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第54話 一歩の代償

 起きてしばらくすれば、アイリがひょこりと立ち上がる。


「ちょっと散歩してくる」


 今日もどこかに行くらしい。

 1人で。私を独りにして。


「アイリ」


 名を呼ぶ。

 こうして声を出すのは久しぶりな気がする。そんなことはないんだけれど。毎回、少し緊張する。特に最近は。

 名前を呼んで、こっちを向いてくれなかったらどうしよう。

 そういう恐怖が一瞬思考をよぎるけれど、私が名を呼んで、アイリがこちらを振り向かなかったことはない。今回も、にこりとして私を見てくれる。

 ……ずっとこうして私を見てくれれば、いいのに。


「……どうかしたの?」

「えっと、ついて行ってもいい?」


 アイリは一度瞬きをする。

 一瞬、自らの桃髪に触れる。

 そして口を開く。


「……うん」


 それは求めていた答えだけれど。

 どうして……どうして目を逸らすの。

 その疑問は言葉にならない。


「どこに行くの?」


 アイリがちらりと私の方を見る。

 何と答えるのか悩んでいるように。


「……どこでもない場所かな」


 よくわからない。

 最近は、わからないことばかりな気がする。

 アイリのことを知ろうとしてから、彼女のことがどんどんわからなくなってるのを感じる。それが不思議で。どこか寂しい。


 アイリは閑散とした道を歩く。

 その半歩後ろをついていく。

 ついてきてとも言われていないし、今日は手も握ってくれない。きっと握ろうとすれば、断られることは無いと思うけれど……


 どうしたんだろう。

 何かあったのかな。


 ……何かあったのかって。あったに決まってる。

 首都が滅んで、約500万人が死んだ。人口の1割。それで何もなさそうにしている私の方がおかしいのかもしれない。


 でも、他人なのに。

 どうしてそこまで自分事に感じられるんだろう。

 私は私の事すら、他人事だったのに。


 アイリのことがわからない。

 何も。どうして変わったのか。

 彼女は、どんな人だっけ。

 もう2年ぐらい一緒にいる。多分、一緒に過ごした時間だけで見れば人生で一番長いかもしれない。でも、全然アイリのことを知らない。知りたいとは思うけれど……どうすれば、理解できるのかわからない。

 私はちゃんと人と向き合ったことがないから……どうしたらいいのかわからないのかもしれない。だから、全部他人事で。アイリのことを知ろうとするのも随分と遅かった。その代償を今、払っているのかもしれない。


「ね」


 不意にアイリが私の方を振り向く。

 ふわりと長い桃色の髪が宙を舞う。


「レーネは、楽しい?」

「えっと?」

「答えてみて」


 質問の意図はよくわからなかった。

 けれど、言われるがまま考えてみる。


 楽しいのかな。

 よくわからない。


「アイリと一緒にいるのは好き」

「……そっか。ありがと」


 またしてもアイリは曖昧に笑い、再び歩き出す。

 それは短い時間じゃなかった。ぽつぽつと歩いていれば、同じ道も通る。本当に目的地なんてないのかもしれない。


 あまり会話はなかった。

 時折、分かれ道などでアイリは悩んだように立ち止まるけれど、何も言わない。前までなら、絶対私にもどっちに行きたいか聞いてくれたのに。


 なんだか最近の沈黙は少し重たい。

 今まではもっと楽だった。楽というか……沈黙が苦じゃなかった。

 それは黙っていても、アイリは色々な手段で会話してくれていたから。色々な感情や意図や感覚を伝えてくれたから。

 けれど、今は何も読み取れない。私が鈍いのかな……それとも、アイリの隠し方が上手いだけ?


 でも、何か隠している。

 さっきの笑みだって、前までとは違う。何かを含んだような笑みというか。

 前はもう少し私のことを見てくれていたのに。今は、その瞳には私以外の物が映っている。それを感じる。


 だから、寂しい。

 アイリが離れてしまって。

 

 今はまだ近くにいてくれるけれど……このまま離れてしまえば、私はまた孤独になる。孤立する。あの自分の居場所がどこかわからなくなるような。酷い孤独がまた来てしまう。


 それは嫌だ。

 嫌なのに。

 アイリの心を占めるものをどうにかできない。彼女の問題だから。

 本当は助けになりたい。けれど、私にはどうしたらいいのかわからない。


「アイリ」


 でも、言葉を紡ぐ。

 そうしないと何も起こらないことぐらいは知っている。


「どうしたの?」

「……何か悩んでるの?」


 あまり回りくどいのは得意じゃない。得意じゃないというか、私は一直線に問うぐらいしか方法がない。駆け引きみたいなことは、対人関係の経験が少ない私にできるわけもない。

 だから、直接問うてみる。


「悩みじゃないんだけれどね」


 また、その顔。

 何かを隠している笑みを浮かべる。

 それを無理やり暴くのが良いこととは思えない。


「……そっか」

「別になんでもないよ。ほんとに」

「そう?」

「うん。ただちょっと……上手く言えない」


 でも、私は知りたい。

 アイリの心を。


 ……これは、昔アイリが私に言ってくれたことなのに。私はそれを煩わしいと感じていた。

 今でもそうかもしれない。心の全てを知るなんて、良いことだけではないのは分かってるし。でも、それでもアイリが私の心を掬い上げてくれたから……私はアイリのことだけを見ていたいと思ったのに。

