第56話 求心
「レーネ」
声が聞こえる。
小さく肩がゆすられた気がした。
微睡みから、泡沫のような思考が浮かぶ。
「おはよう」
「ぇ……おかえり……」
「うん。ただいま」
アイリが帰ってきたらしい。
帰ってきてくれた。今日も。
……帰ってこないかもしれなかったのに。
寝ぼけていた思考が、過去の記憶を想起させていく。
アイリが1人になりたいと言ったことも。
もうどうしたらいいのかわからないことも。
「眠い? 寝るなら布団で寝た方が良いよ」
「ううん……別に」
小さく首を振る。
なんかおかしい。
アイリの顔が見れない。
怖い。
アイリはどんな顔をしているんだろう。
知ることが怖い。
……相変わらず私は恐怖に耐性がない。
怖い。また恐怖が強くなっている。
「大丈夫?」
「ぁ、いや……」
これじゃ、また前と同じ。いや、前より酷い。
アイリに嫌われたくない。これ以上、独りになりたくない。
「大丈夫。うん。全然」
だから努めて明るく返事をする。
きっと、アイリに寄りかかってばかりじゃいけないから。
「……また何かあった?」
優し気な声色で問われる。
その声を聞くだけで少しほっとしてしまう。
全てを話したくなる。でも、負担になるだけな気もする。もっとアイリが遠くに行ってしまうかもしれない。
「ううん。別に」
「……言ってみて?」
それなのにアイリはまた私の心の内を覗こうとする。
寄りかかって良いの?
わからない。それが嫌で、私が近づきすぎるのが嫌で離れたんじゃないの?
「本当に?」
「……いいよ。レーネの心を知りたいから」
その言葉はいつも通りで……嘘であるようには感じない。
……アイリが私に嘘をついたことなんかほとんどない。もしかしたら全くないかもしれない。隠し事をしていることはあったけれど……
言葉にしていいのかな。
言葉にすれば、戻せないことはよく知っている。
けれど、もしも、この胸中の不安を言葉にして、アイリの心に寄りかかって良いのなら、アイリの心を貰っていいのなら……なんで。
「どうして……どうして1人になりたいなんて言ったの?」
思わず、顔を上げる。
でも、アイリの表情は止まっていた。
「……それは」
「一緒にいたいのに。ずっと一緒にいて欲しいって言ってくれたのに。どうして……?」
もう飽きちゃったのかな。
それともつまらないと思っているのかも。
私が子供すぎて、嫌になってたらどうしよう。
こんなこと言って、嫌われたどうしよう。
その恐怖はまだ隣にある。
けれど、先に疑問は口をついていた。
恐怖を乗り越えたといえば、聞こえはいいけれど。実際のところは、アイリの心への執着が露呈しているだけな気がする。
私はそれほどまでにアイリの心が欲しいらしい。
それに笑ってしまう自分もいるけれど。
それでも私はこうしてアイリを目の前にすれば、その心に手を伸ばさずにはいられないようになってしまった。それが私の好きという感情から生まれるものらしい。執着らしいというか。依存的らしいというか。
アイリは無言で私の眼を見る。
その瞳はいつになく揺れていて、なんというか……私を図っているように見えた。
「……レーネに酷いこと言いたくなかったから」
無言の果てにアイリはそう呟いた。
その言葉の意味が鈍い思考の中ではよくわからなかった。
「……えっと」
思考をまとめる。
私に酷いことを言う?
アイリが……?
