④
――今、ここはどこで、どうして自分がこんなことになっているのか……。
シズクは重く閉じた目蓋を開ける体力も気力も失っていた。
頭が痛くて、喉がからからで、鼓動が速くて、とても寒い。
五感のすべての感覚が過剰に敏感になっているような気がした。
この苦しさを誰かに分かってもらいたいと思うけれど、声を捻りだすことすら難しい。
それに、シズクの近くにはサリファがいるのだ。
覚醒していることを知られたら、今度こそ本当に殺されてしまうかもしれない。
そして、シズクはしみじみと思い出すのだ。
――ああ、そうだった。
(サリファさんが、僕を殺そうとしたんだ…………)
シズクがもがき苦しむところを、サリファが冷めた瞳で眺めていたところを、おぼろげに覚えている。
信じていただけに、サリファの得体の知れない本性は、レガントなんかより遥かに恐ろしく感じられた。
――逃げ出したい。
けれど、逃げることなんて出来そうもない。
時間だけが過ぎて、陽が陰った頃に、再びレガントが部屋にやって来た。
二人が何やら話している。
最初は何のことか分からなかったけれど、レガントがシズクのところにやって来て……。
サリファはそこで、確とこう言ったのだ。
『彼は、貴方様のお孫さんではないですか?』
――えっ?
その瞬間、半覚醒状態だったシズクの意識は現実に引き戻された。
知らなかった。
そんなこと誰も教えてくれなかった。
母の記憶もほとんどなかったし、父はその話題を避けていた。
(父様は、知っていたんだろうか? 知っていたらどうして……?)
シズクの生まれ育った世界が音を立てて変わっていく。
今まで見ていた風景が、一方向から切り取っただけの世界であることを、痛感していた。
十四年間、畏怖の対象だったレガントが、ひどく脆くて繊細な老人にも思えた。
――それから。
ばたばたと、物騒な物音をたてて、何者かが室内に入って来た。
剣を鞘から取り出す際の鋭い音が、シズクの耳を刺激する。
サリファが刃を突き付けられているのだ。
(どうしよう……)
剣で襲い来る相手に対して、サリファが互角に戦うことができる人間だとは思えない。
このままでは、サリファは確実に殺されてしまう。
(…………だけど)
サリファはシズクを殺す気はなくとも、死にそうになりそうなくらい苦しい毒薬を盛ったのだ。
殺されたって、当然ではないのか?
シズクの知ったことではない。自業自得だ。
(ざまあみろ……てさ)
鼻の奥がつんとした。
その時になって、シズクは自分が泣きそうになっていることに気づいた。
見殺しにすることも出来るのに、どうしても、それが出来そうにない自分の性分が痛かった。
すべてサリファ自身のせいだというのに、シズクに酷いことをした最低な人間だって分かったはずなのに……。
(どうして、僕は突き放すことが出来ないんだろう)
感情の揺れに従うように、意識の奥で、何かが閃いた。
赤い光の筋は、月の光だ。
………………あの晩。
カナが独り仰いでいた赤い満月。
発光する植物たち。
綺麗だけど、何処か怖い……踏み込んではいけない領域。
彼女にだけ見えていた世界がシズクを呼んでいる。
――もうすでに、月は昇っている。
「な……何だ!?」
レガントが目を剥いた。
自分が発光していることに、シズク自身も気がついていた。
常識の外の出来事に、レガントは恐々としているのだ。
シズクは起き上がり、動揺を隠せずにいる老人の相貌をまじまじと見つめていた。
こんなふうに、正面からレガントと向き合うのは初めてだった。
悲しいことに、何の感傷も抱けなかった。
サリファの話を聞いていたけれど、祖父という感覚もない。
今はただ……身体の奥が熱くて、何かと微妙に繋がっている感覚がもどかしいだけだった。
「…………そう。その感覚です。シズク君」
いつもの溶けるように穏やかなサリファの声がシズクをうながす。
(ああ、そうか……。この感覚か)
部屋の中の植物たちが反応している。
細くつながっている感触を手繰り寄せて、心の底から念じると、鉢の中にあったはずの小さな植物が一斉に大きくなり始めた。
根が太くなり、枝葉が大きくなって、どんどん部屋を占拠していく。
「…………まさか、ディアン=サリファ。お前はシズクにあれを飲ませたのか……?」
レガントが呆然と呟いた。
サリファは返事をしない。つまり、それは肯定の意味だろう。
命じられるまでもなく、兵士たちも短時間で急激に成長していく草花に向かって行くものの、剣で切り倒すことはできずに、地団駄を踏んでいた。
「シズク君、できますか?」
おもむろに、サリファが外を指差した。
淡々とお願いしているようだが、それは命令に等しい。
無理難題を、シズクに押し付けて来るのは、いつだってこの男だった。
そう振り返ってみると、サリファは、いつだってサリファだったのかもしれない。
「やってみます」
止まらない汗を袖で拭って、シズクは草花の根元の方に意識を集中させた。
