第4話「薪ストーブの灯りと不変の誓い」
使者が去った後の食堂には、ひどく重く、息苦しい空気が沈殿していた。
窓の外では、鉛色の雲からついに細かな雪が舞い始め、乾いた土をうっすらと白く染めている。
レオは厨房の隅で、無心になって野菜の皮を剥き続けていた。
刃を動かす単調な音だけが響く中、脳裏にはシリウスの冷ややかな視線と侮蔑の言葉が何度もフラッシュバックする。
自分がこの場所にいることが、アレクの重荷になっているのではないか。
皇帝という立場を考えれば、彼が帝都に戻り、ふさわしい皇妃を迎えるのが正しい道なのだ。
指先がわずかに震え、刃先が危うく指をかすめそうになった。
深いため息をつき、ナイフをまな板の上に置く。
「レオ」
すぐ背後から、低い声が降ってきた。
振り返るよりも早く、大きな手がレオの肩を後ろからそっと包み込む。
アレクの体温が、薄い服越しに伝わってきた。
彼から漂う森のような香りが、不安で冷え切っていたレオの心を包み込もうとする。
だが、今のレオは素直にその温もりにすがりつくことができなかった。
肩をわずかにすくめ、彼の腕から逃れようとする。
「あの男の言葉を、気にしているのか」
アレクは腕の力を緩めず、むしろさらに深くレオを引き寄せた。
彼の広い胸板に背中が密着し、力強い鼓動が直に伝わってくる。
「……気にしないなんて、無理だよ」
レオは視線をまな板に落としたまま、かすれた声で絞り出した。
「彼らの言う通りだ。僕はただの平民で、君に後継者を残すこともできない。僕がここにいるせいで、君は帝都の貴族たちから反感を買い続けることになる。君の立場を思えば、僕は……」
「俺の立場だと」
アレクの声が、わずかに低く沈んだ。
彼はレオの肩を掴んだまま、強引に体を反転させる。
目の前に立った彼の琥珀色の瞳は、かつてないほど真剣な光を帯びていた。
「帝国の血筋だの、貴族の支持だの、そんなものは俺の幸せには微塵も関係ない」
アレクは両手でレオの冷えた頬を包み込んだ。
親指の腹で、目元を優しくなぞる。
「俺は生まれてからずっと、その立場という見えない鎖に縛られて生きてきた。感情を殺し、誰のことも信じず、ただ息をするためだけに冷たい玉座に座っていたんだ。だが、お前が俺を見つけてくれた。お前の作る食事が、お前の匂いが、俺に生きているという感覚を取り戻させてくれたんだ」
彼の手のひらから伝わる熱が、レオの心の奥にある凍りついた不安を少しずつ溶かしていく。
「お前がいない皇帝の座など、俺にとっては地獄でしかない。俺が本当に欲しいのは、帝国でも権力でもない。ただ、お前が隣で笑って、温かい食事を作ってくれるこの場所だけなんだ」
その飾らない、血を吐くような本音の言葉に、レオの目から涙があふれ出した。
彼の孤独の深さを誰よりも知っているのは、自分のはずだった。
宮廷の権力闘争の中で彼がどれほど心をすり減らしてきたか。
それなのに、自分は帝都の貴族たちの言葉に揺らぎ、彼を手放すことを考えてしまった。
なんて愚かだったのだろう。
レオは頬を包む彼の手首を両手で掴み、涙で濡れた顔を上げた。
「ごめん、アレク。僕が間違ってた。君を一人にするなんて、絶対に嫌だ」
レオの言葉を聞き、アレクの表情がようやく安堵に緩む。
彼はレオを強く抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。
互いの体温が交じり合い、レオの体から甘く熟した果実の香りが立ち上る。
アレクの深い森の香りと溶け合い、二人の間にある見えない境界線が完全に消え去っていく。
Ωとαという本能の結びつきだけでなく、心と心が強固な絆で結ばれ直した瞬間だった。
「もう二度と、お前を手放すようなことは言わせない。俺が必ず、すべてからお前を守り抜く」
耳元で囁かれた誓いに、レオは何度も小さく頷いた。
彼の腕の中で、すべての迷いが雪のように溶けて消えていくのを感じる。
やがて体を離すと、レオは涙を袖で拭い、赤くなった目元をこすりながら微笑んだ。
「夕食の準備をするよ。今日は特別に寒いから、体を芯から温めるシチューにしよう」
「ああ。楽しみにしている」
アレクは優しくレオの髪を撫で、薪ストーブの火の番をするために床にしゃがみ込んだ。
レオは再びまな板の前に立ち、野菜を切り始める。
今度は、迷いも震えもなかった。
大きな鉄鍋に、塩漬けにして保存しておいた燻製肉のブロックと、大きめに切った根菜をたっぷりと放り込む。
そこに、裏庭の洞窟で採れる少しとろみのある湧き水を注ぎ、香草の束を浮かべてじっくりと煮込んだ。
薪ストーブの熱で鍋がコトコトと音を立て始めると、肉の旨味と燻製の香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていく。
煮汁が半分ほどになったところで、新鮮な牛乳と、あの黄金の食材の欠片を少しだけ削り入れた。
黄金の欠片が溶け込むと、スープは一気にまろやかなクリーム色へと変わり、蜂蜜のような深い甘い香りが加わった。
外の寒さを忘れさせるような、濃厚で心温まるシチューの完成だ。
食卓に並べられた二つの木の器からは、白い湯気が立ち上っている。
アレクは匙を手に取り、大きくすくって口へ運んだ。
「……美味い。燻製肉の塩気と、このスープの甘みが驚くほど合っている。野菜も溶けるように柔らかいな」
「じっくり煮込んだからね。これで、嫌なことも全部溶けてなくなればいいんだけど」
レオが笑いながら言うと、アレクは匙を置き、真っ直ぐにレオの目を見た。
「嫌なことなど、もう何もない。お前がここにいて、この食事がある。それだけで、俺の世界は隅々まで満たされている」
その言葉に嘘はない。
彼から漂う穏やかな香りが、それを証明していた。
レオも自分のシチューを口に運び、その温かさをお腹に落とす。
窓の外では、雪が本降りになり、音もなく村を白く染め上げていた。
だが、この小さな食堂の中だけは、薪ストーブの柔らかな光と、二人の確かな体温、そして互いを包み込むフェロモンの匂いに守られている。
帝都からどんな冷たい風が吹こうとも、この温かい場所を絶対に守り抜く。
レオはシチューの湯気の向こうで微笑むアレクの顔を見つめながら、静かに、そして力強く決意を固めていた。




