第5話「白銀の視察と忍び寄る刃」
窓ガラスに幾重にも重なった霜の結晶が、朝の淡い光を受けて銀色に輝いていた。
外の世界は雪に覆われ、すべての音が厚い白の層に吸い込まれたかのように静まり返っている。
厨房に立つレオは、吐く息の白さに冬の深まりを感じながら、分厚い木のまな板の上で小麦粉の生地を力強く練り上げていた。
今日は、アレクが月に一度の定期視察として、近隣の宿場町へ出向く日だった。
そこに駐留させている近衛兵の部隊長たちから、国境の警備状況や冬の備蓄に関する直接の報告を受けるためだ。
往復の移動を含めても日帰りの短い行程だが、雪道を馬で進む彼のために、レオは鞍袋に忍ばせられる温かい携行食を用意しようとしていた。
練り上がった生地を麺棒で薄く引き伸ばし、丸く型を抜いていく。
その中央に、裏庭の洞窟で仕入れておいたひき肉と香草を炒めたものを乗せた。
さらに、あの氷穴の手前の階層で黄金の生き物から譲り受けた、チーズのような濃厚な欠片をたっぷりと削り入れる。
生地を半分に折りたたんで縁をしっかりと指で閉じ、表面に卵黄を刷毛で塗ってから、十分に熱した石窯の奥へと滑り込ませた。
しばらくすると、小麦が香ばしく焼ける匂いと、内側で溶け出した黄金の食材の甘く深い香りが、冷え切った厨房の空気を満たしていく。
背後の階段がきしむ音がして、重厚な冬用の外套を身にまとったアレクが下りてきた。
漆黒の厚手な生地に銀の刺繍が施されたその外套は、皇帝としての威厳を静かに放っている。
だが、その表情はどこか不満げで、微かに眉間には皺が寄っていた。
「外は随分と冷え込んでいる。お前も竈の火から離れるなよ」
彼は低い声で言いながら、レオの背後からその腰に両腕を回してきた。
分厚い外套越しでも、彼の体から伝わる力強い熱と、雨上がりの森のようなαの香りがレオの全身を包み込む。
首筋に彼の顔が埋められ、深く息を吸い込む音が聞こえた。
離宮での生活が長くなるにつれ、彼は視察などで少しでもレオと離れることをひどく嫌がるようになっていた。
「心配性だな。僕は一日中、この暖かい家の中で夕食の仕込みをしているだけだよ」
レオは窯から焼き上がったばかりのミートパイを取り出し、熱を逃がさないように厚手の麻布で包みながら微笑んだ。
その包みをアレクの手に持たせ、彼の冷たい頬に自分の手をそっと当てる。
「熱いうちに食べて。君が帰ってくる頃には、もっと美味しいシチューを作って待っているから」
アレクはレオの手に自分の手を重ね、その手のひらに短く口づけを落とした。
「日没までには必ず戻る。戸締まりだけはしっかりとしておけ」
名残惜しそうに何度も振り返りながら、アレクは雪の積もる表の街道へと出て行った。
彼が乗る黒馬の蹄の音が、雪に吸収されてくぐもった音を立てながら遠ざかっていく。
その音が消えると、小さな食堂の中には急激な静寂が訪れた。
彼がいないだけで、部屋の空気がひどく冷たく、広く感じられる。
レオは小さく息を吐き出し、気を紛らわせるように厨房の片付けに取り掛かった。
昼を過ぎる頃から、窓の外の景色が変わり始めた。
灰色の雲がさらに低く垂れ込め、風の音が唸りを上げて家の壁を叩き始める。
横殴りの吹雪が視界を白く塗りつぶし、太陽の光を分厚く遮って周囲を夕闇のように沈ませてしまった。
隙間風が入り込まないよう、レオは窓枠に厚い布を詰め込み、薪ストーブの火力を一段階引き上げた。
鉄の扉の奥で炎が赤々と燃え盛り、パチパチと薪が爆ぜる音が部屋の静寂を紛らわせてくれる。
