①
遠い昔……。
シズクが何度も父に問いかけた言葉があった。
「……お母様は、どんな人だったんですか?」
シズクは母の記憶がない。
母に親族の一人でもいれば良かったが、生憎母には家族がいなかった。
唯一、分かっていることは、シエットという一部の階級の者達と縁があったことくらいだ。
だから、きっとシエットの階級の人だったのだろう。
城の裏手で採掘を行っていること、大きくなったら彼らの助けになることを、父はシズクに言い聞かせていた。
父は優しい人だった。
不健康で外に出ないのか、それ以前に外に出ることが出来ない理由があるのか……その頃のシズクには分からない謎めいた人だったが、それでも、屋敷の中に父がいると、その場がぴんと張った凛然とした気配があって、幼いシズクは父に対して憧憬を抱いていた。
読書が好きで、音楽の才能があって、最高に頭の良い自慢の父オルガ。
けれど、普段は、よく喋る父が言葉を濁す質問がそれだった。
――母のこと。
特にターニャがいると、少しばつが悪そうに答える。
「素敵な女性だったよ……」
たった一言だけ、迷いながら……。
それでも、その一言には愛情がこもっているのだと、シズクは知っていた。
母の月命日に、いつも花を摘んで、墓前に供えている。
そんな父の後ろ姿を見るのが好きだった。
(帰りたかったのか……な?)
父オルガは、母のことと同様に、ノエムのことも一切語らなかった。
それは、もう二度と戻るつもりがないからだろうと、シズクは思っていたのだが……。
「まさか……ね」
カナの言葉が脳裏をよぎる。
――事態が改善するまで、待つのは良いけど、事が起きた時、果たしてすぐに対処できるのか?
まさか、そのすぐ後に、急転直下であんなことが起こるなんて、想像もつかなかった。
あの時、シズクはただ……周章狼狽して、震えることしか出来なかった。
(どうしたらいいんだろう?)
迷ったところで、答えが出ない。
よりにもよって、シエットの面々にシズクの正体がばれてしまったのだ。
――何処か遠い領地の貴族の子供で、母はシエット。
今まで、シエットに限らず、近所の住民もそういう共通認識で、シズクのことを腫物扱いしていたのだ。
(この期に及んで、ノエムの人間だってばれちゃったら……)
もう、ここにはいられないかもしれない。
――それでも、記憶にもないノエムになど行く気は、さらさらない。
(そうだよな……)
元々、シズクには居場所なんて何処にもなかったのだ。
漠然とした暗い気持ちが、じわじわと競り上がって、心臓を締め付ける。
だけど、屋敷に戻ったころで、ターニャを責めることなんてできるはずがなかった。
結局、お互い、今日の出来事を掻い摘んで話しただけで、感情をあらわにすることはなかった。
(仕方ないよ……)
彼女の故郷はノエムだ。もう何十年も帰ってない。
戻りたくて当然だ。
手紙一枚、故郷に送ることもできない環境の中、主人の死後もクリアラに留まることになってしまったのだから、シズク以上に彼女は心細かったはずだ。
どうしようもないことだと、シズク自身自分に言い聞かせているが、それでも、おもいっきり感情を曝け出すことができる何かが欲しかった。
(……て、まさか、ナナンに話を聞いてもらう訳にもいかないしなあ)
良いのか悪いのか、サリファの不在に乗じて、ライとカナが屋敷に住み着いてはいるが、話した時点で軽く一蹴されるだけだろう。
(ノエムに行ったら、意外に面白いかもよ……とか言われちゃいそうだよ)
……とはいえ、まさかユクスに相談することもできない。
彼には立場があるのだ。困らせたくもない。
(……だとすると)
最悪だ。
考えてみたら……いや、考えてみなくても、シズクには相談相手が一人もいないのだ。
これが……今のシズクの小さな世界。
友達すら満足にいやしない。
(駄目だ……もう)
逃げ出したいけど、それを実行する能力がなかった。
ただ眠れない、もやもや感に打ちのめされて、シズクは人が寝静まった深夜に屋敷を飛び出した。
見張りがついているので、遠くには行けなかったが、どうせ追われるのなら……と、なるべく彼らから離れたところを目指した。
雪の中をざくざくと音を立てて歩く。
