第44話 祈りではなく願いを持って
泡が見えるようになったのはいつからだろう。
それはもう遥か昔のことな気がする。多分、母達の眼が見れなくなった時からか。その辺りから、私には泡が見えていた。
私の視界には大なり小なり泡が存在している。それが幻覚であると気づくのにそこまで時間はかからなかった。けれど、存在している意味はわからないままだった。
そして、その正体はまだわからない。
こうして泡の中にいても、よくわからない。泡の中だから、現実じゃないことはわかる。夢……というほど良いものでもないだろうけれど。現実と夢の狭間のような場所かもしれない。もしくは、どちらも存在しない空虚な場所か。
泡はいつも独りの時に現れる。1人ではなく、独りに近い時ほど、泡は大きくはっきりと像を結ぶ。
だから、最近は泡を見る機会は少なかったのだろうし、今は巨大な泡の中にいる。
……つまり、私は今、独りらしい。
孤独に戻ろうとしている。
結局のところ、私が持つ言葉や意志の持つ力というのは、全て関係を断ち切る方に機能している。そういう意図ではなくても、結局そういう風に働く力を持っている気がする。
そんな運命論的な、決定論的な感覚がある。そんなわけはないけれど、でも、そういう実感がある。だから、きっと私という総体の中ではそれは真実だと捉えられている気がする。
かちかちと音がする。
結局のところ、私に足りないのは時間だったように思う。
時間というものが色々なことを解決してくれるというのは、実感ではなく知識として知っている。だから、時間が足らなかっただけな気がする。
それが言い訳であるとわかっていても、そういうふうに思うことでしか、私を守れない。本当はわかっている。私の心が弱いことが原因なことぐらいは。
くるりと身体を丸める。身を守るように。
全ての現実という障害から逃れるように。
けれど、泡というものは脆くすぐ割れてしまうものでしかない。
ミリアムとの関係の失敗の理由を勘違いしていた。
私とミリアムの世界観が違うからだと思っていた。互いに違う世界にいるのに、仲良くしようとしたから、それは上手くいくはずもないと。互いに見ているものが違うのに上手くいくはずがないって。
けれど、本質的なところは、私がミリアムのことを知らないからと言った方が正解に近い気がする。今はそう思う。
例えば、同窓会みたいなものにミリアムが来るとは思わなかった。そういうのに来る人という印象はない。
でも、それは意外というよりは、ミリアムのことを何も知らないからで。
私達は1年も高頻度で会い、話して、一緒に研究したのに、私はミリアムのことを何も知らない。何も知らないまま、関係を壊してしまった。何も知らないから、というべきかもしれないけれど。
……私はまた同じことをしている。アイリのことを何も知らない。
なんで。こんなに一緒にいるのに。私は、彼女のことを何も知らない。
アイリは映画が好きで、エルネスタみたいな周りの人がいて、それなのに私の傍にいるのが好き。
でも、それだけしか知らない。今までアイリがどんな人生を送ってきたのか知らない。同調者として育てられたことは聞いたけれど、それがどうして同調率を失うことになったのかとか、そういったことを何も知らない。
……私をなぜ好きなのかも、知らない。
でも、それはアイリが自身のことを話そうとはしないから。
それだけのことなのだから、当然な気はする。ずっとアイリのことを理解したかった。でもわからなかった。
「……知ろうとしなかっただけじゃなくて?」
「ずっと曖昧のままにしておきたかっただけじゃなくて?」
違う。
そんな否定は言葉にならない。思考の中を漂う事実に敵わない。
だって、私が知りたいと思ったのは、そうしないと天秤が釣り合わないから。ただそれだけなのだから。
「傷つきたくなかったから」
「ずっと言い訳ばかりして、そして世界を拒絶していたから。知ろうとして、彼女の心に拒絶されるのが怖かったから」
そうかもしれない。
拒絶される前に否定して、微睡みのように曖昧な関係を求めて……それゆえに私はアイリのことを何も知らない。ただ知ろうとするふりをしていただけな気がする。
「……怖かったから?」
そうかもしれない。
怖いからかもしれない。無知でいれば、嫌われてると知られずに済む。傷つかずに済む。だから何も知らないままでいようとしたのかもしれない。
でも。それなら……私はどうしたらよかったの?
