第55話 心は誰にもわからない
なんだか久しぶりの感覚だった。
やけに冷静にその感覚を受け止められていることに驚く。
どちらかと言えば、解離反応に近いのかもしれないけれど。離人だっけ。あんまり覚えてない。所詮は、暇つぶしに図書館で齧っただけの知識でしかない。
視界がぼわぼわする。こんなことはよくある。あったというべきなのかな。酷く寝不足の時のような……けれど眠ることなどできないような。
ずっと忘れていた。彼女といたおかげで。
「アイリ……」
独りきりの家の中で小さく呟く。
ぬいぐるみがあるけれど、それでもこの家は広く感じる。1人だからかもしれない。それとも、独りだから?
アイリがいない。それだけで身体が萎縮する。あれだけ好きだった彼女の名前がとても怖い物になりつつある。そのことがとても嫌で。でもどうしようもなくて。
今でも好き。好きなはず。
彼女の名前をもっと呼びたい。
でも同時に怖い。アイリの最後の言葉を思い出すから。
『1人にさせて欲しい』
その言葉の意味を考える。考えてしまう。でも解釈の余地というのはあまりない。
ただアイリにとって私はいらない存在になったというだけで。それが完全な拒絶でなくても、もう少し距離を取りたいという言葉であることは分かった。
私は近づきすぎてしまったらしい。距離感を間違えて、アイリに近づきすぎた。これからは適切な距離を取ればいい。ただそれだけなのに。
どうしてこんなに魔力がざわめくんだろう。目を開けているのが痛い。やけに日差しが眩しく感じる。
眠りたいような。眠りたくないような。がらがらとした音と、弾けるような照明が煩わしくて。
明日が来るということが、こんなにもわからないことだなんて。そんな当たり前のことを忘れていた。アイリと一緒にいると色々なことを忘れられた。
恐怖とか不安とか孤独とかそういう私の人生にまとわりついているものを忘れさせてくれた。鈍感になれた。多分、それよりも大きなものをアイリがくれたから。
その感情が好意という名前であることは知っている。でも、それを失いそうになっている。
そのせいで何というか。
またいろいろなことが煩わしくて。全部何もかも、わからない。
心がぐらぐらする。私は今まで何をしてきたんだろう。たくさんの願いを叶えてもらって、結局アイリが辛い時に何の助けにもならない。
何かをしてあげたいのに、でも私の言葉は全部意味なんてなくて。だから、アイリは1人になることを選んだ。
でも、これで良いのかもしれない。
目を閉じて言い聞かせる。
別に完全に拒絶されたわけじゃない。きっと家に帰れば、いつかはアイリが帰ってきていつものように隣にいてくれる。そこに少し距離があったところで気にすることなんかない。
私はまだたくさんのものをアイリから貰える。永遠に孤立する日々が戻ってくるわけじゃない。でも……
「心が……」
誰にでも呟く。
アイリの心が私を必要としていない。その事実がとても重くのしかかる。
でもそれは最初から分かっていたことのはずなのに。アイリの心は私がいなくても自立していて、私のような独りでは心の在処すらわからない人とは違うということを最初から分かっていたはずなのに。
どうしてこんなに心が重いんだろう。
息がしづらい。身体が重い。
すごく。
すごく嫌だ。
……こんなに欲深かったっけ。
私はもうちょっと妥協できると思ってたのに。
だって今の私の状況は相当幸運にまみれてる。
元より、幸運で生き延びてきたけれど……それ以上にアイリが私を好きだと言ってくれる。それだけで十分なはずなのに。
それ以上を求める心が抑えられない。
心がぐらぐらして……不安になる。
怖い。独りでいると全部が怖くなってくる。
アイリと一緒にいる時間が長過ぎたせいかもしれない。たださえ孤立に慣れていない私の精神は、寂しさを叫ばずにはいられなくなっている。
風の音も、小さな映画の音も、遠くの工事の音も、ただの環境音がとても煩わしい。浅い深呼吸を繰り返す。
……希望とは毒なのかもしれない。
アイリからたくさんのものを貰った。その中には、沢山の感情がある。
そのせいで、たくさんのものを求めるようになってしまっていた。気づかぬうちに。別に今の状況に不満なんてないはずなのに。
アイリと出会う前はもっと上手く妥協できていたはずなのに。辛いことや怖いことに感覚を麻痺させて、後悔や孤独感を泡にしていたのに。確かにアイリの心の全部は手に入ってないけれど、彼女の綺麗な心の一部でも分けてもらえるのならそれでいい。はずなのに。
いつの間にか期待するようになっていた。
アイリに、たくさんの期待をしてしまって……そのせいで今こんなに心がぐらついている。期待なんてするんじゃなかった。アイリならどれだけ近づいても許してくれるなんて……そんなの冷静に考えればあるわけないのに。
どうして勘違いしてしまったんだろう。
私はアイリに必要とされているって。
……私がアイリにとって助けになるって。
どうして想ってしまったんだろう。
私の小さな心の力でそんなことができるわけはなかったのに。
「そうだっけ……」
ぽつりと呟いてみる。
私はそんな風に思っていたんだっけ。
アイリの助けになりたいと思った。けれど、私の存在がアイリの助けになるって思っていたのかな。そこまで彼女に対して、傲慢だったんだっけ。
……意外と落ち着いてる?