足場の悪い暗闇の中を黙々と歩いて、どのくらいの時間を費やしたのだろう。
シエットの集落に出る途中の石の上で、ランプが人影を照らし出した。
「…………えっ?」
そこにべたっと胡坐をかいている少女の姿に、シズクは本気で腰を抜かしそうになった。
「いや……あの!?」
「……夜中に、騒がしい奴だな?」
カナは、とっくにシズクの存在に気づいていたようだった。振り向きもしない。
「雪……あるよね。冷たくないの?」
「ああ、おかげで尻が濡れて寒くて仕方ないよ」
カナは前を見据えたまま、静かに答えた。
くすんだ茶髪がランプの明かりで緋色に染まっている。
「だったら、どうして、そんなところにいるの? もう遅いし、寝たら?」
「眠れないんだよ……」
「ああ、そうなんだ。君も……」
「先輩と同部屋だろう。恋愛話になると、面倒だからな」
そうだった。
一瞬忘れていたが、二人は恋敵だったのだ。
「……なんか、一気に現実に戻されたようだよ。僕の悩みも君の悩みも大差ないんだって……」
「あのな……恋患いは、時に命に関わるかもしれないんだぞ。舐めない方がいい」
「そんなに、サリファさんが好きなんだ?」
「先生を好きなのは、先輩だよ。私じゃない」
「そうなの?」
「色々と難しいんだよ」
大人の世界は……と続くのかと思って、どきりとした。
カナは、あどけない少女だ。そんなに、シズクと年も変わらないだろうに……。
(この子……どこか達観しているというか)
少しサリファに通じるものがあるが、彼とも何処か違う。
異質な存在……。
それは少し、今のシズクと似ているような気がしていた。
「君が言った通りになってしまったような気がするよ」
シズクはなるべく感情を押し殺して、冷淡に告げた。
「あれは、まあ教訓みたいなものだよ。私の……」
カナも素っ気なく答える。
雪の降らない夜は静かだった。雲の隙間から、丸い月が覗いて、辺りを白く染めだす。
カナの藍色の瞳は月を追っていた。
その姿が何処か儚げで……人のものとは思えなかったから、気が付けばシズクの口からぽろりと本音が漏れていた。
「僕は……これから、どうすれば良いんだろうね?」
「んっ?」
「あっ、いや……ごめん」
すぐさま謝ったものの、カナは気にしたふうでもなく、これもまたぞんざいに答えた。
「そうだな。ノエムに君の存在がばれたんだ。少なくとも、このままではいられないだろう」
「……そうだよね。僕もそう思う」
それくらいは分かっている。
しかし、その先が分からないのだ。
落ち着きなく、地面の雪を蹴ると、つんと靴の中が冷たくなった。
「でもね、僕はノエムには行きたくない。だけど、クリアラの州公も嫌いなんだ」
「……そう」
「本当は、もっと広い世界が見たいし、いろんなことがしたいし。……友達だって沢山欲しいな」
「そっか」
何も考えずぶつけたシズクのむき出しの感情に、カナは何度か頷いた。
「だったら、力をつけないとな」
「えっ?」
「広い世界で生きていくためには、力をつけなくちゃ……。特に君のような立場の人間はな。ぼうっとしていると、寝首を掻かれるぞ。何が正しくて間違っているのか、表層のことだけに騙されないようにしなければ……」
「カナは見た目によらず……大人だね?」
「残念ながら、サリファ大先生の受け売りだよ」
少しだけ……はにかんだ笑みを浮かべたカナの感情の機微に、シズクは気づいていた。
「やっぱり、サリファさんのことが好きなんだね」
「………………分かる……のか?」
カナがぎょっとしているのが分かった。
もはや、隠しようがないと察したのだろう。唇をすぼめて、ばつが悪そうにしている。
「何処がいいのか分からないけど、サリファさんの話をしている時のカナは、きらきらしてる。本当は、心配なんでしょう?」
「…………そう……だな。心配だよ。……ある意味、とてもな」
シズクには想像できない、深い感情を込めて頷いたカナは、すくっとその場から立ち上がると、照れ隠しのつもりか、シズクの伸びた髪を両手でくしゃくしゃに乱してしまった。
「ああっ、ちょっ……ちょっと。カナっ! やめてよ!」
意外に力が強い。
いや、そういうことじゃなくて。
(…………あれ?)