その返答はない。
その答えを私は知らないから。
「……本当はわかってる」
この1年、ずっとその姿を見てきた。1番近くで。
アイリのように知ろうとすれば良かった。私もアイリのことを知りたいと願えば良かった。
でも、それができないから……私の心はどこかに行ってしまって、そんなふうには動いてくれないから、それができない。
ずっと、アイリが私のことで悩んでいるのが不思議だった。私のことを知りたいという感情から来ていることはわかっているけれど……でも、そんなことしなくていいのに。
どうしてそんなに踏み込んでくるんだろう。自他境界線という心理障壁がわかってないわけじゃないはずなのに。それなのに、どうしてって……不思議だった。
でも多分それでも知りたいと願っていたのは……好きって感情があるからなのかな。
けれど、私もアイリのことは好きなのに。
「好きじゃなかったら?」
「……ぇ」
ふと湧いてきて疑念は、一瞬のうちに思考回路を染め上げる。
好きじゃなかったらどうしよう。アイリのことが好きじゃなかったら。
なんで。そんなことあるわけが。
そんな小さな否定は、酷くかよわい。
「だって、私はアイリのことを知ろうとしなかった」
そんなわけない。そう言いたいけれど。
でも、もしそうなら……そう考えたら。
「わかりやすくなる……」
ずっとおかしい気がしてた。アイリはこんなにも強い想いで私との関係を維持しているのに、どうしてこんなに脆そうに感じるのか。
それが私のせいなら。私の心があまりにも遠く、そのせいでアイリへの感情すら弱いというのなら。
それでも私とアイリは好きという感情で繋がっていると思ってた。
けれど違った。私が大切にしていたのは私のことだったのかもしれない。好きじゃない自分のことを守るために、アイリを利用していただけなのかもしれない。
だからアイリが好きなわけじゃなくて。
一緒にいる時間が好きなだけなのかもしれない。
アイリは私のことが好き。
私はアイリと一緒にいることが好き。
それは言葉にしてみれば小さな違いだけれど、確かに存在しているアイリとの想いの差。アイリの想いの方が強く、そして私のものは弱かったのは、そういう違いだったということらしい。
どうしてそんな。違いなんか。
それはきっと、私とアイリでは世界観が違うから。
私には縋るべきものが何もない。ずっと地面が揺れている気がする。ずっと寄る辺もなく、ずっと奈落へ落ちていく感覚が付きまとっていた。
自分しかここにいない。そしてその自分も酷く醜く、棘だらけ。だから好きじゃない。自分のことが好きじゃない。だから、世界が好きじゃない。
だからずっとここにいて良いのかわからない。アイリに触れていれば、少しは忘れられるけれど、ずっとここにいて良いのかわからないみたいな想いがあって。
この恐怖感や不安感は、アイリにはわからない。アイリのような……同調者として人に求められている人に、私の感覚を理解し、共感できるわけがない。私がアイリに共感できないのと同じように。
結局、私達はどこまで行っても他人なのだから。
それに気づいてしまえば……もうこうやってずっと目を閉じていたい。大きな泡の中に留まって、現実から逃げていたい。夢すらも見ることもなく。もう何も見たくない。
「自分しかいない世界でいいの?」
「嫌いな自分だけがいる世界でいいの?」
……でも、私は戻りたくない。現実に戻りたくない。
現実は私の心に侵食してくる。私が心を見つける前に、心の色を決めてくる。私にだって小さくても弱くても意志があるのに、それを侵食してくる。だから、守ってあげたくて、私は泡の中に閉じこもっている。私の心を守れるのは私だけなのだから。
「もうアイリと会えなくてもいいの?」
……アイリとなら、現実にいられると思った。
アイリは強い想いで私のことを包んでくれるから。現実から守ってくれるから。浸食されて、消えようとしている私の心を、彼女が繋ぎとめてくれるから。
でも、結局アイリとの関係も私が壊してしまった。
私がまた答えを間違えたから。何も言わないことを選んで、壊してしまった。アイリにはわからないと決めつけてしまった。
酷いことをしてしまった。
アイリには許されないことを。
だから、もうどうしようもない。
「会いたくないの?」
アイリの瞳を思い出す。声も。
穏やかで綺麗で流れるような。
そしてそれが変わる瞬間も。
でも、多分、まだ天秤はある。壊れてはいない。
でも、崩れかけている。崩れてしまう前に、泡の中に逃げ込んだけれど。ここから出てしまえば、終局を告げることになってしまうかもしれない。それは私の意図ではなくても、私の意思によって。でも、そんなことは嫌で。
だから、私は心の底から逃げ出したい。
ここにいたら、ずっと曖昧なままでいられる。アイリに嫌われたかもしれない。でも、嫌われてないかもしれない。嫌なことは何もない、揺らぎだけがある世界。