夕暮れが近づき、レオは約束通りシチューの仕込みを始めていた。
根菜を大きめに切り分け、鍋の中でバターと一緒にゆっくりと炒めていく。
風の唸り声はさらに激しさを増し、屋根の雪が滑り落ちる重い音が時折響いていた。
そのときだった。
風の音とは明らかに違う、不自然な音がレオの耳を打った。
雪を踏みしめるような、硬く重い足音。
それも、一人や二人のものではない。
アレクが予定を早めて帰ってきたのかと思い、レオは鍋から顔を上げた。
だが、彼の気配はまったく感じられない。
窓の隙間から外を覗き込むと、猛烈な吹雪の向こう側に、複数の黒い人影が家を取り囲むようにして立っているのが見えた。
近衛兵の銀色の鎧ではない。
全員が顔の下半分を黒い布で覆い、手には抜き身の剣を握りしめている。
剣の刃が、窓から漏れる薪ストーブの微かな光を反射して冷たく光った。
心臓が早鐘のように鳴り始め、レオの背筋を冷たい悪寒が駆け下りる。
あの日の、帝都からの使者シリウスの侮蔑に満ちた視線と、捨て台詞が脳裏に蘇った。
彼らは皇帝の離宮であるこの家を襲撃しに来たのだ。
皇帝の経歴に傷をつける辺境の平民を、吹雪の夜の闇に紛れて始末するために。
表の重厚な木の扉が、外から力任せに蹴り破られる激しい音が響いた。
蝶番がひしゃげ、木片が土間に散乱する。
吹き込んでくる氷のような突風が、部屋の中の温かい空気を一瞬にして奪い去り、壁にかけられていたランプの火を吹き消した。
完全な暗闇となった土間に、雪まみれの黒い外套を着た男たちが次々と踏み込んでくる。
彼らの体からは、血の匂いと、任務を遂行するための冷酷な殺意が立ち上っていた。
「皇帝陛下の汚点を消し去れ。痕跡は残すな」
低くしゃがれた声の号令とともに、男たちが厨房の方へと一斉に踏み込んでくる。
剣の切っ先が、闇の中でレオの体を正確に捉えようと動いた。
レオの体の中で、恐怖によるΩのフェロモンが暴走しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に押さえ込む。
震える足に力を込め、レオはすぐ横にあった竈の上の大鍋を両手で掴み取った。
中には、野菜の泥を落とするために沸かしておいた熱湯がたっぷりと入っている。
重い鍋を振りかぶり、踏み込んできた先頭の男たちに向かって力任せに中身をぶちまけた。
熱湯が彼らの外套と顔に降りかかり、短い悲鳴とくぐもった怒号が吹雪の音に混じって響く。
男たちが怯んだその一瞬の隙を突き、レオは壁にかけられていた自分の冬用の外套をひったくった。
そのまま振り返ることなく、裏口の扉に向かって全力で駆け出す。
背後から剣が空気を裂く鋭い音が聞こえたが、刃はレオの背中をわずかにかすめただけで空を切った。
裏口の扉を体当たりするようにして押し開け、猛烈な吹雪の吹き荒れる裏庭へと身を投じる。
刃物のように鋭い風が頬を切り裂き、視界は真っ白に染まって何も見えない。
膝まで埋まる深い雪に足を取られながらも、レオは家の裏手にある岩肌の方向へと無我夢中で足を動かした。
目指すのは、彼だけが熟知しているあの暗闇の迷宮だ。
「逃がすな。裏へ回ったぞ」
男たちの怒号が、すぐ背後まで迫っている。
雪を踏み荒らす重い足音が複数、レオの軌跡を正確に追ってきていた。
体温が急速に奪われ、手足の感覚が失われていく中、レオは外套のフードを深く被り直し、冷たい雪を掻き分けるようにして洞窟の入り口へと滑り込んだ。