根が鞭のように撓り、床を這っていく。
窓の外に張りだしところで、徐々に地面まで伝っていく。
脳内でシズクはその感触を操った。
しっかりと頑丈な階段のように、露台に幹を絡みつけて、道を作る。
鬱蒼と茂った葉は、天然の階段を彩る装飾のようだった。
「上出来です」
サリファのそれは、社交辞令だ
その証拠に、すでに彼は次の行動に移ろうとしていた。
発育をうながした木の幹や蔦を伝って、下に降りる算段らしい。
(何だって……こんな)
休んでいる暇はなさそうだ。病み上がりのシズクに、ひどい仕打ちだが、拒否する理由がなかった。
シズクは走り出したサリファの翻る黒い外套を目印に、懸命に無心で曲がりくねった木の幹の上を走った。
追手は来なかった。
もしかしたら、密林のような状態になってしまった部屋の中で、兵士たちも難儀しているのかもしれない。
地上にたどり着いた途端、シズクは憚ることなく尻餅をついて、おもいっきり酸素を吸った。
サリファも息を切らしていたが、シズクと違い、膝に手を置く程度で呼吸を整えていた。
赤い月が遠くにぽっかりと浮かび、雪原を銀色に染めている。
ぼうっとそれを眺めるシズクに対して、落ち着くまでの休息時間を設けてから、わざとらしく急に慌てた様子でサリファが詫びてきた。
「本当にすいません! もう少し休んでいたかったでしょうが、私が時間配分を間違えてしまったために、君をこんな目に遭わせてしまいました。しかも、助けてもらってしまって」
「…………はあ」
あまりにも悪びれることなく、普通に切り出されてしまったので、シズクの方が狼狽えてしまった。
しかも、謝るべきところがずれている。
毒を盛ったことは、華麗に無視だ。
仕方なく、シズクの方から訊くしかなかった。
「……サリファさん、僕は一体、貴方に何を飲まされたんですか。この力は、その飲んだもののせいなのですか?」
「ああ……そうでしたね。重要なことを忘れていました。ティファレト王家の人間にしか効かない……魔法の薬ですよ。過去ティファレト国王はこの力で、人心を掌握していました。しかし、普通の人間が飲んだところで、ただの毒薬です」
「毒薬……ですよね。僕、死にそうになりましたからね」
「仕方なかったんですよ。とりあえず、ある程度死にそうにならないと、周囲を欺くこともできませんし、効能も得られません」
「な、な、な、な……」
返す言葉がない。
シズクがどんなに苦しい思いをしたのか、傍らで眺めていたくせして、その激痛がどのようにものなのか共感できないのだ。
(いや……この人、自分が毒を盛られても、笑って死ぬかもしれないな……)
きっと、そうだろう。
そうに違いない。
そこまで悟ってしまうと、シズクの気持ちは急速に冷えていった。
「なにぶん、キツイ成分なので、王家の中にも、これを飲んで命を落とす者がいますが、私は君に関しては大丈夫だろうと確信していました」
「……どうしてです?」
月光に淡く照らしだされたサリファの黒い外套が、冷たい風の中にはためく。
風音とサリファの低い声が混じり合った。
「私はあの毒を混ぜたお茶を君が小屋に訪れる度に出していましたから……」
「………………そんな前から?」
「ええ。君に一目会った時から、いずれこんな日が来ることは想像していました。だから、耐性をつけてもらいたかったんです」
「あ、貴方って人はねえ……!」
すでに怒るとか、憎むとか、悲しむとか……そういう次元を優に飛び越えていた。
頬をぽろぽと熱い涙が伝っていた。
いろんなことがあって混乱していた。
(僕はそっち側の人間だったんだな……)
為政者とは逆の道を歩むと思っていた。
しかし、実際は毒を盛られるような側の人間だった。
父はノエムの公子で、母は北州公の娘だった。
シエットの先祖は、王族に繋がるというが、植物を操る力が宿っているシズクはその血も色濃いのだろう。
あまり知りたくはなかった。
だけど、それはシズクが知らなければならないことだったのだ。
「………………サリファさん。僕の……祖母や母は、不幸だったのでしょうか?」
「そんなことまで、私には分かりません」
「ですよね」
「……でも、私の母は男の言うなりになるまいと、君が飲んだ薬を飲んで、死のうとしました。私の大切な人も、同じようにその薬を飲んで……君と同じようになりました。良くも悪くも、様々な障害が出ていますが、あの人は、それと淡々と向き合っている。……女性は強い。つくづく私はそう思います」
「もしかして、サリファさんの大切な人って……?」
それ以上……シズクは直截に尋ねるのを断念した。
どうせサリファに答える気はなく、ふわりと浮かんだ微笑に封じ込められるだけなのだ。
「さあ、いつまでも、ここにはいられません。安全な場所に行きましょうか」
大きな手がシズクの眼前に差し出された。
(……辛いな。僕も)
心の底から、残念だった。
――シズクは、やはりこの人を嫌いになることが出来ない。




