第3話「水晶の魚と帝都からの冷たい風」
氷穴から持ち帰った切り身は、厨房の温かい空気に触れても水晶のような透明感を保っていた。
レオは分厚いまな板の上にその切り身を置き、最も刃の薄いナイフを慎重に滑らせていく。
身の締まりが強く、刃を入れるたびに微かな抵抗が手元に伝わってきた。
薄く引いた身を、深みのある濃紺の陶器の皿に花びらのように並べる。
そこに、裏庭の洞窟の浅い階層で採れる、黄色く熟した柑橘の果汁をたっぷりと絞った。
果汁が触れた瞬間、透明だった身がほんのりと白く濁り、実の表面がきゅっと引き締まるのがわかった。
仕上げに砕いた岩塩と、香りの強い青い香草を散らすと、爽やかな匂いが厨房の空気を洗うように広がった。
もう半身は、熱した鉄の小鍋で軽く表面だけを炙る。
脂が弾ける音とともに、淡泊でありながらも芯のある香ばしい匂いが立ち上った。
火を通しすぎないうちに鍋から取り出し、代わりに砕いた木の実と少しのワイン、それにあの黄金の食材の欠片を溶かし込んだ濃厚な温かいソースを煮詰める。
冷たい前菜と、温かいソースを絡めた主菜。
同じ魚から作ったとは思えないほど、対照的な二つの皿が食卓に並んだ。
向かい合って座るアレクは、まず薄く引かれた生の切り身をフォークで口に運ぶ。
咀嚼するたびに彼の目が見開かれ、驚きに眉がわずかに持ち上がった。
「すごい弾力だ。それに、噛めば噛むほど透き通った甘みがあふれてくる。柑橘の酸味がそれをさらに引き立てているな」
「冷たい水の中で育ったから、身が引き締まっているんだね。こっちの温かいソースの方も食べてみて」
レオが勧めると、アレクは軽く炙った身に黄金色のソースをたっぷりと絡めて口に運んだ。
「……表面の香ばしさと、中の冷たい食感の対比が絶妙だ。それに、このソースの濃厚さが淡泊な白身を完璧なご馳走に変えている。お前の料理は、いつも俺の想像を軽く超えていくな」
褒め言葉に頬を緩ませながら、レオも自分の皿の魚を口に運ぶ。
氷穴の凍てつく寒さを思い出しながら食べるその味は、格別だった。
食卓を挟んで交わされる視線と、互いの料理を味わう穏やかな時間。
アレクから漂う森のような香りと、レオから自然と漏れる果実の香りが、薪ストーブの暖かな熱気とともに部屋を満たしている。
この温かい空間がいつまでも続けばいいと、レオは胸の奥で静かに祈った。
◆ ◆ ◆
だが、その祈りを嘲笑うかのように、翌朝の空気は昨日よりもさらに冷え込み、空は重く鉛色の雲に覆われていた。
朝食の片付けを終え、レオが竈の灰を掃除していると、表の街道からけたたましい馬の蹄の音が近づいてきた。
音は食堂のすぐ前で止まり、複数の重い足音が土を踏みしめる音が響く。
アレクは手にしていた羊皮紙から視線を上げ、窓の外へと目を向けた。
彼の琥珀色の瞳が鋭く細められ、部屋の空気が一瞬にして張り詰める。
穏やかだった森の香りが、冬の冷たい風を思わせる鋭いαの気配へと変化した。
レオは灰をすくう手を止め、前掛けの裾を強く握りしめた。
重厚な木の扉が、外から強く叩かれる。
アレクは無言のまま立ち上がり、ゆっくりとした足取りで土間へと向かった。
彼がかんぬきを外し、扉を引き開ける。
外に立っていたのは、豪華な毛皮の外套を羽織り、一目で高位の貴族とわかる身なりをした壮年の男だった。
背後には、彼を護衛するように数人の騎士が控えている。
男はアレクの姿を認めると、その場に片膝をついて深く頭を下げた。
「陛下。急な訪問をお許しください。帝都より参りました、シリウスと申します」
低く、よく響く声だった。
だが、その声には敬意の裏に隠しきれない傲慢さがにじんでいる。
アレクは扉を開け放ったまま、冷ややかな視線でシリウスを見下ろした。
「俺は使者を呼んだ覚えはない。書類のやり取りだけで済むはずだ」
「政務に関しましては、陛下の迅速なご裁決に感謝しております。ですが、本日は帝国の行く末を憂う者たちの代表として、直接ご進言に上がった次第です」
