第2話「凍てつく階層と水晶の鱗」
吐く息が白さを増し、森の木々が葉を落として寒々しい骨組みだけを空に晒すようになった頃。
レオは背負い籠を肩にかけ、防寒のための厚手の外套をしっかりと羽織っていた。
隣には、同じく分厚い毛皮の襟がついた外套を着込んだアレクが立っている。
今日の目的地は、裏庭の洞窟のさらに奥深く、まだ十分に探索を終えていない未知の階層だった。
冬を越すための保存食は順調に確保できていたが、日々の食卓に少しの変化を持たせたいとレオが提案したのだ。
「以前、あの黄金の生き物を見つけた場所よりも、さらに下へ続く道があっただろう。あそこなら、冬にしか採れない特別な食材があるかもしれない」
レオの言葉に、アレクは好奇心を隠すことなくうなずき、二人は静かに洞窟の入り口へと足を踏み入れた。
入り口付近の空気は外の冷気と大差ないが、奥へ進むにつれて、洞窟特有のひんやりとした湿気が肌を包み込む。
発光キノコの淡い緑色の光が足元を照らし、いつものパンの木が群生する広場を難なく通り抜けた。
銀色の魚が泳ぐ地底湖のほとりを過ぎ、黄金の苔が自生する階層へと足を踏み入れる。
前回はここで引き返したが、今回はその先にある細い岩の裂け目へと体を滑り込ませた。
急な下り坂が続き、足元の岩肌にはうっすらと霜が降り始めているのがわかる。
踏みしめるたびに、薄い氷が砕けるような微かな音が足裏から伝わってきた。
通路の壁面を照らす光も、黄金色から次第に青白く透明な色合いへと変化していく。
気温は一段と下がり、レオは外套の襟元をきつく引き寄せた。
「足元が滑る。手を出して」
前を歩いていたアレクが振り返り、大きな手を差し出してきた。
レオはその手に自分の手を重ね、しっかりと指を絡める。
分厚い布越しでも、彼の体から伝わる確かな熱がレオの指先を解きほぐしていくのを感じた。
彼から漂う森のような香りが、冷たい空気の中でより一層澄み切って鼻腔をくすぐる。
しばらく坂を下り続けると、不意に視界が大きく開けた。
そこは、天井から無数の巨大な氷柱が垂れ下がる、広大な地下空間だった。
岩肌のすべてが透明な氷で覆い尽くされ、微かな青白い光を反射して水晶のように煌めいている。
吐く息が瞬時に凍りつきそうになるほどの極寒だが、その静謐な美しさにレオは思わず言葉を失った。
空間の中央には、表面が凍りついた巨大な池が広がっていた。
鏡のように平らな氷の床が、どこまでも奥へと続いている。
「信じられない景色だ。帝都の宝物庫の宝石をすべて集めても、これには敵わないだろうな」
アレクが白い息を吐きながら、感嘆の声を漏らした。
二人は手を繋いだまま、慎重に氷の池のほとりへと歩み寄る。
透明度の高い氷の下を覗き込むと、暗い水底で何かがゆっくりと動いているのが見えた。
光を放つ青白いひれを持ち、全身を透明な水晶のような鱗で覆われた魚たちが、氷の下を優雅に泳いでいる。
「綺麗な魚だ。あんな冷たい水の中で生きているなんて」
レオが身を乗り出して見つめていると、アレクが腰に下げていた短い鉄の棒を引き抜いた。
彼が木の棒ではなく鉄の棒を持ち歩くようになったのは、万が一の魔物との遭遇に備えてのことだ。
アレクは氷の表面を注意深く観察し、比較的薄くなっている場所を見つけ出した。
「下がっていろ、レオ。氷の破片が飛ぶかもしれない」
レオが数歩後ろへ下がったのを確認すると、アレクは両手で鉄の棒を握り直し、足幅を広げて構えた。
鋭い呼気とともに、鉄の棒が真上から真っ直ぐに振り下ろされる。
硬質な衝撃音が氷穴の中に反響し、池の表面に放射状の亀裂が走った。
彼は休むことなく二度、三度と正確に同じ場所を打ち据える。
