射して不気味なほど静まり返っていた。
レオは湖畔を迂回し、水際に突き出た巨大な鍾乳石の裏側へと身を隠した。
ここは、あの巨大な亀に似た魔物が眠る縄張りだ。
普段は湖の底に沈んでいるが、水面に大きな振動が伝われば必ず姿を現す。
追手たちが坂を転がるようにして地底湖のほとりへとなだれ込んできた。
苔で滑る足元に手こずり、何人かが派手な水音を立てて湖の浅瀬に倒れ込む。
その振動が、静寂の湖面を大きく揺らした。
「気をつけろ。足元がひどく滑る」
リーダー格の男が指示を飛ばした直後、湖の中心部が大きく盛り上がった。
空気を震わせるような低い咆哮とともに、巨大な亀の魔物が水柱を上げて姿を現す。
岩のような突起が無数に生えた硬い甲羅と、鋭いくちばしを持った恐ろしい姿が、青い光の中に浮かび上がった。
魔物の赤い双眸が、武器を掲げて騒ぎ立てる男たちを明確な敵として捉える。
「な、なんだこの化け物は」
男たちの声に恐怖が混じった。
魔物が俊敏な動きで岸辺に跳躍し、巨大な顎で一人の男の剣を腕ごと軽々と噛み砕く。
絶叫が地底湖に響き渡り、男たちは恐慌状態に陥って剣を振り回した。
硬い甲羅に刃が弾かれ、火花が散る。
レオは岩陰で息を潜め、自分のフェロモンを極限まで薄めるように呼吸を整えながら、彼らが魔物に蹂躙されていく様を冷徹な目で見つめていた。
自分とアレクの穏やかな生活を壊そうとする者たちへの、これが辺境の掟だ。
だが、リーダー格の男だけは冷静さを失っていなかった。
彼は部下たちが魔物の囮になっている隙に、湖畔の岩陰を注意深く見回し、レオが隠れている鍾乳石の裏側に目を留めた。
雪で濡れたレオの外套の端が、わずかに岩からはみ出していたのだ。
男は音を立てずに岩を回り込み、レオの背後へと忍び寄る。
殺気に気づいてレオが振り返ったときには、男の刃がすでに頭上に振り上げられていた。
「皇帝の汚点め。ここで死ね」
男の目が血走り、口元が残酷に歪む。
逃げ場はない。
レオは両手で頭を庇い、きつく目を閉じた。
その瞬間だった。
洞窟の奥底から、空気を物理的に叩き潰すような、凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
それは風ではない。
火打石を力任せに打ち合わせたような焦げた匂いと、大森林が業火に焼かれるようなαのフェロモンの奔流だった。
あまりの威圧感に、刃を振り下ろしようとしていた男の動きが静止した。
男の目が見開き、剣を持つ手がガタガタと音を立てて震え始めた。
背後で暴れ狂っていた巨大な亀の魔物すらも、その気配に恐れをなし、湖の底へと逃げるように沈んでいく。
レオがゆっくりと目を開けると、男の背後の暗闇から、静かな足音とともに一つの影が歩み出てきた。
漆黒の外套に雪を乗せ、琥珀色の瞳を地獄の業火のように燃え上がらせたアレクがそこに立っていた。
彼の顔には一切の表情がなく、ただ純粋な殺意だけが冷たい刃のように研ぎ澄まされている。
「俺の伴侶に、何をしている」
地を走るような低い声が、男の鼓膜を直接殴りつけた。
男は悲鳴すら上げられず、手から剣を取り落とし、そのまま糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちて気絶した。
アレクの放つ恐怖のフェロモンに、精神が完全に焼き切れたのだ。
生き残っていた他の追手たちも、次々と泡を吹いて冷たい岩肌に倒れ伏していく。
静寂が戻った地底湖に、アレクの荒い息遣いだけが響いていた。
彼はレオの無事を確認すると、業火のような気配を一瞬にして消し去り、いつもの雨上がりの森の香りへと戻した。
足早に駆け寄り、冷え切ったレオの体を力強く抱きしめる。
彼の外套に付着した雪の冷たさも気にならないほど、その胸板は激しく熱を持っていた。
「アレク……。どうして」
「宿場町に着く手前で、お前の匂いが恐怖に染まるのを感じた。馬を潰す勢いで引き返してきた」
彼の声はひどく震え、レオの背中を抱く手に痛いほどの力が込められる。
どれほどの焦燥と恐怖を抱えて、吹雪の中を駆け戻ってきたのか。
レオは彼の背中に腕を回し、その震えを鎮めるように優しく撫でた。
「僕は大丈夫だよ。君が、間に合ってくれたから」
二人の香りが暗い地底湖の空気を優しく満たし、互いの生存を確かめ合うように深く絡み合っていく。
追手たちの冷たい体が転がる中で、そこだけが絶対的な安全と温もりに守られた小さな城となっていた。
アレクはレオの額に深く口づけを落とすと、倒れている男たちを見下ろして低くつぶやいた。
「帝都の老人共は、越えてはならない一線を越えた。この落とし前は、必ずつけさせる」
その言葉には、皇帝としての冷徹な決意が込められていた。
吹雪の夜の襲撃は失敗に終わったが、これが新たな嵐の始まりであることを、二人は静かに悟っていた。