そんなことはないけれど。
心が揺れている。確かに視界が崩れて、どこにいるのかわからなくなってきている。そしてこんなに辛いなら、アイリのことを好きにならなければ良かったと思ってる……
とても痛くて、とても辛い。
でも、確かにアイリのことが好きで。
それだけで十分だって、想っていたはずなんだけれど。
心が欲しいなんて、過ぎた願いを持ったせいで、私は。
「ぁー……」
どうしよう。
感情が上手く制御できてない。
こういう時は失敗をしがちなことは経験則でわかってる。いや、それとも既に失敗をしているのかな。全然わからない。
どんどん思考が袋小路に入ろうとしている。
何もわからなくなってきて、全部を放りだしてしまうような。
どんどん心が遠くなってきている。
でも、覚えている。私はアイリのことが好き。それだけは確かな事で。でも、実感が薄れてきている。
好きなのは覚えているけれど。
好きってなんだろう。
好意とは、どういう意味を持つんだろう。
好きを、アイリから貰った。けれど、その使い方がよくわからない。アイリの傍にいるために使えば良いのかと思ってたけれど……それを彼女は求めているわけじゃないようだし……
人生経験というか、対人経験の薄さのせいかもしれない。
好きという感情が上手く機能していない気がする。
今のところ、好意を自覚して私がやったことは、アイリとの距離を開かせたことだけな気がする。それなら、好きになって良かったと手放しには言えない。
アイリがどこかに行くのが怖い。
ずっと傍にいてくれればいいのに。
どうして、1人になりたいなんて言うんだろう。
どうして私を独りにするんだろう。
私の感情が好きであることには変わりないけれど、これは恋なのかな。それとも愛?
私は、アイリを愛しているのかな。そんな気はしない。全くそんな感覚はない。愛というのが、どういうものか私は知らないけれど……そういう感覚ではない、と思う。
なら恋は?
恋って、何?
誰かを好きになることを恋をすると言われることは私も知っている。でも、それだけじゃない。人を好きになるのには他にも色々理由はある。恋なんかじゃない。この感情に名前を上手くつけられない。
私の好きという感情は……執着というのが分かりやすい気もする。私が分かる感情の中ではそれが最も近い気がする。執着というか、依存というか。
好きって感情は、もう少し綺麗なものだと思ってた。
でも、こうして自らの中に渦巻く感情は、もっと濁っている。澄んでいない。
こんなものをアイリにぶつけていたのか。
私は、そんなことをしていたのか。
彼女が1人になりたいというのも当然な気がする。
なんだか、好きだということに気づかなければ、こんなこと考えなくて良かったのに。
考えて、気づいて、不安になって、ようやく自分の心を見つけられたのに。こんなに感情が汚いものだなんて、知りたくなかった。でも、好きって感情を知ることができて嬉しいのも本当で。
あぁ。
だめだ。
また思考が散らかり始めている。
上手く感情が掴めない。
アイリが隣にいてくれたら、アイリの心があれば、こんなことないのに。
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
あまりにも私はアイリに頼り切っていて、もたれかかっていて。私はアイリの負担にしかなっていないんじゃないかな。
どうしてアイリは私といたいと言ってくれたんだろう。
どうしてアイリは私がいらなくなったんだろう。
なんで……私はここにいるんだろう。
この世界に生まれ落ちて、流されて、その果てになんでここでぼんやりと暗い画面を眺めているんだろう。
何もできず、必要もされていないのに。
それなのに、どうしてここにいるんだろう。
恐怖に呑まれそうになりながら、私はなんで。
わからない。
この世にはわからないことが多すぎる。
最近の世間で流れる情報は、暗いものばかりだし。魔法も上手く使えなくなってきた。なんだか全部がおかしいし。
今日もアイリが帰ってきてくれるかはわからない。
もしかしたら、私のことを捨てるかもしれない。
嫌な想像が膨らんで。
心が軋む音がする。
もう何も考えたくない。
考えることが辛い。だから、私は目を閉じる。
無理にでも、この現実から逃げ出したくて……望んで、このアイリがいる現実に戻ってきたのに?
……どうして。どうしてだっけ。
また視界に泡が増えていく。