やがて氷が崩れ落ち、大人一人が手を入れるのに十分な大きさの穴が開いた。
黒く冷たい水が、穴の縁でかすかに波打っている。
アレクは籠から網を取り出し、その穴の近くでじっと身を潜めた。
光に引き寄せられるのか、先ほどの水晶の鱗を持った魚たちが、ゆっくりと穴の真下へと集まってくる。
アレクの腕が弾かれたように動き、網が冷たい水の中へと突き入れられた。
引き上げられた網の中では、青白く光る数匹の魚が跳ね回っている。
氷の床に放り出された魚たちは、空気に触れた途端に淡い光の粒となって空中に弾けた。
後には、透き通るような白身の切り身が、きれいに並んで残されている。
この洞窟特有の不思議な生態系は、凍てつく階層でも健在だった。
レオは慌てて麻布を取り出し、冷え切った切り身を丁寧に包み込んでいく。
指先が凍りつくように冷たいが、この身の引き締まった魚をどう調理しようかと想像するだけで心が弾んだ。
薄く引いて柑橘の果汁をかければ、水晶のような美しさと歯ごたえを楽しめるだろう。
少しだけ火を通して、温かい木の実のソースを合わせるのもいいかもしれない。
十分な量の切り身を確保し、レオが立ち上がろうとしたとき、寒さで足先の感覚が麻痺していたのか、わずかに体勢を崩した。
すかさずアレクの腕が伸びてきて、レオの腰をしっかりと抱き止める。
密着した体から、毛皮越しでもわかるほどの強烈な熱が伝わってきた。
「無理をするな。唇が青くなっているぞ」
アレクは鉄の棒を置き、両手でレオの冷え切った頬を包み込んだ。
彼の手のひらの熱が、凍えていた肌にじんわりと染み込んでいく。
至近距離で見つめ合う琥珀色の瞳の奥には、隠しきれない心配の色が揺れていた。
彼のαとしての気配が、レオの体を温めようと本能的に強く放たれる。
それに呼応するように、レオの中のΩの本能が甘い果実の香りを立ち上らせ、二人の匂いが冷たい氷穴の空気を満たしていった。
「ありがとう、アレク。でも、これで今日の夕食は最高のものになるよ」
レオが彼の手に自分の手を重ねて微笑むと、アレクは小さく息を吐いて表情を和らげた。
「お前の料理への執念には恐れ入る。だが、お前が倒れてしまっては元も子もない。戻ろう」
アレクは籠を背負い、再びレオの手をしっかりと握りしめて歩き出した。
帰り道の急な上り坂も、彼に引かれているおかげで足がもつれることはなかった。
凍てつくような氷穴を抜け、見慣れた黄金の苔の階層まで戻ってくると、少しだけ空気が温かく感じられる。
だが、レオの胸の奥には、氷の冷たさとは違う微かな不安が静かに渦を巻いていた。
最近、帝都から届く書簡の量が目に見えて増えている。
アレクは何も言わないが、書類に目を通す彼の眉間には、以前よりも深い皺が刻まれることが多くなっていた。
皇帝がいつまでも辺境の小さな村にとどまり、正体も知れない平民の料理人と一緒にいることを、帝都の貴族たちが快く思っているはずがない。
いつか、この穏やかな生活を壊すような出来事が起きるのではないか。
そんな不安が、胸の奥底に小さな黒い染みのように広がっていくのを感じる。
前を歩くアレクの広い背中を見つめながら、レオは繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
彼は振り返ることなく、レオの手を同じ強さで握り返してくる。
その確かな体温だけが、今のレオにとって唯一の真実だった。
外の世界がどれほど彼らを否定しようとも、彼のために美味しい食事を作り続けること。
それが、自分に許された唯一の抵抗なのだと、レオは冷たい洞窟の闇の中で静かに決意を固めていた。