アイリに責められたことはある。
それは私がとても臆病で、卑怯だったから。
でも、酷いことを言われた記憶はない。
つまり……
「どういうこと?」
思わず首を傾げる。
意味が上手く取れなくて。
「なんか最近おかしくて。レーネと一緒にいると、酷いこと言いそうになる。それが嫌で、そんなこと言いたくなくて……」
レーネの声は震えている。
そして、不安げに瞳を揺らしながら、私を見てくれている。
「だから、1人になりたくて。それで心を整理できたらって」
「ぃ、酷いことって……?」
掠れた息で問いかける。
それがわからない。わかりたくないだけかもしれない。
でも、聞かないでいられるわけもない。もうそこまで私の心は閉じ籠っていないらしい。
「……レーネといたら、私……全部レーネのせいにしちゃいそうになる」
「私の、せい?」
「色々な事全部。でも、それがおかしいことはわかってる。私が望んだことだから。こうなることを望んでいたのに……」
よくわからない。
この状況が私のせいだと言われても、実際そうなのだから仕方がないような気もする。アイリを唆して、願いの引き金を引いたのは私なのだから。
それで嫌われてしまうのは嫌だけれど、そうしないとアイリは永久にうしなわれていたのだから。
「……1人になりたくて。そうしたら、レーネのせいにしなくて済むから」
「どうして。そんなの気にしなくていいのに」
「気にするよ。レーネのこと、嫌いになりたくない。私のことを嫌いになってほしくない……」
「そんな……」
そんなことあるわけない。そう言おうとして言葉を詰まらせる。
……本当に、アイリを嫌いになることはないなんて言えるのかな。私の心は、感情はそこまで強固だっけ。あまりそんな気はしない。そこまでの自信がない。約束ができない。
だから何も言えなくなる。
「ずっと好きでいたい。私は、レーネのこと好き……この気持ちは本当。けど、嫌いになったらどうしよう」
そんなこと私も想像したくない。
アイリが私を嫌っていることなんて。
「レーネのせいじゃないのに。もしも、レーネに八つ当たりとか。したくない。そんなことしたら、私は私のことがもっと嫌いになる。レーネもきっと私のことを嫌いになるから……」
「私のせいだよ。だって、私が願ったんだから」
「……違うよ。行かないって決めたのは私で。レーネにそう言わせたのも私なんだから」
「そうかな」
「……そうだよ。だけど、レーネのせいにしちゃいそうになる。それが嫌で……レーネに好きでいて欲しくて。だから。1人でいて。心が落ち着くのを待ってたんだけれど……それでレーネを不安にさせちゃったのなら、本末転倒だね」
アイリは笑う。
それを見ても安心できない。
見るからに無理をしている表情だったから。
アイリはいつもより明らかに饒舌で……だからこそ、おかしな感じがした。明らかに言い聞かせるような感じがして。これまでと違う。アイリの本心がどこにあるのかわからない。
「……もっと上手くやれると思ってた。何もかも。ううん……もっと上手くいくって。自分で決めて、私の意思で決断すれば、もう少し世界は上手くいくと思ってた」
今はそんなに上手くいってないのかな。
私達、一緒にいる。黒煙球は確かに怖いけれど、遥か遠くの首都から動く様子はないし、他の問題も些細なものしかないはずなのに。
私達が一緒にいられるのだから、それでいいはずなのに。なんで、アイリは今の状況が駄目な事のように語るんだろう。
わからない。
なにもわからない。
アイリの心がわからない。
「おかしい。ほんとにおかしいから。今の私。だから、独りのほうが良くて」
独りのほうが良いって……
それって……
「……わ、私とは一緒にいたくない?」
思わず問いかけてしまう。
震えながら。掠れた声で。縋るように。
結局、その答えだけを聞ければよかったのかもしれない。アイリが私と一緒にいたいと願ってくれればそれで。でも。
「……わからない。全部、わかんないよ」
アイリは願ってくれない。
「そっか……」
途端に視界が狭まる。
また。この感覚。
そこから逃れるように目を閉じる。
アイリの心が見れないのなら、目を開けておく理由もわからない。
「……心が変な感じで。感情がぶれてて。上手く掴めなくて」
アイリの呟きが降りかかる。
その感覚は私にもとても覚えがあるもので。
心の在処が分からない時、自分が何を感じているのかすら曖昧になってくる時がある。今のアイリがそうだと言うのなら、私を好きだという感情すら見失ってしまったのなら。
「ごめんね。何もわからなくて」
……私が、アイリの心を全て理解できればいいのに。アイリもわからない彼女自身のことを全部理解できればいいのに。アイリの心とひとつになれればいいのに。
そうなればきっと、全ての願いは果たされるのに。
「ぇ?」
不意にアイリが抜けた声を上げる。
その声に思わず私は目を開く。
「な、なにこれ……」
アイリの言葉の意味が分からなかった。
彼女の視線の先には何もなかったから。
「あ、アイリ? どうかした?」
「……これが見えてないの?」
「これ……?」
焦ったようなアイリの視線の先を見つめる。
何も見えない。魔力的には……どうだろう。この部屋はいつも魔力濃度が高いせいかよくわからない。
「なにもないけど……」
「泡が……」
「ぇ」
次は私が抜けた声を出す番だった。
私の幻覚であったはずの泡。たしかにそれはアイリの視線の先にあった。でも、それは幻覚で、アイリにとっては何もない場所なはずなのに。
けれど、泡があると言った。
泡が現実に現れたらしい。