「それは本当に逃げているの?」
「全部諦めて、捨ててしまっているだけだよ」
諦めたら、いけないのかな。
だって私には無理なんだから。元より、私のような孤立している人が誰かと仲良くなんて無理なんだから。
「どうでもいいことなら、諦めてもいいかもね」
「でも、アイリとの関係はかけがえのないものだよ」
……そうだけれど。その通りかもしれないけれど。
でも、どうしようもない。私にはどうしようもないから、諦めるしかないような気がする。
それはそんなにおかしいのかな。
「それは現実の言葉だよ」
「私の思考は夢にいるんだから」
でも怖い。
アイリと話すのが怖い。
本当に嫌われていたらどうしよう。もう私にはアイリとの関係しかないのに。自分でもわかるほどに彼女の優しさに依存しているのに、もしアイリが私を拒絶したらどうしよう。
多分、その時の心理的負荷はミリアムの時の比じゃない。すごく苦しくて、辛くなる。きっと何もできなくなる。
そうなるのが嫌で、私は曖昧な関係を望んでいたのに。
気づいたらアイリとの関係はそれなりにはっきりとしたものになっているらしい。
だから、逃げ出したいという感覚だけがある。
これが私の小さな心の許容限界を超えた負荷がかかっているせいだということはわかる。それぐらいの知識はある。
「アイリが私のことを嫌いになると思う?」
……わからないよ。
だってアイリは怒ってた。あんな冷たい声、聞いたことなかった。思い出すだけで、また息ができなくなりそうになる。
「でも、アイリは私を呼んでた」
……そうだった。
少しずつ思い出してきた。
意識を失う瞬間に、アイリは私の名を呼んでいた。
あの声はいつも同じように私のための声で……
「それでもアイリに嫌われたと思う?」
でも、怖い。
私の中には恐怖があって。
それは消えてくれない。
「その恐怖は元からあったものだよ」
そうかもしれない。
気づいていなかっただけで。
「結局は天秤の問題であると気づいているよね」
……わかっている。
でも、触れるのが怖い。
アイリとまた話すのが怖い。
だって私にはアイリの心はどうしようもない。私が何をしたって、アイリの心はアイリだけのものなのだから。
「それでも」
「もしもそれがどうしようもないことだとしても、私はもうアイリと話す時間はかけがえのないものになっているのだから」
「それがかけがえのないものなら、せめて願ってから、ちゃんと傷つけばいいよ」
「もし嫌われたら、傷つけば良い」
……そんなの。
怖いよ。傷つくのが怖い。
絶望や悲しみは嫌い。
後悔によって心に楔が入れば、何もできなくなる。罪によって心が封じられたら、どこにもいられなくなる。
「別に良くない?」
「傷ついても。苦しくなっても。絶望しても。悲しんでも」
「後悔と罪と痛みだけが残って」
「それでどこにもいられなくなって、私という存在が消えても」
それでも、良いのかな。
「失った時に、心が欠けたのなら」
「それは私がアイリのことを想っていたという証拠になるのだから」
そうかな。
そうかもしれない。
「なら、願わないと」
「大切なものは、願わないと」
願い……
私の願いは……
最近までわからなかった。
けれど、アイリと出会って。たくさんのものをアイリから貰って。アイリの想いに触れて……そして、私の願いは。
本当は……もっとアイリと一緒にいたい。アイリの髪を撫でたい。あの純粋な瞳の中に私を入れて欲しい。透き通るような声で私を呼んで欲しい。
アイリに求められていたい。一緒にいて欲しいと思われたい。ただそれだけでいい。
アイリの強い想いは、私には受け止めきれないほどに大きな想いだけれど。それでも、いやだからこそ、私はアイリと一緒にいるのが好きだったのだから。
またアイリの大きな想いで私の心を包んで欲しい。
「なら、伝えないと」
「なら、話さないと」
……でも、こんなのは抽象的でぐるぐるとした答えもなにもない身勝手で自分勝手な願いなのに。そんなことをアイリに求めて良いのかな。私はアイリに貰ってばかりなのに。
「それは私にはわからないよ」
「誰にもわからないよ」
「でも、願わないと傷つくことはできないから」
「でも、人への願いは口にしなければ、祈りのままなのだから」
言葉にする。
それができるかはわからない。
正直とても怖い。またおかしくするだけかもしれない。アイリに酷いことを言ってしまうかもしれない。崩れかけた天秤を、完全に破壊してしまうかもしれない。 私は何かをしてあげることはもちろん、知ろうとすることすらできないのに。何かをアイリにあげられる自信がないのに。
でも、アイリは傍にいて欲しいと願ってくれた。そして、過程は独善的でも私はアイリと一緒にいるのが好き。それだけは本当なはずだから。
だから、私は現実で目を覚ました。




