第7話「玉座の宣告と番の証明」
洞窟の冷気と、追手たちが放っていた血生臭い気配が、静寂を取り戻した地底湖の底に重く沈殿していた。
アレクは気絶した男たちを冷たい岩肌に転がしたまま、レオの体を自身の外套でしっかりと包み込む。
雪で濡れた布地の下から伝わってくる彼の体温が、恐怖でこわばっていたレオの筋肉を少しずつ解きほぐしていった。
背中を撫でる大きな手は優しく、しかし確かな力を込めてレオを守る意思を示している。
互いの香りが暗がりの中で交じり合い、荒れ狂っていた感情の波がゆっくりと凪いでいくのを感じた。
しばらくして、洞窟の入り口の方から複数の重い足音が近づいてきた。
「陛下。ご無事ですか」
松明の光とともに現れたのは、銀色の鎧を身にまとった近衛兵たちだった。
アレクの命令で宿場町に待機していた彼らが、主の危機を察知して駆けつけてきたのだ。
アレクはレオを胸に抱いたまま振り返り、冷徹な視線を近衛兵の隊長へと向ける。
「遅い。俺の離宮に鼠が入り込むまで、何を見ていた」
低く静かな声が、洞窟の岩壁に反響する。
隊長は顔色を失い、冷たい岩床に深く片膝をついた。
「申し訳ございません。吹雪に紛れて宿場町を抜け出した一団があり、追跡に手間取りました」
「言い訳は聞かん。こいつらを縛り上げ、宿場町へ連行しろ」
アレクの指示に従い、近衛兵たちが気絶している襲撃者たちを荒々しく引きずり起こしていく。
その作業を一瞥した後、アレクはレオの肩を抱き寄せたまま、ゆっくりと洞窟の出口へと歩みを進めた。
翌朝、荒れ狂っていた吹雪は嘘のように止み、辺境の村は一面の白銀の世界へと姿を変えていた。
雲一つない青空から降り注ぐ太陽の光が、新雪を反射してまばゆいほどに輝いている。
蹴り破られた食堂の扉は、アレクが朝早くから厚い木板を打ち付けて応急処置を施していた。
隙間風を防ぐために内側から厚手の布が張られ、薪ストーブの火力が最大に保たれているおかげで、部屋の中は十分に温かい。
レオは厨房で温かい茶をいれながら、土間に立つアレクの背中を見つめていた。
今日の彼は、くつろいだ平服ではなく、漆黒の生地に帝国の紋章が銀糸で刺繍された、正装に近い外套を身にまとっている。
その背中から放たれるのは、辺境の青年としての穏やかな気配ではなく、帝国を統べる絶対者としての冷たく鋭い威光だった。
表の雪を踏みしめる音が多数近づき、戸口で止まった。
アレクが短く入室を許可すると、木板で補修された扉が開き、近衛兵に両腕を固められた一人の男が引き立てられてくる。
豪華な毛皮の外套は雪と泥に汚れ、手入れの行き届いていた髪は乱れきっていた。
帝都からの使者として偉ぶっていた保守派貴族、シリウスだ。
彼は土間に引き据えられると、屈辱に顔を歪めながらも必死に取り繕うように声を張り上げた。
「へ、陛下。これは一体何の真似でしょうか。私は帝都への帰路、吹雪で立ち往生していたところを、突然近衛兵に捕縛され……」
「白々しい嘘を吐く口を、今すぐ縫い合わせてやろうか」
アレクの声は低く、感情の起伏を一切感じさせない氷点下の響きを帯びていた。
その言葉だけで、シリウスの肩がびくりと跳ねる。
アレクはゆっくりとした足取りでシリウスの前に歩み寄り、冷たく見下ろした。
「お前が私兵を雇い、俺の留守を狙ってこの離宮を襲撃させたことはすでに裏が取れている。捕らえた鼠どもは、少し脅しただけですべてを白状したぞ」
シリウスの顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。
彼の目線が泳ぎ、言い訳の言葉を探して唇がわななく。
「そ、それは誤解です。帝国の未来を憂う一部の過激な者たちが勝手に暴走しただけで、私には何の関与も……」
