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 遠い昔……。

 シズクが何度も父に問いかけた言葉があった。


「……お母様は、どんな人だったんですか?」


 シズクは母の記憶がない。

 母に親族の一人でもいれば良かったが、生憎母には家族がいなかった。

 唯一、分かっていることは、シエットという一部の階級の者達と縁があったことくらいだ。

 だから、きっとシエットの階級の人だったのだろう。

 城の裏手で採掘を行っていること、大きくなったら彼らの助けになることを、父はシズクに言い聞かせていた。

 父は優しい人だった。

 不健康で外に出ないのか、それ以前に外に出ることが出来ない理由があるのか……その頃のシズクには分からない謎めいた人だったが、それでも、屋敷の中に父がいると、その場がぴんと張った凛然とした気配があって、幼いシズクは父に対して憧憬を抱いていた。

 読書が好きで、音楽の才能があって、最高に頭の良い自慢の父オルガ。

 けれど、普段は、よく喋る父が言葉を濁す質問がそれだった。

 ――母のこと。

 特にターニャがいると、少しばつが悪そうに答える。


「素敵な女性だったよ……」


 たった一言だけ、迷いながら……。

 それでも、その一言には愛情がこもっているのだと、シズクは知っていた。

 母の月命日に、いつも花を摘んで、墓前に供えている。

 そんな父の後ろ姿を見るのが好きだった。


(帰りたかったのか……な?)


 父オルガは、母のことと同様に、ノエムのことも一切語らなかった。

 それは、もう二度と戻るつもりがないからだろうと、シズクは思っていたのだが……。


「まさか……ね」


 カナの言葉が脳裏をよぎる。


 ――事態が改善するまで、待つのは良いけど、事が起きた時、果たしてすぐに対処できるのか?


 まさか、そのすぐ後に、急転直下であんなことが起こるなんて、想像もつかなかった。

 あの時、シズクはただ……周章狼狽して、震えることしか出来なかった。


(どうしたらいいんだろう?)


 迷ったところで、答えが出ない。

 よりにもよって、シエットの面々にシズクの正体がばれてしまったのだ。


 ――何処か遠い領地の貴族の子供で、母はシエット。


 今まで、シエットに限らず、近所の住民もそういう共通認識で、シズクのことを腫物扱いしていたのだ。


(この期に及んで、ノエムの人間だってばれちゃったら……)


 もう、ここにはいられないかもしれない。

 ――それでも、記憶にもないノエムになど行く気は、さらさらない。


(そうだよな……)


 元々、シズクには居場所なんて何処にもなかったのだ。

 漠然とした暗い気持ちが、じわじわと競り上がって、心臓を締め付ける。

 だけど、屋敷に戻ったころで、ターニャを責めることなんてできるはずがなかった。

 結局、お互い、今日の出来事を掻い摘んで話しただけで、感情をあらわにすることはなかった。


(仕方ないよ……)


 彼女の故郷はノエムだ。もう何十年も帰ってない。

 戻りたくて当然だ。

 手紙一枚、故郷に送ることもできない環境の中、主人の死後もクリアラに留まることになってしまったのだから、シズク以上に彼女は心細かったはずだ。

 どうしようもないことだと、シズク自身自分に言い聞かせているが、それでも、おもいっきり感情を曝け出すことができる何かが欲しかった。


(……て、まさか、ナナンに話を聞いてもらう訳にもいかないしなあ)


 良いのか悪いのか、サリファの不在に乗じて、ライとカナが屋敷に住み着いてはいるが、話した時点で軽く一蹴されるだけだろう。


(ノエムに行ったら、意外に面白いかもよ……とか言われちゃいそうだよ)


 ……とはいえ、まさかユクスに相談することもできない。

 彼には立場があるのだ。困らせたくもない。


(……だとすると)


 最悪だ。

 考えてみたら……いや、考えてみなくても、シズクには相談相手が一人もいないのだ。

 これが……今のシズクの小さな世界。

 友達すら満足にいやしない。


(駄目だ……もう)