……なんか……懐かしい。
(この手の感触が?)
ずっと以前、何処かで、シズクは同じようなことをされた記憶があった。
(あれは、いつの……?)
「ほら、シズク君……」
「えっ?」
夢の中の世界にいるようで、呆然としていたら、完全に雲が取り覗かれた月から明るい光が降り注いでいた。
月影の下で佇むカナの姿は、普段感じないけど、何処か神聖で近寄りがたかった。
「今日、満月……だったんだね」
見上げれば、大きな丸い月が天上に輝いていた。
ティファレトの月は少し赤い。独特なのだとシズクに教えてくれたのは、父だったような気がする。
「見てみろよ。シズク君」
「……えっ?」
そして、カナが人差し指を崖下に向ける。
――そうだった。 カナがいた石の先は険しい崖だ。
ごつごつの岩肌を経て、海が広がっているはずだった。
普段、ランプの明かりでも分からない真っ暗な夜の風景。それなのに、今……辺りは真昼のように、いや、真昼以上に神々しく青く煌めいている。
(――月光……? いや、雪が月明かりに反射しているのか……。違う……そうじゃなくて。…………花なのか?)
「どうも……ここには光草以外にも、王都の雑多な植物が運び込まれた形跡があるようだな」
カナが不敵に微笑していた。
岩全体が淡く青光りしているように映った。
不思議な光景だ。今までずっとここで生きてきたけど、一度だって、こんなことはなかった。
「……カナ? これは一体……?」
ぼうっと発光しているように見えるカナの姿が……美しいほどに怖かった。
白っぽい貫頭衣を着ているので、尚更……。毒のように……綺麗なのだ。
「羨ましいか?」
「…………えっ?」
何が……と、問い返すことが出来なかった。
喉が渇いて、ごくりと、喉を鳴らす。
自分の知らない世界の入り口の前に、ちょこんと立っているような気がして、その先に行きたいような、行きたくないような……複雑な思いがあった。
――と、背後で足音がした。
「…………あっ」
薄闇の中、立ちつくとしていたのはユクスだった。
明らかに、動揺している。
「あの……」
彼が発した言葉を合図に、今までの光は嘘のように消え去り、何事もなかったかのように、静かな夜が戻ってきた。
「何だ。口やかましい公子様じゃないか……。ずいぶん夜中に出張って来るんだな?」
カナはいつもと変わらない様子で、ユクスと向かい合った。
つっけんどんな物言い。
このままの彼女も可愛いと思うけれど、先程の神々しさはない。
だが、直立したままのユクスは、明らかにうろたえていた。
きっと、一部始終を見ていたに違いない。
ランプの明かりを近づけなくとも、彼の顔が真っ赤になっていることは、確認できそうだった。
「どうしたんだ? 公子様には従者もいないのか……?」
「いる。けど、今は……シズクの屋敷の中で待たせている。屋敷に行ったら、シズクがいなかったから……」
「それならいいけど。いくらなんでも一人でこんなところに来るのは不用心だから」
「そうだな。確かに不用心だった」
上の空で、答えるユクスは、心ここにあらずといったふうに、吸い込まれるように、カナを見つめていた。
ユクスの何とも言えない視線に気づいていないのか、カナは大きな欠伸を一つして、おもいっきり伸びをしている。
「……で、用件は? シズク君の対処法を州公様が決めたのか?」
「あっ、ああ……」
カナにうながされて、ユクスはようやく本題に入ったのだった。