 どうしてアイリは私だけを見てくれなくなったのかな……それを聞きたい。でも、話してはくれない。どうすればいいのかわからない。


「ね、レーネ」


 私が言葉をまとめるより先に、またしてもアイリが足を止める。

 そこはいわゆる公園という場所だった。時間帯のせいか、古そうな遊具のせいか誰もいないけれど。

 

「ちょっと、遊ぼう?」

「え、これで?」

「……だめかな?」

「ううん。そんなことない」


 少し驚いたけれど、急いで否定する。彼女の誘いを断るということへの心理的障害が、自分でも思ったより強くなっているらしい。


 けれど……アイリの指先にあるのはぶらんこだった。

 確かに公園といえば、そういう遊具があるのは当然なんだけれど。

 これで遊ぶにはひとつ問題がある。

 

「私、ぶらんこ初めてで」

「え、そうなの?」

「どうしたらいいのかな」

「えっとね。まぁ座って……こんな感じ」


 アイリがぶらんこに腰を掛けて、床を蹴る。

 するとかちゃりと音を立てながら、振り子のようにアイリが動き始める。

 思ったより簡単そうかも。


「わっ」

「そうそう。そんな感じ」

 

 私も見よう見まねでやってみれば、想像以上に速い。

 怖いと思うほど速くはないけれど。


「わーっ」


 隣でアイリが意味のない綺麗な声を流す。

 空気が後ろに流れていく。

 ……いつかもこんなことがあった気がする。

 ちょっと既視感というか。既聴感?


 でも、久しぶりに聞いた気がする。

 これだけ澄んだアイリの声を。

 もっとその声を聞きたい。


 そう思えば、私はぶらんこを漕ぐことも忘れて、アイリのことを見つめていた。視線を外せない。いつから、そんな風になっていたのかはわからないけれど。

 でも、こんなにアイリに心を染め上げられていることがとても嬉しい。


 アイリがざざと音を立てて、ぶらんこを止める。それに倣って、私も漕ぐのを辞める。

 砂埃が小さく舞う。ちょっと疲れた。もうちょっと身体強化率を上げておいた方が良かったかもしれない。


「レーネ」


 アイリが私の名を呼ぶ。

 そして私の腕を掴む。

 たったそれだけのことで、条件反射のように私の心がふわふわとする。


「好き」


 そしてそれだけの言葉で、今日感じていた不安が一気に吹き飛ぶような錯覚を覚えてる。何も考えなくても、この想いだけもらえれば良いような気さえしてくる。

 視界がふわふわして、とても世界が桃色に染まっていくような感じがする。彼女の色に染め上げられていくような。


 でも、だからこそ余計にアイリの心がもっと欲しい。

 そう想わない人なんかいない。アイリにこんな風に好意を囁かれてしまえば、誰だってアイリの心が欲しくなる。

 だから、私は言葉を我慢できない。


「あ、あのさ。アイリは……何かしてほしいことってある?」


 それが私の最大限の助けだった。

 結局はどこまで行ってもアイリの問題だとしか思えないからかもしれない。アイリのように心を掬い上げるようなことは、私にはできない。

 だから、これぐらいの歩み寄り以上にどうしたらいいのかわからない。


「んー……」


 アイリは自らの髪を梳かす。

 それが彼女の考える時の癖なのはもう知っている。

 

 思ったよりも緊張する。

 これで何もないと言われたらどうしたらいいのかな。やっぱりアイリに私は何も返せないのかもしれない。それなら、アイリにとって私の存在価値はないということになるような気もして。


 あまり長い沈黙ではなかった。

 いつもようにただアイリが考えているだけの時間で。

 けれど、やけに長く感じた。それぐらい思考が泡のように散乱しているからかもしれない。


「えっと」


 アイリが口を開く。


「……あのね。好きって言った私がこんなこと言うのはおかしいって思うかもしれないけれど」


 アイリは言葉を止める。

 口を開けて、閉じる。言うのか悩んでいるように。

 私はアイリの言葉を待つ。やけに風の音が大きい気がする。


「少し、1人にさせて欲しい……みたいな」

「え? ぁ……」


 ようやく紡がれた言葉の意味が一瞬、わからなかった。

 けれど、それは……間違いなく拒絶の言葉だった。

 

 完全な拒絶じゃない。それぐらいはわかる。

 でも、こんなところまでついてこないで欲しいという意味でしかない。

 また間違えた。私は、間違えたらしい。


 視界が歪む。

 今まで何をしていたのかわからなくなってくる。またしても感情が掌から零れていくような感覚が、まとわりついてくる。そして泡が。


「……ごめんね」


 アイリがぼそりと呟く。

 遠くを見ながら。私の方を見ずに。

 その横顔はとても疲れているように見えて……そして私は、アイリからも逃げ出してしまった。

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