 逃げ出したいけど、それを実行する能力がなかった。

 ただ眠れない、もやもや感に打ちのめされて、シズクは人が寝静まった深夜に屋敷を飛び出した。

 見張りがついているので、遠くには行けなかったが、どうせ追われるのなら……と、なるべく彼らから離れたところを目指した。

 雪の中をざくざくと音を立てて歩く。

 足場の悪い暗闇の中を黙々と歩いて、どのくらいの時間を費やしたのだろう。

 シエットの集落に出る途中の石の上で、ランプが人影を照らし出した。


「…………えっ?」


 そこにべたっと胡坐をかいている少女の姿に、シズクは本気で腰を抜かしそうになった。


「いや……あの!?」

「……夜中に、騒がしい奴だな?」


 カナは、とっくにシズクの存在に気づいていたようだった。振り向きもしない。


「雪……あるよね。冷たくないの?」

「ああ、おかげで尻が濡れて寒くて仕方ないよ」 


 カナは前を見据えたまま、静かに答えた。

 くすんだ茶髪がランプの明かりで緋色に染まっている。


「だったら、どうして、そんなところにいるの? もう遅いし、寝たら?」

「眠れないんだよ……」

「ああ、そうなんだ。君も……」

「先輩と同部屋だろう。恋愛話になると、面倒だからな」


 そうだった。

 一瞬忘れていたが、二人は恋敵だったのだ。


「……なんか、一気に現実に戻されたようだよ。僕の悩みも君の悩みも大差ないんだって……」

「あのな……恋患いは、時に命に関わるかもしれないんだぞ。舐めない方がいい」

「そんなに、サリファさんが好きなんだ?」

「先生を好きなのは、先輩だよ。私じゃない」

「そうなの?」

「色々と難しいんだよ」


 大人の世界は……と続くのかと思って、どきりとした。

 カナは、あどけない少女だ。そんなに、シズクと年も変わらないだろうに……。


(この子……どこか達観しているというか)


 少しサリファに通じるものがあるが、彼とも何処か違う。

 異質な存在……。

 それは少し、今のシズクと似ているような気がしていた。


「君が言った通りになってしまったような気がするよ」


 シズクはなるべく感情を押し殺して、冷淡に告げた。


「あれは、まあ教訓みたいなものだよ。私の……」


 カナも素っ気なく答える。

 雪の降らない夜は静かだった。雲の隙間から、丸い月が覗いて、辺りを白く染めだす。

 カナの藍色の瞳は月を追っていた。

 その姿が何処か儚げで……人のものとは思えなかったから、気が付けばシズクの口からぽろりと本音が漏れていた。


「僕は……これから、どうすれば良いんだろうね?」

「んっ?」

「あっ、いや……ごめん」


 すぐさま謝ったものの、カナは気にしたふうでもなく、これもまたぞんざいに答えた。


「そうだな。ノエムに君の存在がばれたんだ。少なくとも、このままではいられないだろう」

「……そうだよね。僕もそう思う」


 それくらいは分かっている。

 しかし、その先が分からないのだ。

 落ち着きなく、地面の雪を蹴ると、つんと靴の中が冷たくなった。


「でもね、僕はノエムには行きたくない。だけど、クリアラの州公も嫌いなんだ」

「……そう」

「本当は、もっと広い世界が見たいし、いろんなことがしたいし。……友達だって沢山欲しいな」

「そっか」


 何も考えずぶつけたシズクのむき出しの感情に、カナは何度か頷いた。


「だったら、力をつけないとな」

「えっ?」

「広い世界で生きていくためには、力をつけなくちゃ……。特に君のような立場の人間はな。ぼうっとしていると、寝首を掻かれるぞ。何が正しくて間違っているのか、表層のことだけに騙されないようにしなければ……」

「カナは見た目によらず……大人だね?」

「残念ながら、サリファ大先生の受け売りだよ」


 少しだけ……はにかんだ笑みを浮かべたカナの感情の機微に、シズクは気づいていた。


「やっぱり、サリファさんのことが好きなんだね」

「………………分かる……のか?」


 カナがぎょっとしているのが分かった。

 もはや、隠しようがないと察したのだろう。唇をすぼめて、ばつが悪そうにしている。


「何処がいいのか分からないけど、サリファさんの話をしている時のカナは、きらきらしてる。本当は、心配なんでしょう?」

「…………そう……だな。心配だよ。……ある意味、とてもな」


 シズクには想像できない、深い感情を込めて頷いたカナは、すくっとその場から立ち上がると、照れ隠しのつもりか、シズクの伸びた髪を両手でくしゃくしゃに乱してしまった。 


「ああっ、ちょっ……ちょっと。カナっ! やめてよ!」


 意外に力が強い。

 いや、そういうことじゃなくて。


(…………あれ?)