シリウスは顔を上げ、立ち上がる許可を待たずに立ち上がった。
彼の視線が、アレクの肩越しに部屋の奥へと向けられる。
竈のそばで立ち尽くすレオと目が合ったとき、シリウスの顔に明らかな侮蔑の色が浮かんだ。
彼の外套から、人工的でむせ返るような強い香水の匂いが漂ってくる。
それは、宮廷の権力争いの中で他者を威圧し、己の欲望を隠すために使われる、レオにとって最も忌まわしい匂いだった。
胃の奥が冷たく縮み上がり、レオは思わず半歩後ずさった。
「このような辺境の、しかもみすぼらしい平民の家屋を離宮とされること自体、我々には理解しがたいことです」
シリウスは部屋の質素な造りを見回し、鼻で笑うように吐き捨てた。
「しかし、それ以上に問題なのは、陛下が素性も知れぬ者をそばに置かれていることです。皇帝たる者、帝国の血筋を強固にするため、由緒正しき貴族の娘を皇妃として迎える義務がおありのはず。このような場所で、どこの馬の骨とも知れぬ者と……」
「黙れ」
アレクの低い声が、シリウスの言葉を氷のように断ち切った。
声量は大きくなかったが、そこに含まれる威圧感は圧倒的で、土間の空気が凍りついたかのように重くなる。
アレクから放たれる火打石を打ち合わせたような焦げたαの気配が、シリウスの人工的な香水の匂いを跡形もなく掻き消した。
シリウスの顔が引きつり、背後の騎士たちが思わず剣の柄に手をかける。
だが、アレクの鋭い一瞥を受け、彼らは怯えたように手を離した。
「俺の居場所は俺が決める。そして、誰を隣に置くかも俺が決めることだ。帝都の老人共が俺の私生活に口を挟む権利はない」
「陛下、これは帝国の未来に関わる問題です。平民を、しかも男を伴侶とするなど、前代未聞の……」
「帰れ」
アレクは冷徹な声で告げた。
「これ以上俺の領域を汚すなら、たとえ使者であろうと容赦はしない。帝都の保守派に伝えろ。俺に干渉すれば、それ相応の代償を払わせることになるとな」
その言葉には、一切の妥協も揺らぎもなかった。
シリウスは怒りと屈辱に顔を赤く染めたが、皇帝から発せられる絶対的な気迫を前に、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
彼は苛立たしげに舌打ちをし、乱暴に身を翻す。
「……後悔なさいますぞ、陛下」
捨て台詞を残し、シリウスと騎士たちは土埃を上げて馬に乗り、帝都の方角へと走り去っていった。
蹄の音が遠ざかり、再び静寂が戻ってくる。
アレクは扉を閉め、重いかんぬきを下ろした。
部屋の中に残されたのは、彼から放たれていた鋭い気配の余韻と、冷たい外気だけだった。
レオは前掛けを握りしめたまま、その場から動くことができなかった。
シリウスの言葉が、鋭い棘のように胸の奥に突き刺さっている。
身元も知れぬ者。
みすぼらしい平民。
それが、帝都の貴族たちから見た自分の客観的な評価なのだ。
アレクは皇帝であり、いつか血筋を残すために貴族の娘を迎えなければならない。
自分はΩであり、男だ。
彼に後継者を産むことはできない。
アレクがどれほど自分を愛してくれても、このままでは必ず彼の足を引っ張ることになる。
先ほどまで感じていた温かな幸福感が、急速に冷めていくのを感じる。
アレクが振り返り、レオの顔を見る。
彼の鋭かった気配がふっと緩み、元の穏やかな森の香りへと戻ろうとしているのがわかった。
だが、レオは彼と視線を合わせることができず、逃げるように床へ目を落とした。
「……ごめんなさい、アレク。お茶を、いれ直すね」
震える声でそう言い残し、レオは急いで厨房の奥へと身を隠した。
鉄瓶に水を注ぐ手が、小刻みに震えている。
彼と一緒にいたいという願いは、ただの自分のわがままでしかないのではないか。
冷たい水音が、レオの心に落ちた暗い影をさらに深く広げていった。