「黙れと言っている」
アレクが鋭く言い放った瞬間、彼から放たれるαの気配が部屋の空気を一気に押し潰した。
シリウスの言葉が喉の奥で詰まり、ひゅーひゅーというかすれた呼吸音だけが漏れる。
アレクは腰の剣を抜くことも、暴力に訴えることもなかった。
ただ、皇帝として生まれ持ったその威光と、圧倒的な魂の格の違いだけで、目の前の男を屈服させていた。
シリウスは重圧に耐えきれず、自ら土下座するような姿勢で床に顔を擦り付ける。
「お前たちが帝国の伝統とやらを守るために、影でどのような策謀を巡らせてきたか、俺が知らないとでも思っていたか。だが、俺の伴侶に刃を向けたことだけは、万死に値する」
伴侶。
その言葉が、静かな部屋に深く、重く響き渡った。
厨房に立つレオの心臓が、大きく跳ねる。
アレクはシリウスから視線を外し、部屋の奥に立つレオの方へと真っ直ぐに向き直った。
彼の表情から冷たい威光が消え去り、琥珀色の瞳に深い愛情と誓いの色が宿る。
アレクはレオの元へ歩み寄り、その手を取って、シリウスや近衛兵たちが控える土間の方へと引き寄せた。
「よく聞け、シリウス。そして帝都の愚か者どもに伝えろ」
アレクはレオの肩をしっかりと抱き寄せ、誰の目にも明らかな形でその存在を誇示した。
「ここにいるレオは、ただの平民でも、ましてや愛人などでもない。俺の魂が選び抜いた、唯一の運命の番だ」
その宣言は、どんな武力よりも強力な楔となって、その場にいるすべての者の心に打ち込まれた。
レオの体から、甘く熟した果実の香りが立ち上り、アレクの放つ森の香りと完璧に絡み合う。
二人のフェロモンが織りなすその香りは、誰にも否定できない番の証明として部屋を満たしていった。
シリウスは床に顔を擦り付けたまま、絶望に満ちたうめき声を漏らす。
由緒正しき血筋を重んじる彼らにとって、皇帝が運命の番を見つけ、それを公式に宣言したという事実は、一切の干渉を封じられる決定的な敗北を意味していた。
「お前の貴族としての特権をすべて剥奪し、最果ての鉱山への無期労働を命ずる。俺の番に刃を向けた代償を、一生かけて泥にまみれて償え」
冷徹な判決が下され、シリウスは糸が切れたように気力を失ってその場に崩れ落ちた。
近衛兵たちが無言で彼を両脇から抱え上げ、雪の積もる外へと引きずり出していく。
扉が閉められ、部屋に再び二人きりの静寂が戻ってきた。
アレクは大きく息を吐き出し、レオの肩を抱いていた腕の力を少しだけ緩める。
彼から漂っていた皇帝としての重圧が嘘のように消え去り、元の穏やかな青年の気配へと戻っていく。
レオは顔を上げ、アレクの整った横顔を見つめた。
「よかったの。あんなにはっきりと、僕のことを番だなんて言って」
震える声で尋ねると、アレクはレオの方へ向き直り、両手でその頬を包み込んだ。
親指の腹で目尻を優しくなぞる手つきは、どこまでも温かい。
「まだ言うか。俺はお前がいなければ、あの冷たい玉座でとっくに息絶えていた。お前が俺の番であることは、世界がひっくり返ろうとも変わらない真実だ」
その言葉に、レオの目から温かい涙があふれ出した。
身分違いだと悩み、彼を傷つけることを恐れていた自分の弱さが、彼の強固な愛によって溶かされていく。
レオはアレクの胸に顔を埋め、その力強い鼓動を耳元で聞きながら、彼の背中にしっかりと腕を回した。
外の雪景色とは対照的に、二人の間には春の陽だまりのような暖かさが満ち溢れていた。
身分も、過去のしがらみも、権力闘争の闇も、もう二人の城を脅かすことはできない。
長く苦しい逃亡の果てに、レオはようやく、絶対に失われることのない真の居場所を手に入れたのだ。