 ……なんか……懐かしい。


(この手の感触が?)


 ずっと以前、何処かで、シズクは同じようなことをされた記憶があった。


(あれは、いつの……?)


「ほら、シズク君……」 

「えっ?」


 夢の中の世界にいるようで、呆然としていたら、完全に雲が取り覗かれた月から明るい光が降り注いでいた。

 月影の下で佇むカナの姿は、普段感じないけど、何処か神聖で近寄りがたかった。


「今日、満月……だったんだね」


 見上げれば、大きな丸い月が天上に輝いていた。

 ティファレトの月は少し赤い。独特なのだとシズクに教えてくれたのは、父だったような気がする。


「見てみろよ。シズク君」

「……えっ?」


 そして、カナが人差し指を崖下に向ける。


 ――そうだった。 カナがいた石の先は険しい崖だ。


 ごつごつの岩肌を経て、海が広がっているはずだった。

 普段、ランプの明かりでも分からない真っ暗な夜の風景。それなのに、今……辺りは真昼のように、いや、真昼以上に神々しく青く煌めいている。


(――月光……? いや、雪が月明かりに反射しているのか……。違う……そうじゃなくて。…………花なのか?)


「どうも……ここには光草以外にも、王都の雑多な植物が運び込まれた形跡があるようだな」


 カナが不敵に微笑していた。

 岩全体が淡く青光りしているように映った。

 不思議な光景だ。今までずっとここで生きてきたけど、一度だって、こんなことはなかった。


「……カナ? これは一体……?」


 ぼうっと発光しているように見えるカナの姿が……美しいほどに怖かった。

 白っぽい貫頭衣を着ているので、尚更……。毒のように……綺麗なのだ。


「羨ましいか?」

「…………えっ?」


 何が……と、問い返すことが出来なかった。

 喉が渇いて、ごくりと、喉を鳴らす。

 自分の知らない世界の入り口の前に、ちょこんと立っているような気がして、その先に行きたいような、行きたくないような……複雑な思いがあった。

 ――と、背後で足音がした。


「…………あっ」


 薄闇の中、立ちつくとしていたのはユクスだった。

 明らかに、動揺している。


「あの……」


 彼が発した言葉を合図に、今までの光は嘘のように消え去り、何事もなかったかのように、静かな夜が戻ってきた。


「何だ。口やかましい公子様じゃないか……。ずいぶん夜中に出張って来るんだな?」


 カナはいつもと変わらない様子で、ユクスと向かい合った。

 つっけんどんな物言い。

 このままの彼女も可愛いと思うけれど、先程の神々しさはない。

 だが、直立したままのユクスは、明らかにうろたえていた。

 きっと、一部始終を見ていたに違いない。

 ランプの明かりを近づけなくとも、彼の顔が真っ赤になっていることは、確認できそうだった。


「どうしたんだ? 公子様には従者もいないのか……?」

「いる。けど、今は……シズクの屋敷の中で待たせている。屋敷に行ったら、シズクがいなかったから……」

「それならいいけど。いくらなんでも一人でこんなところに来るのは不用心だから」

「そうだな。確かに不用心だった」


 上の空で、答えるユクスは、心ここにあらずといったふうに、吸い込まれるように、カナを見つめていた。

 ユクスの何とも言えない視線に気づいていないのか、カナは大きな欠伸を一つして、おもいっきり伸びをしている。


「……で、用件は? シズク君の対処法を州公様が決めたのか?」

「あっ、ああ……」


 カナにうながされて、ユクスはようやく本題に入ったのだった。

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